第二話 誰も礼を言わない治療院
朝、治療院の前に小さな籠が置かれていた。
中には乾いたパンが二つと、赤い林檎が一個。
手紙はない。
「お父さん、贈り物?」
ミウが覗き込む。
「たぶん、昨日の患者さんのお母さんからだろう」
「じゃあ、お礼を言いに行こうよ」
「どなたが置いてくれたのか、まだ分からないんだ」
オズマは言いよどんだ。
昨日の母親の住所は帳面にある。
ただ、患者の家を訪ねて『私を覚えていますか』と尋ねるのは、もうやめた。
昔それをして、治ったばかりの人を泣かせてしまったことがある。
市場へ薬草を買いに行くと、魚屋の老人が声を掛けてきた。
「治療院の先生だろ。昨夜、うちの孫が助かったそうだ」
「よかったですね」
「孫は先生を覚えていない。娘は妙なことを言うし、何か悪い魔法じゃないのか」
老人の目には警戒があった。
オズマは反論しなかった。
疑われる理由は理解できる。
「身体に異変があれば、いつでも来てください」
「また忘れさせるつもりか」
老人は吐き捨て、背を向けた。
薬草店の女主人サーラが、その様子を見ていた。
「相変わらず、言い返さないんだね」
「説明しても、怖がらせるだけです」
「怖がるかどうかは、聞いた人が決めることさ」
サーラは薬草を包み、余分に一束入れた。
オズマが代金を差し出すと、彼女は首を振る。
「これは私から。あんたが五年前に助けたうちの弟、今じゃ三人の子の父親だよ。本人は忘れたけど、私は覚えてる」
オズマは思わず顔を上げた。
サーラの弟は崖から落ち、片腕が潰れていた。
治した直後、弟は彼を見て『誰だ』と言った。
それきり会っていない。
「元気なんですね」
「うん。毎年春になると、家族で花見に行くんだ」
それだけで充分だった。
だがサーラは、さらに言った。
「覚えている人間が一人もいないなんて、思うんじゃないよ」
治療院に戻る途中、教会の鐘が鳴った。
広場では、王立施療院への寄付を募る演説が行われていた。
立派な衣装の治癒師が壇上で、救った患者たちから花束を受け取っている。
ミウは父の手を握った。
「お父さんも、あそこに立てる?」
「私はここでいいんだ」
「でも、お父さんもいっぱい助けてるよ」
「そうだね」
「どうして誰もお父さんの名前を呼ばないの?」
オズマは答えに詰まった。
娘には何度も能力を説明してきた。
だが七歳の子供にとって、知っていることと納得することは別だった。
午後、治療院に足を引きずる男が来た。
工事場で石が落ち、足首を潰したという。
男は治癒を受ける前に尋ねた。
「噂は本当か。あんたに治されると、あんたのことを忘れるのか」
「本当です」
「なら、最初に名前を書いてくれ」
男は自分の手帳を差し出した。
「忘れたら読み返す。恩人を知らないまま生きるのは嫌だ」
オズマは丁寧に名前を書いた。
『治癒師オズマ』。
その下に、治療の日付と症状も記した。
治療は成功した。
男は目を開き、足を動かして驚いた。
手帳を見せると、しばらく黙って文字を追った。
「……俺は、あんたに助けられたのか」
「そう書いてあります」
「信じる。俺の字じゃないが、俺が頼んだんだろう」
男は立ち上がり、深々と頭を下げた。
すると手帳の端から、治療前に挟んだ石工の見積書が落ちた。
男はそれを拾い、足を試すように一歩踏み出した。
「明日、屋根の修理に戻れる」
礼の言葉以上に、その足音がオズマには嬉しかった。
「覚えていなくて悪い。ありがとう、オズマ先生」
その言葉は、記憶から生まれた礼ではなかった。
けれどオズマには、十分すぎるほどだった。
男が帰ると、ミウが得意げに笑った。
「ほらね。忘れても、ありがとうって言えるんだよ」
「そうだね」
「じゃあ私も書いておく」
ミウは父の帳面の余白に、まだ不揃いな字を書いた。
『わたしのおとうさんは、オズマです』。
オズマはその文字を指でなぞった。
何度も読み返すうちに、文字が滲んだ。
夜、サーラから届いた薬草を棚にしまいながら、彼は考えた。
自分が消えても、残るものはある。
誰かの足であり、家族との時間であり、手帳の一行だ。
だがその希望のすぐ隣には、怖さもあった。
紙に書けば取り戻せるのは事実だけだ。
抱きしめられた温もりや、呼び慣れた声は戻らない。
オズマは娘の文字の上に透明な油紙を重ねた。
雨で濡れないように。
いつか何かが起きても、この一行だけは残るように。
「お父さん、明日もお仕事?」
「もちろん」
「じゃあ、明日は一緒にお昼を食べようね」
「約束だ」
その約束を、今度は帳面ではなく胸に刻んだ。
その日の夕食には、サーラも招いた。
彼女は鍋いっぱいの野菜煮込みを持ってきて、ミウの新しい看板の字を褒めた。
「字は曲がってるけど、元気がある」
「曲がってないよ!」
「じゃあ、少し踊っているんだね」
ミウは笑い、匙を握り直した。
食事が終わると、サーラはオズマに古い封筒を渡した。
五年前、弟が退院したときに書いたものだという。
『治療を受ける前に書いておく。
もし俺が先生を忘れたら、姉さん、どうか俺の代わりに礼を言ってくれ』。
封筒の紙は黄ばんでいた。
オズマは一文字ずつ読んだ。
治療前の弟は、忘れることを怖がっていた。
治った今の弟はその恐怖すら覚えていない。
「弟はね、この手紙を読んで、毎年先生に贈り物をしたいと言うんだ。でも毎年初対面になるのが怖いって」
「無理をさせないでください」
「分かってる。だけど、あの子が元気なのはあんたのおかげだよ」
オズマは封筒を返そうとしたが、サーラは首を振った。
「持っていな。書いた本人より、あんたが持つべきものだ」
ミウは横から覗き込み、丁寧に封筒を父の帳面に挟んだ。
「これも宝物だね」
「ああ」
夜更け、オズマは患者の記録を読み直した。
自分が受け取った礼は少ない。
けれど家族たちが重ねた時間は、記録の外でずっと続いている。
自分の知らない場所で誰かが笑っているなら、それは決して空白ではない。
それでも彼は、ミウの眠る部屋を見た。
どれほど立派な手紙があっても、娘の声をもう一度聞くことには代えられない。
紙が残すのは道標であって、失われた思い出そのものではない。
その違いを、彼は誰より知っていた。
翌朝、ミウは診療台の横に小さな箱を置いた。
箱には『ありがとうを入れるところ』と書かれている。
「患者さんが忘れても、家族の人に書いてもらえばいいでしょ」
「みんな忙しいから、書かなくてもいいんだよ」
「書きたい人だけでいいの」
ミウは紙を十枚切り、短い鉛筆を紐で結んだ。
オズマは箱を見つめた。
礼を集めるのは、自分のためのようで気恥ずかしかった。
だが娘が一生懸命作ったものを片付ける気にもなれない。
最初に紙を入れたのは、昨日の男の妻だった。
『夫がまた子供を抱き上げられます。
ありがとうございました』。
次は足の悪い老婆の孫。
『おばあちゃんと市場へ行けました』。
夕方、箱の底には三枚の紙があった。
ミウは数を数えて満足そうにうなずいた。
「三人も覚えてくれてる」
「三人だけじゃないよ」
「え?」
午後、石工の男が治療院の前で立ち止まった。
オズマを知らない顔で、壁のひびを指さす。
「ここの修理、誰がやるんだい。雨が入るぞ」
昨日、痛む足を引きずって来た男だ。
「今は仕事を頼む金がない」とオズマが言うと、男は笑った。
「じゃあ今度、余り石を持ってくる。歩けるうちに人の役に立ちたいんだ」
男は自分がここで治されたとは知らない。
それでも、誰かを助けようとしている。
オズマはその背中を見送り、礼の箱に何も入れずに済む日が来たらいいと思った。
「君も、サーラさんも。今日の患者さんの家族も」
オズマはようやく、娘の言いたかったことが分かった。
礼の数を増やすための箱ではない。
忘却に奪われなかったものを、目に見える形にする箱だった。
ミウは箱の脇に、子供にも読める大きさで「ここに来た人が、元気になったことを知らせる箱」と書き足した。
「ありがとうを集めるんじゃないの?」と聞く父に、ミウは首を振る。
「お父さんが欲しいのは、お礼じゃなくて、みんなが帰れたって知らせでしょう」
オズマはその違いを、娘から教わった。
「明日も置いていい?」
「ああ。置いておこう」
夜、ミウが眠ってから、オズマは箱に一枚の紙を入れた。
『今日、娘が私のために箱を作ってくれた。
ありがとう』。
差出人の欄には、自分の名前を書いた。




