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忘却の治癒師 ~娘に忘れられても、俺は何度でも父親になる~  作者: レモンティー


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第一話 命を救った少女は、俺の名前を忘れた

雨が降っていた。

王都の外れ、石畳のひびから雑草が伸びる通りに、小さな治療院がある。

看板の文字は半分剥がれ、窓辺の花だけが手入れされていた。

治癒師オズマは、診療台の血の染みを落としていた。

三十二歳。

十年前なら、王立施療院の廊下を歩くだけで弟子たちが道を開けた。

今は市場で名前を名乗っても、誰も顔を上げない。

「先生、お願い!」

扉が開き、母親が少女を抱えて飛び込んできた。

娘の名はミーナ。

七歳。

馬車の車輪に巻き込まれ、右足は曲がり、腹には暗い痣が広がっていた。

「事故はいつだ」

「半刻ほど前です。ほかの治癒院では、お金がないなら帰れと……」

「もういい。ここに寝かせて」

オズマは手を洗い、呼吸と脈を確かめた。

骨折より腹の出血が危険だった。

少女の意識は途切れかけている。

「ミーナ、聞こえるか。今から痛みを取る。怖かったら、私の手を握っていていい」

少女は細い指で彼の袖をつかんだ。

「……死んじゃう?」

「死なせない。約束する」

母親がその言葉にすがるように息を吸った。

オズマは胸に手を置き、金色の魔力を流した。

破れた血管を一本ずつ塞ぎ、折れた骨を正しい位置へ導く。

魔法は万能ではない。

間違えば血が固まり、臓器を傷める。

だから彼は、光の向こうにある身体の形を、息を詰めて確かめ続けた。


やがて少女の呼吸が深くなった。

痣が薄れ、足の腫れが引いていく。

母親が泣きながら名前を呼ぶ。

「ミーナ!」

「……お母さん?」

「よかった、本当によかった!」

少女は起き上がり、オズマを見て笑った。

「先生、ありがとう」

その一瞬が、彼にとって何よりの報酬だった。

だが少女は瞬きをすると、戸惑ったように首を傾げた。

「……あれ。おじさん、誰?」

母親が驚いて説明する。

少女は話を聞いて理解したようにうなずいたが、つい先ほど袖を握ったことも、彼が交わした約束も思い出せなかった。

オズマの治癒には代償がある。

治された人間は、治療が終わった瞬間までに持っていた、彼についての個人的な記憶をすべて失う。

名前だけでなく、顔も声も、共に過ごした時間も。

母親の記憶は消えない。

紙に書かれた記録も消えない。

治療後に出会い直せば新しい記憶は作れるが、再び治療すればそれも失われる。

患者の心からだけ、彼は跡形もなく消える。

「先生、娘は大丈夫でしょうか」

「身体は大丈夫です。記憶については……私のことだけです」

母親は礼を繰り返し、娘の手を引いて帰った。

少女は最後まで知らない人にするように会釈した。

扉が閉じると、オズマは椅子に座った。

少女の握った袖には、小さな泥の跡が残っている。

彼女は治療の最中、何度も「怖い」と言った。

彼はそのたび「ここにいる」と答えた。

救えたのは命だけで、約束を一緒に覚えている未来ではなかった。

明日洗えば消える。

今日交わした約束を覚えているのは、彼だけだ。

帳面を開く。

『ミーナ、七歳。

腹腔内出血、右下肢骨折。

治療成功。

術者の記憶消失を確認』。

書き慣れた文句だった。

頁をめくるたび、同じ結末が続く。

奥の部屋から小さな足音がした。

「お父さん、まだお仕事?」

娘のミウが寝間着の裾を引きずって立っていた。

栗色の髪は寝癖で跳ね、手には古い布の兎を抱えている。

「患者さんが来ていたんだ。起こしたかい」

「ううん。雨の音。ねえ、その子、助かった?」

「ああ。元気になった」

「よかったね」

ミウは当然のように父の膝へ上がった。

オズマは娘の温かさを確かめる。

今日何人に忘れられても、この子はまだ自分を呼んでくれる。

「ミウ。私の名前を言えるかい」

「オズマ。だけど私はお父さんって呼ぶのが好き」

「どうして?」

「世界で私だけのお父さんだから」

胸の奥に、痛いほどの喜びが広がった。

娘を寝かせたあと、彼は帳面の最後の頁を開いた。

そこには患者の名前ではなく、たった一つの警告がある。

『ミウには、この力を使わない』。

書いたのは妻が亡くなった夜だ。

妻の最期に彼は治癒を試みた。

だが病はすでに手の届かないところまで進んでいた。

救えなかった。

それでも妻は、最後まで彼の名前を覚えていた。

ミウが熱を出したときも、転んで膝を擦りむいたときも、オズマは普通の薬と包帯を使った。

娘が自分を忘れる光景だけは、どうしても想像できなかった。

窓の外で雨が弱くなった。

オズマはミーナの記録に戻り、最後に一行を加えた。

『帰り際、少女は笑っていた。

私を覚えていなくても、命を救えた事実は残る』。

忘れられるのは悲しい。

けれど、その笑顔を失わせるほうがもっと悲しい。

そう思って灯りを消したとき、奥から寝言が聞こえた。

「……お父さん、明日もいる?」

オズマは扉の向こうへ答えた。

「いるよ。明日も、ここにいる」


その夜、オズマは眠れずにいた。

雨が止んだ頃、オズマは診察台をもう一度拭いた。

そこにはミーナが残した小さな指の跡がある。

彼は布を動かす手を止め、昔のことを思い出した。

治癒の代償を知ったのは十年前、瀕死の鍛冶師を救ったときだ。

治療前には何度も顔を合わせ、互いに名を呼び合っていた。

ところが治療後、鍛冶師はオズマを見て、店に来たばかりの客のように笑った。

『初めまして。

何かご用ですか』。

最初は意識の混濁を疑った。

日を置いて訪ね、昔の話をした。

鍛冶師は自分の過去を正確に覚えていた。

消えていたのは、オズマと過ごした部分だけだった。

二度目は戦場で負傷した兵士だった。

三度目は産後の母親だった。

共通するのは治療が成功したこと。

そして、患者本人だけが彼を忘れること。

その頃は必死で原因を探した。

古い魔術書を買い、王立施療院の研究室に通い、魔力の流れを変えてみた。

だが、力を弱めれば重傷は治せず、力を使い切れば記憶は失われる。

治癒を終える直前、記憶の糸がほどける感覚だけが、いつも手の中に残った。

彼が一度だけ、治療を途中で止めたことがある。

患者は彼の名前を覚えていた。

だが傷も塞がらず、痛みに震えた。

オズマはすぐに治癒を再開した。

患者は助かり、彼を忘れた。

それ以来、忘却を避けるために治療を止めることはしなかった。


翌朝、ミーナの母親が戻ってきた。

治療費の相談もあったが、それだけではない。

少女が寝言で「袖を離さないで」と繰り返したのだという。

「娘は先生を知らないと言います。でも、誰かがそばにいてくれたことだけは、夢のように感じるそうです」

オズマは泥のついた袖を見た。

記憶は戻らない。

それでも恐怖の中で少女を一人にしなかった時間は、無駄ではなかった。

母親は小銅貨を三枚置こうとした。

オズマは一枚だけ受け取り、残りを少女の靴に使うよう頼んだ。

さらに「三日後に腹痛や熱が出たら必ず来ること」と紙に書いて渡した。

少女が彼を忘れても、治療後の責任まで消えるわけではない。

歩いて帰れることが、何よりの証明だった。

母親を見送ったあと、奥の部屋から娘の声がした。

オズマは水差しを持って向かった。

ミウは朝寝坊をしたらしく、まだ寝ぼけた顔で布の兎を探している。

「ここにあるよ」

「……ありがとう」

オズマはその日のうちにミーナの診療記録に「本人には説明済み。ただし治療中の記憶なし」と追記した。

患者が忘れるからこそ、何をしたかを第三者が確かめられる形で残す。

娘を守りたいと思うのと同じくらい、ほかの家の娘にも安心して生きてほしかった。

娘は兎を胸に抱いて笑い、父の指を握った。

オズマはその小さな手をそっと握り返した。

救った人の記憶から消えることに慣れたつもりでも、娘と交わした今日の言葉だけは、いつまでも忘れたくなかった。

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