第六十一話 父親を忘れた少女が、治癒師になると言った
「お父さん、私にも医療を教えてください」
朝食の席でミウがそう言うと、オズマの手から匙が落ちた。
「……医療を?」
「はい。人を助ける仕事がしたいんです」
「君はまだ病み上がりだ。急ぐ必要はないよ」
「急いでません。だから今、始めたいんです」
ミウは前夜の日記を開いた。
そこには『お父さんと呼んだ日』とある。
次の頁には、新しい目標が一行だけ記されていた。
『私の手で、誰かを助けたい』。
オズマは娘の顔を見た。
昔のミウなら、治癒魔法の光に憧れていたかもしれない。
しかし目の前の少女は、その光が何を奪うかを知っている。
「治癒師になれば、君も……」
「お父さんの魔法を受け継ぎたいわけじゃありません」
ミウは言葉を遮らず、最後まで聞いてから答えた。
「私は、忘れられない方法を探したいんです」
診療所へ行くと、オルドが腕を組んでいた。
オズマから話を聞いたらしい。
「医療を学びたい者に、最初に教えることは一つだ」
「薬の名前ですか?」
「違う。自分に分からないことを、分からないと言うことだ」
オルドは机に三つの瓶を置いた。
透明な水、薄い塩水、消毒に使う薬液。
どれも同じように見える。
「匂いで見分けるか?」
「間違えたら危ないです」
「その通り。札が剥がれた瓶は使わない」
ミウは瓶を順番に眺め、三つとも脇に避けた。
「今日は、全部使えません」
「正解だ」
オズマは苦笑した。
奇跡の治癒があれば、取り返せると思っていた失敗が、医療の現場にはいくつもある。
薬を間違える前に止まることも、人を救う技術なのだ。
午後、診療所に少年が駆け込んできた。
妹が転び、膝から血が出ているという。
ミウは反射的に立ち上がった。
「私が!」
「まず、何を確かめる?」とオルド。
ミウは足を止めた。
「意識と、出血の量。……それから、本人に触っていいか聞きます」
運ばれてきた少女は泣いていたが、意識ははっきりしていた。
傷は浅い。
オルドの指示で清潔な布を準備し、洗浄のための水を運ぶ。
ミウは少女の手を握った。
「しみるかもしれないけど、ゆっくりやるね」
「お姉ちゃん、痛いの?」
「少し。でも、嫌だったら言って」
処置が終わると、少女はミウの顔を見上げた。
「ありがとう」
ミウは思わずオズマを見た。
「私、何も治してないのに」
「泣いている子の手を離さなかっただろう」
少女が帰ったあと、ミウは自分の手を見つめた。
魔法の光は出ない。
けれど確かに、誰かの役に立った。
夕方、オズマは診療所の棚から古い帳面を取り出した。
以前、マリアが作った初学者用の手引きだった。
紙の端は擦り切れ、表紙には小さく『焦らないこと』と書かれている。
「君のお母さんも、最初はこの帳面から学んだ」
「お母さんも?」
「ああ。彼女は私よりずっと、質問が多かった」
ミウは笑い、帳面を胸に抱いた。
「じゃあ、私もたくさん質問します」
「望むところだよ」
家へ帰る道で、オズマはふと不安を口にした。
「人を救う仕事は、思ったより辛いよ。救えないこともある」
「知っています。お父さんが、全部救おうとして苦しんだことも」
「それでも?」
「だから、一人でやらない仕事にしたいんです」
オズマは足を止めた。
かつて自分は、娘に何を残せるかと恐れていた。
今、娘が欲しがっているのは、奇跡でも名誉でもない。
誰かと一緒に人を助ける方法だった。
「明日も診療所へ来るかい?」
「はい。でも、お父さんは休憩してください」
「初日から厳しい先生だね」
「まだ生徒です」
二人は笑って歩いた。
ミウは日記の新しい頁に、最初の授業の言葉を書き込んだ。
翌週、ミウは町の井戸端で、手を切った老人に出会った。
傷は小さかったが、老人は手当てを嫌がった。
「昔、薬でかぶれたことがある」
ミウはすぐに触れず、何を使ったかを聞いた。
老人は覚えていなかった。
診療所へ同行してもらい、オルドにそのことを伝える。
結果、刺激の少ない方法で処置ができた。
「無理やり押さえつけられなかったのは初めてだ」と老人は言った。
ミウは嬉しかったが、もっと早く説明できたはずだと反省した。
家で報告すると、オズマは「今日は何を覚えた?」と尋ねた。
「傷の治し方より、相手の話を聞くことです」
オズマは頷いた。
「私は昔、痛みを消すことばかり考えていた。痛いと言う人の話を、どれほど聞けていただろう」
ミウは父の手を見た。
その手が多くの命を救ったことは知っている。
けれど今は、同じ手が食卓で湯飲みを包んでいることも嬉しかった。
「明日も授業を受けます。お父さんも、一緒に学びましょう」
オズマは笑った。
「先生は君かな」
ミウは首を振った。
「一緒に、です」
翌朝、ミウは自分で用意した白い布を持って診療所へ向かった。
オルドは布を見て「清潔にしたつもりでも、使い方を間違えれば汚れる」と言った。
布を床に落としてしまったミウは、拾って棚に戻そうとして手を止める。
「これは、もう使えません」
オルドは頷いた。
「間違えなかった人が優秀なのではない。間違いに気づいて、止められる人が必要なんだ」
昼休み、ミウは手引きに自分の失敗を書き込んだ。
綺麗な記録だけを残したい気持ちもあったが、落とした布のことを消さなかった。
午後にはエマが訪ねてきた。
「本当に医療の仕事をするの? 毎日、病気の人を見るんでしょう」
ミウは少し考えた。
「怖いよ。でも、怖いから学びたい」
エマは笑って言った。
「じゃあ私は、文字が読めない人のために案内の絵を描こうかな」
ミウは驚いた。
「一緒にやってくれるの?」「全部は無理だけど、できることなら」
数日後、ミウは患者の話を聞く練習で、最初の失敗をした。
足の痛みを訴える老人に質問を続けると、老人は途中で黙り込んだ。
オルドが代わりに尋ねた。
「どんなときに一番困りますか」
老人はようやく答えた。
「孫の結婚式で、少しだけ踊りたいんだ」
ミウは顔を赤くした。
痛みの場所ばかり聞いて、その人が何を望んでいるかを一度も尋ねていなかった。
診察後、彼女は老人を追いかけた。
「さっきはごめんなさい。私、質問を覚えることに必死でした」
老人は笑った。
「若い先生は、これから覚えればいい」
ミウは『まだ先生ではありません』と言いかけ、代わりに頭を下げた。
翌日の教本の余白に、『症状だけでなく、患者がしたいことを聞く』と書いた。
夕食で失敗を話すと、オズマは意外にも笑わなかった。
「私も昔、似たことをしたよ。病を治すことばかり考えて、患者が何を怖がっているか聞かなかった」
ミウは匙を止めた。
「お父さんにも、そんなことが?」「何度も」
父の失敗を聞いて、彼女はほっとした。
完璧な父親の背中を追う必要はない。
間違えたら、謝り、学び直せばいい。
翌朝、ミウは教本の最初の頁に自分の名前を書いた。
その下に小さく『まだ知らないことがたくさんある』と添えた。
学ぶ理由を忘れないための、最初の約束だった。
その日の帰り、オズマは二人の描いた案内板を見た。
『ここで手を洗う』『薬は先生に確かめる』。
少し歪んだ絵が並んでいる。
「立派な仕事だ」とオズマが言うと、エマは照れた。
「私は治癒師じゃありませんよ」「それでも人を助けられる」
ミウはその言葉を日記に書き留めた。
医療の道は、誰か一人の才能だけで続くものではない。
その日の実習で、ミウは包帯をきつく巻きすぎた。
練習相手のエマが「指が冷たい」と訴える。
ミウは慌ててほどき、血の巡りを確かめた。
「教本どおりの回数だったのに」「相手の手を見て」とエマが言う。
オズマは正解を教える代わりに、もう一度巻き直す時間を与えた。
ミウは記録帳に、成功ではなく失敗を書いた。
次の患者の痛みを減らすために。
『分からないことを、分からないと言える人になる』。
それは、魔法を持たない治癒師への、最初の一歩だった。




