第六十話 初めて聞く、二度目のお父さん
オズマの誕生日から一週間後、ミウは一枚の紙を机に置いた。
『家族になった日』。
日付は、屋根の修理が終わった日でも、海で父と呼んだ日でもない。
ミウが自分の意思で「この家に帰ってきたい」と伝えた日だった。
「お祝いするの?」
エマが尋ねると、ミウは頷いた。
「でも、ただのお祝いじゃないの」
「何をするの?」
「ちゃんと伝えたいことがある」
ミウは何度も言葉を練習した。
『お父さん』。
声に出すと、まだ少し恥ずかしい。
海辺では自然に言えたのに、毎日の暮らしの中で呼ぼうとすると、知らない過去を背負うような気がしていた。
「海辺で一度呼べたんだから、もう平気じゃない?」
エマは言った。
「違うの。あのときは、海がきれいで、嬉しくて、言葉が出た。でも今日は、ちゃんと自分で決めて言いたい」
エマは少し考え、笑った。
「じゃあ、練習の相手は私じゃ駄目だね」
ミウはその日のために、もう一つ準備していた。
小さな封筒を二つ、机の引き出しに入れてある。
一つには『昔の私へ』、もう一つには『これからの私へ』と書いた。
前者には、忘れたことを責めないという言葉。
後者には、もし明日また呼び名に迷ったら、今日の気持ちを思い出すのではなく、もう一度自分で選んでいいという言葉を書いた。
エマに見せると、「せっかく決めたのに、また迷うかもしれないの?」と驚かれた。
ミウは頷いた。
「人の気持ちは変わることがあるでしょう。でも、変わるかもしれないからって、今日の気持ちを言わないのは違うと思う」
エマはしばらく考え、「じゃあ、今日のことをちゃんと祝おう」と笑った。
サーラは台所の隅に、マリアが使っていた小さな皿を置いた。
ミウはその皿を見て、「お母さんの分も?」と尋ねた。
「ええ。でも、あなたが嫌なら片づけるわ」
ミウは首を振った。
「置いてください。私が知らない家族のことも、これから少しずつ知りたいです」
夕暮れ、ミウは一人で窓辺の砂箱に触れた。
海で描いた二本の線は、もう残っていない。
代わりに、小瓶の海水と貝殻が置かれている。
ミウは砂に『ミウ』『オズマ』と書いた。
その下に、少し迷って『家族』と付け足した。
波は来ない。
けれど指でなら、いつでも書き直せる。
ミウは砂を均し、名前を消した。
消えたからといって、二人がいなくなるわけではない。
台所へ戻る前、ミウは鏡の中の自分に向かって小さく言った。
「今日は、ちゃんと伝える」
言葉はまだ少し震えた。
それでも、彼女は自分の足で食卓へ向かった。
その日の夕方、オズマは診療所で遅くまで働いていた。
急患ではない。
治療記録の整理をしているうちに、時間を忘れたのだ。
オルドが帳面を閉じた。
「帰れ」
「あと少しで終わる」
「終わらない仕事だ。今日は帰れ」
「しかし」
「お前がいなくても、明日は診療所が開く。それを覚えるのも仕事だ」
オズマは苦笑して外套を取った。
家へ戻ると、台所から甘い匂いがした。
机の上には、小さなケーキが一つ。
誕生日に食べたものと同じ形だが、今回は上に貝殻の飾りが載っていた。
「また誕生日かい?」
「違います」
ミウは少し緊張した顔で立っていた。
「今日は、何の日か知っていますか?」
「……いや」
「私が、あなたの娘になると決めた日です」
オズマは息をのんだ。
「ミウ」
「私は、昔のあなたを覚えていません」
「……ああ」
「海で『お父さん』って呼んだことは覚えています。でも、あのときの私は、嬉しくて言葉が出ただけでした。家に帰ってから、また言えなくなった」
オズマは静かに聞いていた。
「あなたは、急がなくていいと言ってくれました。私が青い皿を選んでも、豆の煮込みを焦がしても、昔の私と比べませんでした」
ミウの声が震えた。
「屋根が壊れたとき、私がここに帰ってきたいと言ったら、あなたは嬉しいと言ってくれました。昔の私を知らなくても、今の私の話を聞いてくれた」
「それは、君が大切だからだよ」
「知っています。今は、知っています」
ミウは机の端を握った。
「私が昔のあなたを愛していたことは、手紙で知りました。でも、今の私があなたを大切に思うのは、手紙に書いてあったからじゃありません」
オズマは目を伏せた。
「あなたが帰ってくる足音を聞くと、安心するんです。夕食を一緒に食べたい。明日も、来年も、この家にいたい。あなたが無理をしたら怒りたいし、嬉しいことがあったら最初に話したい」
ミウは笑った。
「だから、もう一度呼んでもいいですか?」
オズマの唇が震えた。
「もちろんだよ」
「……お父さん」
その一言で、オズマは椅子に座り込んだ。
両手で顔を覆うと、涙が指の間からこぼれた。
娘を治した夜、もう二度と聞けないと思った言葉だった。
海辺で一度だけ聞いたときは、夢のように儚かった。
今は違う。
娘は自分で考え、迷い、選んで、その言葉を差し出してくれた。
「お父さん、泣きすぎです」
「……ごめん」
「謝らないでください」
ミウは隣に座った。
昔の自分が書いた手紙にあったとおり、泣いている人のそばに座る。
それだけでいいと思った。
しばらくして、オズマが顔を上げた。
「君に、何かしてあげられるだろうか」
「あります」
「何でも言って」
「明日も、ちゃんと帰ってきてください」
オズマは涙の残る顔で笑った。
「約束する」
「それと、ケーキを食べてください。今日は焦がしてません」
「それは楽しみだ」
二人で切り分けたケーキは、少し甘すぎた。
オズマがそう言うと、ミウは眉を吊り上げた。
「蜂蜜を多めにしたんです。お父さん、甘いものが好きでしょう」
「よく知ってるね」
「最近、知ったんです」
その言葉に、オズマはまた泣きそうになった。
夜、ミウは赤い日記を開いた。
『未来の私へ』と書かれた手紙の隣に、新しい一行を記す。
『私は今日、オズマさんをお父さんと呼ぶことに決めた。
昔を思い出したからではない。
今の私が、そう呼びたいから』。
オズマはその文字を見せてもらい、頷いた。
「明日、呼びたくなくなったら?」
ミウは少し考えた。
「そのときは、また話します。でも、今日の気持ちは嘘じゃありません」
「うん」
「だから、お父さんも、自分の気持ちを隠さないでください」
オズマは窓の外を見た。
夜の町には、帰る家の灯りが点々と続いている。
彼は数え切れないほどの命を救い、そのたびに誰かの記憶から消えてきた。
だが、消えた名前が、もう一度呼ばれることもある。
昔の記憶が戻らなくても、新しい愛情が生まれることもある。
「幸せだよ、ミウ」
「私もです、お父さん」
娘の返事を聞きながら、オズマは初めて、救うことと救われることが同じ食卓に並ぶのを感じた。
翌朝、ミウは朝食の席で、昨夜と同じように「お父さん、塩を取って」と言った。
オズマは一瞬だけ手を止め、それから塩壺を渡した。
特別な日の特別な呼び名ではない。
寝癖のついた朝にも、パンの焦げた匂いの中にも、その言葉はあった。
ミウは受け取って「ありがとう」と笑った。
オズマは涙を拭かずに、いつもどおり食卓に座った。




