第五十八話 もう一度、家族になってもいいですか
家の屋根から雨漏りが始まった。
最初は小さな染みだった。
やがて天井から一滴、二滴と落ち、台所の机に置いた治療記録を濡らしかけた。
「大変!」
ミウが桶を持って走る。
オズマは帳面を抱え、フェルを呼びに行った。
修理の見積もりは予想以上だった。
屋根板を三枚替えるだけでは済まない。
古い梁の一部も傷んでいるという。
「しばらくサーラの家に泊まろう」
オズマが言うと、ミウは黙り込んだ。
「ここを出るんですか」
「修理が終わるまでだよ」
「私は、戻ってきてもいいんですか」
オズマは驚いた。
「もちろん。ここは君の家だ」
「でも、私が昔ここにいたことは、あなたが知っているだけです。今の私にも、ここを家と呼ぶ資格があるんでしょうか」
「それでも君の家だよ」
ミウは桶に落ちる水を見つめた。
ぽたり、ぽたり。
規則正しい音が、答えを急かしているようだった。
その夜、サーラの家で、ミウは小さな寝台に腰を下ろした。
「私、ずっと考えていたんです。オズマさんが親切なのは、昔の私を知っているからなのかなって」
サーラは洗濯物を畳む手を止めた。
「そういう気持ちもあるでしょうね」
「じゃあ、昔の私と違う私になったら、困らせるんじゃないかって」
「オズマは困るかもしれないわ。父親だって人間だもの。でも、困ることと、あなたを大切にしなくなることは別よ」
ミウはその言葉を胸に留めた。
翌朝、修理を手伝いに来たエマが、濡れた本を一冊抱えていた。
「これ、乾かせば読めるかな」
ミウが頁をめくると、紙の端に昔の落書きがあった。
『ここは私の家。
雨の日はパンを焼く』。
「昔の私、ずいぶん勝手ですね」
「今も勝手だよ」
エマが笑う。
「じゃあ、今の私も勝手なことを言っていいかな」
「いいよ」
「修理が終わったら、私がこの家の鍵を持っていたい」
「それ、もう持ってるじゃない」
「そうでした」
二人は笑った。
夕方、オズマが屋根から降りてくると、ミウは玄関で待っていた。
「話があります」
「どうした?」
「私、昔の自分を覚えていません。あなたを父親だと思える日もあれば、知らない人みたいに感じる日もあります」
「うん」
「それでも、ここに帰ってきたいです」
オズマは何も言わなかった。
「だから、もう一度、家族になってもいいですか」
屋根の上でフェルが釘を落とし、乾いた音が響いた。
オズマは笑おうとして、うまくできなかった。
「もう家族だよ、と言いたい。でも、それは私の気持ちだね」
ミウは頷いた。
「私の気持ちも、聞いてほしいです」
「聞いているよ」
「私は、あなたと暮らしたい。失敗した料理を食べて、屋根の修理で喧嘩して、また一緒に笑いたい」
オズマは娘の目を見た。
「私も、そうしたい」
「じゃあ、約束です」
ミウは右手を差し出した。
オズマはその手を握った。
治癒の夜、同じ手を握りながら失ったものがある。
今、娘は自分から手を伸ばしている。
数日後、屋根の修理が終わった。
ミウは玄関の内側に新しい札を掛けた。
『ここに住む人。
ミウ、オズマ』。
「家族って書かないの?」
オズマが尋ねると、ミウは首を振った。
「家族は、札に書かなくても分かるようになりたいです」
「そうだね」
夜、二人は修理した屋根の下で夕食を食べた。
雨はもう漏らない。
だが、ミウは桶を片づけず、窓辺に置いた。
「また漏れたら使えます」
屋根の修理が終わってから、ミウは家の仕事を紙に書き出した。
『水汲み、掃除、買い物、夕食、薬草の乾燥』。
オズマが見ると、娘の欄に仕事が多すぎた。
「半分は私がやるよ」と言うと、ミウは不満そうに眉を寄せた。
「私、ここで暮らしたいと言ったんです。お客さんじゃありません」
オズマは紙を見直した。
「じゃあ、できることを相談して決めよう」
二人は台所の机で話し合った。
重い水桶はオズマ、薬草の分類はミウ、買い物は交代。
夕食は作りたい方が作る。
ただし、どちらかが疲れたら無理をしない。
ミウは最後に『困ったら言う』と書き加えた。
「これは二人とも守ってくださいね」
オズマは頷いた。
翌日、ミウは初めて一人で夕食の買い物に出た。
途中で雨が降り、持っていた紙が濡れた。
何を買うつもりだったか、いくつか分からなくなった。
以前なら、失敗したと思って泣いたかもしれない。
けれどミウは店主に紙を乾かす場所を借り、読める文字から買い物を済ませた。
分からなかった一品は、家に帰ってオズマに尋ねた。
「豆だったと思うよ」とオズマが言うと、ミウは首を振った。
「今日は人参にします」
オズマは笑った。
「分かった」
夕食には人参のスープが並んだ。
オズマは一口飲み、「おいしい」と言った。
ミウは得意げに頷いた。
「家族会議の成果です」
夜、ミウは札の裏に小さく書き足した。
『ここに住む人は、互いに頼ってよい』。
オズマはそれを見て、胸の奥が温かくなった。
父親だから一人で支えなければならないと思っていた。
娘は、支える側にも回りたいと言っている。
家族になり直すとは、そういうことなのだろう。
「縁起でもない」
修理に使った古い梁の一部を、フェルは捨てずに残していた。
「何か作れるかもしれません」と言うので、ミウは小さな表札を頼んだ。
木目には雨染みが残っている。
「きれいな木を使った方がいいのでは」とフェルが尋ねると、ミウは首を振った。
「この木が、私たちの家を支えていたんでしょう。新しい家族の札にしたいんです」
出来上がった表札は少し曲がっていたが、ミウは玄関に掛けた。
オズマは指で木目をなぞり、「屋根から下りてきた木が、今度は入口を守るのか」と笑った。
ミウも笑った。
壊れたものを全部なかったことにせず、役目を変えて残す。
記憶を失った自分にも、そんな生き方ができる気がした。
表札を掛けた夜、ミウは外へ出て、灯りのともった窓を見上げた。
帰る場所を選んだのに、まだ不安は消えない。
「もし明日、また怖くなったら?」
オズマは隣に立った。
「そのときは、もう一度話そう」
一度の決心で、すべてを解決しなくてもいい。
ミウはそう知って、扉の取っ手に手を掛けた。
「家族なら、また一緒に直せばいいでしょう」
翌朝、ミウは表札の前で立ち止まり、自分の名前を指でなぞった。
「ここに住むって、決めたんですよね」
オズマは頷いた。
「そうだよ」
ミウは笑って扉を開けた。
誰かに連れてこられた家ではなく、自分が帰ると決めた家へ入っていく。
扉の向こうから、朝食を温める匂いがした。
その匂いを、ミウは自分の暮らしのものだと思った。
オズマは笑った。
今夜の言葉を、日記には書かなかった。
娘が明日もここで同じように話す。
その時間を、まず生きてみたかった。




