第五十七話 私の知らない私が、あなたを愛していた
赤い日記の背表紙が少し浮いていることに、ミウが気づいたのは雨の日だった。
糊の剥がれた部分から、折り畳まれた紙が一枚のぞいている。
取り出すと、表には幼い字で『未来の私へ』と書かれていた。
「……私の字だ。書いたことは覚えていないのに、文字の癖だけは分かる」
ミウは椅子に座り、ゆっくり開いた。
『もしお父さんを忘れたら、まず怖がっていいよ。
知らない人に笑いかけられたら、逃げたくなるかもしれない。
そんなときは、無理に笑わなくていい』。
ミウの指が震えた。
『でも、知ってほしいことがある。
お父さんは、私が泣いたら必ず泣き止ませてくれる人じゃない。
自分も困って、一緒に泣く人だ。
料理も下手で、時々約束を忘れる。
だけど、私が怒っても、帰る場所をなくさないでくれた』。
紙には小さな染みがあった。
涙か、雨か、今のミウには分からない。
『私はお父さんが大好き。
でも、未来の私が同じように好きにならなくても、私は怒らない。
だって未来の私は、私だけど、私の続きだから』。
そこで文章は途切れていた。
最後の行だけ、別の日に書き足されたように濃い。
『もしあの人が一人で泣いていたら、そばに座ってあげて。
何も思い出せなくても、それはできると思う』。
ミウは手紙を膝に置いた。
知らない少女の言葉だった。
けれど、文字の癖は確かに自分のものだ。
夕方、オズマが帰宅した。
濡れた外套を脱ぎ、いつものように台所へ向かう。
「今日は寒かったね」
「はい」
ミウは手紙を見せなかった。
まだ、自分の中で整理できていなかった。
夕食のあと、オズマが壊れた椅子を直していると、釘が曲がった。
「また失敗した」
「貸してください」
「危ないよ」
「釘を持つだけです」
二人で椅子を直した。
オズマが金槌を振るたび、ミウは釘がずれないよう木片で押さえた。
やがて椅子はぐらつかなくなった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
オズマは椅子に座り、深く息を吐いた。
その横顔が、手紙に書かれた『自分も困って、一緒に泣く人』と重なった。
「オズマさん。私、昔の自分が書いた手紙を見つけました」
「そうか」
「読んでほしいですか」
オズマは少し考えた。
「君が読んでほしいなら」
ミウは最後の一行だけ読み上げた。
『もしあの人が一人で泣いていたら、そばに座ってあげて』。
オズマは顔を上げなかった。
「……あの子らしい」
「私は、あの子を覚えていません」
「うん」
「でも、あの子があなたを好きだった理由は、少し分かる気がします」
オズマの肩が揺れた。
ミウは隣の椅子に座った。
慰めの言葉は浮かばなかった。
ただ、そこにいた。
しばらくして、オズマが言った。
「君が幼い頃、雷が鳴ると私の部屋に来た。怖いのは雷じゃなくて、一人でいることだと言ったんだ」
「今の私は、雷は平気です」
「知ってるよ。海の帰り、嵐でも眠っていた」
「でも、一人でいるのは、少し怖いです」
オズマはようやく顔を向けた。
「私もだよ」
ミウは手紙を半分に折った。
「これを読んで、昔の私にならなきゃいけない気がしました。でも、違いますよね」
「違う。今の君が何を感じるかが大切だ」
「じゃあ、今の私からも手紙を書きます」
彼女は新しい紙を取り出した。
長い時間をかけて、最初の一行を書いた。
『昔の私へ。
あなたが愛した人を、私はまだ全部知らない。
でも、今日その人と椅子を直したよ』。
手紙を見つけてから三日後、ミウはエマに二枚の紙を見せた。
「昔の私が書いたものと、今の私が書いたもの」
エマは読み終えると、目を赤くした。
「昔のミウ、こんなこと考えてたんだ」
ミウは頷いた。
「私も知らなかった。でも、あなたは昔の私を知ってるんでしょう」
エマは首を振った。
「全部は知らないよ。友達だって、知らないことはある」
二人は川辺に座り、昔よく遊んだという石投げをした。
エマは五回も水面を跳ねさせたが、ミウの石は一度で沈んだ。
「昔は私の方が上手だった?」と尋ねると、エマは笑った。
「昔も下手だった」
ミウはむっとして、もう一度石を投げた。
今度は二回跳ねた。
「ほら、進歩した」
二人は笑った。
帰り道、エマは言った。
「私、病気のミウに何を言えばいいか分からなくて、何度も会いに行けなかった。ごめんね」
ミウは驚いた。
「私も、知らない人みたいに見えるあなたと話すのが怖かった」
エマは足を止めた。
「それでも、今は友達でいてくれる?」「うん。今の私がそうしたいから」
二人は手をつないで橋を渡った。
家に戻ると、オズマが夕食の準備をしていた。
ミウは二枚の手紙の間に、三枚目の紙を挟んだ。
『未来の私へ。
今日、エマと友達になり直した。
昔の私が好きだった人を、今の私も好きになれることがある。
でも、同じ理由でなくてもいい』。
オズマが紙を見て微笑むと、ミウは少し照れた。
「私、書くことが増えました」「いいことだね」「でも、日記が厚くなって、また背表紙が壊れそう」
オズマは糊を持ってきた。
「そのときは、一緒に直そう」
ミウは頷いた。
今度は、未来の自分に手紙が見つかるように、きちんと封筒を挟んだ。
次の行には、『泣いている人のそばに座ることはできたよ』と書いた。
その夜、ミウは手紙をもう一度読み、最後の余白に小さな質問を書いた。
『昔の私へ。
あなたはどうして、未来の私を信じられたの?』。
答えが返るはずはない。
それでも問いを残すと、不思議と心が落ち着いた。
翌朝、オズマが庭で洗濯物を干していると、ミウが手伝いに出てきた。
二人で布を広げるうち、風が強く吹き、白い布がオズマの顔に張りついた。
ミウは笑いすぎて、洗濯籠を落としかけた。
「助けてくれ」とオズマが言う。
「治癒師なのに、洗濯物には勝てないんですね」
二人は布を押さえ、ようやく紐に留めた。
ミウはその日の出来事を新しい手紙に書き足した。
『今日は、お父さんになるかもしれない人が、洗濯物に負けた。
私は笑った』。
未来の自分に伝えたいのは、悲しいことばかりではなかった。
オズマはミウの新しい手紙を見て、「昔の君の字とは少し違うね」と言った。
ミウは紙を並べて見比べた。
「そうですね。でも、どちらも私の字です」
そして最後の一行を消さずに残した。
過去の自分に追いつくためではなく、今の自分が歩いた跡を残すために。
オズマはその手紙をしまう場所を尋ねず、娘が自分で選ぶのを待った。
書き終えると、ミウは二枚の手紙を重ねて日記に挟んだ。
ミウは洗濯籠を片づけると、手紙の裏に小さな絵を描いた。
風に負けているオズマの姿だ。
絵の横には『この人は泣くだけじゃなく、よく笑う』と書いた。
未来の自分が読んだとき、悲しみより先に笑ってほしかった。
過去の愛情を証明するためではない。
過去の自分と今の自分が、同じ人を別々の時間に大切にできる。
そのことを、未来の自分にも伝えたかった。




