第五十六話 忘れられた治癒師に届いた百通の手紙
最初の手紙は、宛名が間違っていた。
『名前を忘れられた先生へ』
封を開くと、短い文章があった。
『私はあなたを覚えていません。
でも、娘の手を握れるようになりました。
ありがとうございました』。
オズマは何度も読み返した。
送り主の名には覚えがある。
指を失いかけた織物職人だった。
だが、本人はオズマの顔も声も覚えていないはずだ。
「どうして手紙を?」
ミウは封筒の裏を見せた。
グラディスの印が押してある。
「治療記録を調べた人たちに、書記さんが手紙の案内を出したんです。本人が希望した場合だけ、返事を書いてもらいました」
「君が頼んだのか。記憶が戻った人がいるという話ではないんだね」
「はい。でも、返事が来るとは思ってませんでした。手紙は治療記録や家族の話を確かめて書いてもらったものです。誰かが突然あなたを思い出したわけではありません」
二通目は、救われた少年の母親からだった。
三通目は、戦場で足を失わずに済んだ兵士の妹。
四通目には、治癒師の名を思い出せないことが悔しいと書かれていた。
一週間後、封筒は二十通を超えた。
「百通、集めたいんです」
ミウが言うと、グラディスは首を横に振った。
「数を目標にすると、書きたくない人まで追いかけることになるわ」
「……そうですね」
「届いた言葉を大切にしましょう。百通にならなくても」
ミウは頷いた。
父のために始めたことが、誰かの負担になってはいけない。
それから二人は、手紙を集める方法を変えた。
診療所の掲示板に案内を一枚だけ貼り、希望する人には記録の写しを渡す。
病名や住所は公開しない。
返事がなければ、追いかけない。
ある日、一通の封筒に紙が入っていなかった。
代わりに小さな布切れが一枚、丁寧に畳まれている。
裏には『母が退院した日に縫ったものです。
文字が書けないので、これを』とあった。
「手紙じゃないですね」
ミウが言うと、オズマは布を掌に載せた。
「立派な手紙だよ」
さらに数日後、見覚えのない男が診療所を訪れた。
男は封筒を差し出し、固い声で言った。
「俺は感謝していない」
オズマは驚かなかった。
「そうですか」
「助かったあと、仕事を失った。治療してもらわなければ、あんな苦労はしなかったと思う日もある」
ミウが何か言いかけると、男は続けた。
「でも、息子は今も生きてる俺を見て笑う。だから、この手紙には礼も恨みも書いた。捨ててもいい」
オズマは封筒を受け取った。
「捨てません。あなたの言葉だから」
男が帰ったあと、ミウは小さく息を吐いた。
「みんな、感謝してくれると思ってました」
「そんなことはない。救われたあとの人生も、簡単ではないから」
「それでも、書いてくれたんですね」
オズマは頷いた。
季節が変わる頃、手紙は九十九通になった。
ミウは机に並べ、数を確かめた。
「あと一通」
オズマは笑った。
「百にこだわらなくていいと言われただろう」
「分かってます。でも、最後の一通は私が書こうと思うんです」
「君が?」
「私も、あなたに救われた患者だから」
ミウは紙を広げた。
けれど、すぐには書けなかった。
『ありがとう』と書くだけでは、足りない気がした。
自分を救ったために、この人は娘の記憶から消えた。
その代償を知っているからこそ、言葉が重かった。
夜遅く、オズマが灯りを消しに来ると、ミウは紙を伏せた。
「まだ内緒です」
「分かった」
「いつか、ちゃんと渡します」
百通目を渡した翌日、グラディスは一通の手紙を持ってきた。
差出人は、オズマが治療を断念した患者の家族だった。
「これも入れてほしいと言われたの」とグラディスは説明した。
オズマは封を切るのをためらった。
救えなかった人の言葉を、感謝の箱に入れてよいのだろうか。
中には『あなたは父を救えませんでした。
それでも最後まで話を聞いてくれました。
父は一人で死なずに済みました』とあった。
オズマは手紙を机に置いた。
治療記録には、亡くなった日と処置の内容しか書かれていない。
家族が何を覚えているか、彼は知らなかった。
「百一通目になりましたね」とミウが言った。
「百通で終わりにしない方がいいかもしれない」
グラディスは頷いた。
「箱を増やすのは簡単よ。でも、誰かの言葉を数だけで扱わないことね」
ミウは新しい箱を用意し、表に『届いた言葉』と書いた。
感謝だけでなく、怒りも、悲しみも、救えなかった記録も入れるためだった。
その晩、オズマはミウに言った。
「私のために、ずいぶん時間を使わせてしまった」「私がやりたいからやっています」「それでも、君の時間は君のものだよ」
ミウはしばらく考えた。
「じゃあ、明日はエマと川へ行きます。手紙の整理は休みます」
オズマは笑った。
「そうしてほしい」
翌日、川から帰ったミウは泥だらけの靴を玄関に並べた。
「今日は一通も増えてません」「それでいいよ」「でも、楽しかったです」
オズマは娘の顔を見て頷いた。
手紙の数より、娘が自分の明日を選べることの方が大切だった。
百通の手紙は、彼を縛る勲章ではなく、自由に生きていいと教える言葉であってほしかった。
翌朝、百通目の封筒が箱に入っていた。
差出人はミウ。
中にはたった二行。
手紙の箱を置く棚を作るため、フェルが木材を持ってきた。
「鍵をつけましょうか」と尋ねると、ミウは頷いた。
「読みたい人が自由に読める箱じゃないから」
フェルは鍵穴を削りながら言った。
「記録を残すのは、未来の誰かが正しく使えるようにするためです。今すぐ全部見せることではありません」
オズマはその言葉を聞いて、昔の自分なら患者の記録を自分だけで抱え込んでいたと気づいた。
守ることと、独り占めすることを混同していたのだ。
棚の鍵はグラディスが管理し、手紙を書いた人の許可があるものだけ、ミウとオズマが読むことにした。
ミウは鍵を渡しながら言った。
「大切なものは、誰かと一緒に守った方がいいんですね」
グラディスは「その通り」と答えた。
百通の封筒を数え終えたグラディスは、ミウに尋ねた。
「全部を父上に渡すのかい」
ミウは首を横に振った。
「返事を望まない人もいるし、名前を伏せたい人もいます」
二人は封筒ごとに希望を確かめ、公開してよいものだけを別にした。
百という数より、一通ずつ違う人生があることを忘れないためだった。
『あなたが救った命は、今日も自分で歩いています。
私はその命を、大切に生きます』。
その日、ミウは百通目の手紙の写しを自分の日記にも挟んだ。
いつか手紙の箱が満杯になっても、父が受け取った言葉を数だけで語らないようにするためだった。
グラディスは写しの日付を確かめ、静かに封をした。
オズマは封筒を閉じた。
誰かの感謝で自分の犠牲が消えるわけではない。
それでも、救われた人が自分の言葉で生きると告げてくれた。
その事実が、彼の長い孤独を静かに照らした。




