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忘却の治癒師 ~娘に忘れられても、俺は何度でも父親になる~  作者: レモンティー


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第五十五話 お父さんと呼べない少女

「お父さん、と呼んだらいいのかな」

ミウがそうつぶやいたのは、洗濯物を畳んでいるときだった。

オズマは布を持つ手を止めた。

「呼ばなくていいよ」

「でも、あなたは私のお父さんなんでしょう」

「そうだよ」

「それなら、呼ばないのは変じゃないですか」

「変じゃない。君が決めることだ。海辺で一度そう呼んでくれたことも、今日呼べないことも、どちらも君の本当の気持ちだよ」

ミウは口を尖らせた。

海辺で一度、自然にその言葉が出た。

けれど家に戻ると、なぜか喉の奥に引っかかる。

呼んだ瞬間、知らない七年間まで分かったふりをすることになる気がした。


その日の午後、二人は市場へ行った。

店先で魚屋が大きな声を上げた。

「おお、オズマ先生の娘さんか。お父さんに似てきたな」

ミウは固まった。

店主は悪気なく続ける。

「昔は先生の後ろを走ってたのに、もうこんなに大きくなって」

「……すみません。私は、その頃を覚えていないんです」

店主は慌てて謝った。

ミウは笑おうとしたが、頬がうまく動かなかった。

帰り道、オズマは魚の包みを持ち替えた。

「嫌な思いをさせたね」

「店主さんは悪くないです」

「そうだね」

「でも、みんなが私に『お父さん』を期待しているみたいで」

「私は期待していないよ」

「本当に?」

オズマは立ち止まった。

嘘はつきたくなかった。

「呼んでくれたら嬉しい。でも、そのために君が苦しくなるなら、聞きたくない」

ミウは黙って歩き始めた。

夕方の光が石畳を赤く染めていた。

家に着くと、台所の椅子に小さな紙が置かれていた。

『オズマさんへ。

魚を焼く前に塩を忘れないでください』。

ミウが朝書いたものだ。

「ほら、私はオズマさんって書いてます」

「読めるよ」

「怒りませんか」

「怒らない」

「じゃあ、今日はこのままで」

「もちろん」


翌日、ミウは自分から診療所を訪れた。

オズマが往診に出ている間、オルドに包帯の巻き方を教わるつもりだった。

待合室では、腕を怪我した少年が泣いていた。

母親が「大丈夫」と繰り返すほど、少年は首を振る。

ミウは隣に座った。

「痛い?」

「痛い。知らない先生に触られるの、怖い」

「私も、知らない人に大事なことを決められるのは怖いよ」

少年は顔を上げた。

「じゃあ、どうしたらいい?」

「怖いって言っていいんだよ。先生は、ちゃんと聞いてくれる」

オルドが近づき、少年に処置の順番を説明した。

少年は自分から腕を差し出した。

治療が終わると、母親がミウに礼を言った。

「あなた、オズマ先生の娘さんなのね」

ミウは少し考えた。

「はい。……でも、まだ慣れていないんです」

母親は不思議そうにしたが、それ以上は聞かなかった。

帰宅したオズマは、オルドからその話を聞いた。

「ミウが少年を落ち着かせたそうだね」

「私、何も治してません」

「怖いと言えるようにした。それは大切なことだよ」

ミウは洗った包帯を干しながら、父の横顔を見た。

「あなたも、私が怖いって言うのを待ってくれたんですね」

「待つことしかできない日もあるから」

「でも、待つのは難しいでしょう」

オズマは笑った。

「難しいよ。今もね」


その夜、ミウは自分の部屋の扉に小さな札を掛けた。

『入る前に声をかけてください』。

オズマはそれを見て頷いた。

翌朝、彼は扉を二度叩いた。

「ミウ、朝食だよ」

「はーい、オズマさん」

返事はいつもと同じだった。

それでもミウは、扉の向こうで少し笑った。

呼び名を決めるより先に、安心して返事のできる朝が増えている。

昼、彼女は日記に書いた。

数日後、ミウは市場の魚屋を一人で訪ねた。

オズマがついて行こうとすると、「今日は私が話してきます」と断った。

店主は前回の失言を気にしていたらしく、彼女を見ると深々と頭を下げた。

「悪かったな。昔の話を急にして」

ミウは首を振った。

「昔の話が嫌なわけじゃないんです。ただ、知らないことを知っているふりはできなくて」

店主は魚を一尾選びながら言った。

「俺の親父も、晩年には俺の名前を間違えた。でも魚の焼き方だけは覚えてた。人の記憶って、妙なものだな」

ミウは黙って聞いた。

自分と同じ病ではない。

だから簡単に同じだとは言えない。

それでも、名前を呼べないことと大切に思わないことは違うのかもしれない。

「今日は、オズマさんの好きな魚を教えてください」とミウは頼んだ。

店主は大きな魚を指さした。

「先生は昔、これが好きだった」「今もそうかは、帰って聞きます」

店主は声を上げて笑った。

「そりゃそうだ。俺も今の好みまでは知らん」

帰宅して魚を見せると、オズマは驚いた。

「それはマリアの好物だった魚だ」「あなたは?」「私は小さい魚の方が好きだよ」

ミウは肩を落とした。

「また昔の話に引っ張られました」

オズマは笑った。

「でも、君が買ってきたから、今日はこれを食べたい」

二人で魚を焼き、骨を丁寧に取り分けた。

ミウはその夜、魚屋で聞いた話を日記に書いた。

最後に『名前を呼ぶ前に、今の相手を知る』と付け加えた。

父と呼べない日が続いても、父を知ろうとする日々は続けられる。

彼女はそのことに、少しだけ自信を持った。

『私はまだ、お父さんと言うのが難しい。

でも、この人が帰ってくる音を聞くと安心する』。

ある朝、オズマはミウの部屋の前で足を止めた。

扉の向こうから、声を出す練習が聞こえた。

「オズマさん。先生。……おとう、さん」

最後の言葉だけ、小さく消える。

オズマは気づかれないように台所へ戻った。

呼んでほしいと願う気持ちは確かにある。

それでも、練習してまで言わせるものではない。

朝食のとき、ミウは何事もなかったように「オズマさん、パンを取ってください」と言った。

彼はいつもどおり皿を渡した。

「ありがとう」

ミウはほっとした顔をした。

オズマはその表情を見て、今朝は何も聞かなくてよかったと思った。


午後、彼はサーラに話した。

「私は待つのが下手なんだ」

サーラは笑った。

「昔からね。でも、待てるようになったじゃない」

オズマは首を振った。

「まだ練習中だよ」

その言葉を聞いたミウは、廊下の角で少し笑った。

自分だけが練習しているわけではない。

それが、何より心強かった。

その晩、ミウは扉の向こうへ声を掛けた。

「オズマさん、明日の朝、散歩に付き合ってくれますか」

すぐに「もちろん」と返事があった。

呼び方を決めるより先に、頼み事ができたことが嬉しかった。


翌朝、玄関には二人分の靴が並んでいた。

オズマは先に歩かず、ミウが戸を閉めるのを待った。

彼女はその小さな間を、忘れたくないと思った。

魚屋の「お父さんに似ている」という声に、ミウは曖昧に笑うのをやめた。

「私には昔の記憶がありません。でも今は、オズマさんと一緒に暮らしています」

店主は慌てて謝った。

オズマは何も代弁しなかった。

帰り道、ミウは「自分で言えました」と笑った。

父と呼ぶより先に、自分の言葉で関係を説明できた。

そして、その下に一行を加えた。

夕方、ミウは魚屋に礼を言うため、小さな包みを届けた。

中には二人で焼いた魚の骨を使って作った飾りが入っている。

店主は笑って受け取り、「また来な」と言った。

ミウは頷いた。

今度会うとき、店主は昔の話だけでなく、今日の話もできるだろう。

『急がなくていいと、本人が言ってくれた』。

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