第五十四話 父親のいない七年間
赤い日記を読むと決めた夜、ミウは最初の頁で手を止めた。
『今日はお父さんが、私の靴を片方なくした』
文字は幼く、行は斜めだった。
絵には靴が三つ描かれている。
「片方なくしたのに、どうして三つ?」
オズマは首を傾げた。
「二足目を買ったら、最初の靴が見つかったんだ」
「どこに?」
「私の薬箱の中」
ミウは声を立てて笑った。
父親の記憶を探すつもりで開いた日記に、間抜けな大人が出てきたのがおかしかった。
次の頁には、母マリアの名があった。
『お母さんは空の星を数えられる。
お父さんは途中で眠る』。
その次には、『お父さんは怒ると静かになる。
私は静かな方が怖い』。
ミウの笑顔が消えた。
「あなた、怒る人だったんですか」
「そうだね。間違えることもあった。日記に書かれた私は、立派な父親ばかりじゃない」
「私、何をしたんでしょう」
「薬草を勝手に煮て、煙を出した。叱ったのは危なかったから。でも、理由を聞かずに怒鳴った」
「理由は?」
「私の咳を治したかったらしい」
ミウは頁を見つめた。
そこには『お父さんがごめんと言った。
私もごめんと言った』と続いている。
「ちゃんと謝ったんですね」
「遅かったけれど」
「じゃあ、少し安心しました」
日記は、オズマを立派な父親として描いてはいなかった。
料理を焦がし、約束の時間に遅れ、疲れて娘の話を聞けなかった日もある。
そのたびに、ミウは怒ったり笑ったりしていた。
「私、ずいぶん生意気だったんですね」
「今もそうだよ」
「失礼ですね」
二人は笑った。
しかし日記が半分を過ぎた頃、ミウの指が止まった。
『今日はお父さんが帰ってこなかった。
誰かを治しに行った。
帰ってきたら、私の話を聞いてほしい』
次の頁も、その次も、オズマの帰りが遅い日の記録だった。
「……ずっと待ってたんだ、私」
オズマは喉が詰まった。
救った人々の顔は覚えている。
だが、娘が一人で待っていた夜を、彼は十分に覚えていなかった。
「ごめん」
「謝らないでください。昔の私の気持ちは、今の私には分からないから」
「それでも、待たせたのは本当だ」
ミウは日記を閉じた。
「私、あなたを責めたいわけじゃありません。でも、知りたいんです。あなたが優しかった日だけじゃなくて、私が寂しかった日も」
オズマは頷いた。
翌日、彼は診療所から一枚の古い勤務表を持ってきた。
夜間の往診が多かった年の記録だ。
ミウが数えた夜のうち、三分の一は彼が帰宅していなかった。
「どうしてこんなに働いたんですか」
「ほかに治せる人がいなかった」
「でも、私のそばにも、ほかにお父さんはいなかった」
その言葉に、オズマは何も返せなかった。
ミウは勤務表を折り、日記の隣に置いた。
「今は、夜に帰ってきますか」
「帰るよ。急患があれば、誰かと相談して決める」
「一人で決めない?」
「約束する」
午後、ミウはエマを訪ねた。
昔の自分について聞くためだった。
エマは庭の椅子に座り、少し考えてから答えた。
「ミウはね、怒ると頬を膨らませた。先生が遅い日は、玄関で本を読んでた。でも先生が帰ると、本を閉じて飛びついてた」
「寂しかったのに?」
「たぶんね。でも、嬉しかったんじゃないかな」
ミウは頷いた。
嬉しさと寂しさが同時にあることを、今なら少し理解できる。
帰宅すると、オズマは台所で夕食を作っていた。
窓の外はまだ明るい。
「今日は早いんですね」
「診療所の仕事をオルドに引き継いだ」
「怒られませんでした?」
「むしろ、もっと早く帰れと言われた」
ミウは鞄から日記を出した。
最後の白紙に、新しい一行を書いた。
『今日はオズマさんが明るいうちに帰ってきた。
私はそれが嬉しかった』
夕食後、ミウは勤務表の裏に、昔の自分が描いた星の絵を見つけた。
端に『今日はお父さんと星を見られなかった』と書いてある。
オズマは目を閉じた。
その日は山の村で疫病が起き、三日間帰れなかった夜だ。
帰宅すると娘は熱を出していた。
彼は手当てをしたが、星の約束のことは忘れていた。
「星を見たいと言ったのは、病気になる前の私ですか」「そうだよ」「今夜は晴れていますね」
ミウは窓の外を指さした。
「一緒に見ませんか」
オズマは外套を取りに立ち上がり、そこで思い直した。
「寒いから、庭に椅子を持っていこう。毛布も」
ミウは笑った。
「私、そんなに弱くないですよ」「知ってる。でも私も寒いんだ」
二人は庭で空を見上げた。
オズマは昔、マリアに教わった星座を探した。
けれど、どれがどの星だったか曖昧だった。
「覚えてないんですか」とミウが尋ねる。
「うん。君のお母さんの方が詳しかった」
ミウはしばらく星を数え、それから言った。
「じゃあ、今日は私たちの名前をつけましょう」
明るい三つの星を『焦げたパン』、細く並ぶ星を『迷子の靴』と呼んだ。
オズマは笑いすぎて、星を見失った。
夜が更ける頃、ミウは毛布の中で言った。
「昔の私が見られなかった星は、今夜の星とは違いますよね」「違うね」「でも、今日の私は見られた」
オズマは頷いた。
埋め合わせという言葉では足りない。
過去の約束を守れなかったことは消えないが、今夜の約束を守ることはできる。
翌朝、ミウは日記の古い頁に新しい紙を挟んだ。
『星を見られなかった日へ。
ずいぶん遅れたけれど、昨日は二人で見たよ』。
オズマはそれを読んで、今度は娘が眠る前に帰ろうと心に決めた。
書き終えてから、ミウはその頁をオズマに見せた。
日記の最後に、ミウは新しい見出しを作った。
『父親がいた七年間』ではなく、『これから一緒に過ごす日々』。
その違いにオズマが気づくと、ミウは少し照れた。
「昔の頁は、私が書いたものです。でも今の頁は、二人で書けますよね」
オズマは頷き、翌日の欄に『夕食の買い物』と記した。
ミウはすぐ横に『魚は私が選ぶ』と書き足した。
日記の欄外には、幼い字で「今日はお父さんに怒った」と書かれていた。
ミウは驚いた。
「私、いつもあなたが好きだったわけじゃないんですね」
オズマは笑った。
「もちろん。親子だからね」
理想化された七年間ではなく、喧嘩も仲直りもあった時間。
ミウは初めて、その不完全さを少し信じられた。
日記の後ろには、オズマの字で書かれた短い献立表が挟まっていた。
忙しい日の夕食は、ほとんど同じ料理ばかりだ。
ミウはそれを見て笑った。
「私、毎日同じものを食べていたんですか」「文句を言いながらね」
ミウは献立表の余白に今週の予定を書いた。
月曜は豆、火曜は魚、水曜はエマと一緒にパンを焼く。
「木曜は?」とオズマが尋ねる。
「あなたが決めてください。ただし、薬草を夕食に入れないで」
オズマは大げさに肩をすくめた。
二人で笑いながら献立を決める時間は、治療の予定を立てる時間とは違っていた。
誰かが生き延びるためだけではなく、明日を楽しみにするための相談だった。
ミウは予定表を壁に貼り、日記の古い献立表は捨てずに戻した。
昔の暮らしを否定するのではない。
今の暮らしに、少しずつ自分の好みを加えていくのだ。
「昔の私が寂しかったことは消せません。でも、今日の私は嬉しいです」
オズマは娘の文字を見つめた。
失った七年間を取り戻すことはできない。
だからこそ、これからの七年間を、同じ過ちで埋めたくなかった。




