第五十三話 私を救った人を、誰も覚えていない
ミウが町の広場に出かけたいと言ったのは、治療院の掲示板に新しい紙が貼られた翌日だった。
『救われた人のその後を集めています。
記憶がなくても、記録があれば教えてください』
署名はグラディス。
百冊近い治療記録を整理している書記だった。
「私も聞いてみたいんです。オズマさんがどんな人だったのか」
「私に聞けばいい」
「あなたに聞くと、救えなかった人の話ばかりになりそうです。今日は、救われた人がそのあとどう暮らしたかを知りたいんです」
オズマは反論しかけ、やめた。
確かに自分なら、救えなかった人の話を先にしてしまうだろう。
二人は広場へ向かった。
最初に声をかけたのは、荷車を押す男だった。
古い治療記録によれば、三年前、崩れた橋の下から救い出された人だ。
「オズマという治癒師を知っていますか」
男は首を傾げた。
「知らないな。俺を助けてくれた先生の名も覚えてない。だが、あの日に助かったことは覚えてる」
「どんな人でした?」
「それも思い出せない。気づいたら、橋の上に寝かされていた」
ミウは礼を言った。
次に訪ねたパン屋の女将も、怪我が治った事実は覚えていたが、オズマの顔を見ても初対面のように会釈した。
三人目の老人は、少し怒った。
「人を救ったなら名乗ればいいだろう。どうして誰も覚えていないんだ」
ミウは返答に詰まった。
オズマが口を開く前に、老人の孫が帳面を差し出した。
「おじいちゃん、これ。お母さんが残したもの」
帳面には『治癒師オズマに救われる。
本人の顔と声は治癒後に思い出せなくなった』と書かれていた。
老人は文字を読み、何度も頷いた。
「……そうか。じゃあ、俺はこの人に礼を言うべきなんだな」
「言わなきゃいけないわけじゃありません」
オズマが静かに答えると、老人は驚いて彼を見た。
「なぜだ」
「あなたが生きている。それで十分です」
帰り道、ミウは不機嫌そうに歩いた。
「十分じゃないです」
「ミウ」
「誰もあなたを覚えていない。あなたはそれを平気みたいに言う。私には、そんなの嫌です」
オズマは足を止めた。
救った相手に記憶を求めないことと、自分が傷ついていないことは別だ。
その違いを娘に隠していた。
「平気ではないよ」
ミウが振り向く。
「覚えていてほしかった人は、何人もいた。名を呼ばれたかった夜もある」
「だったら、どうして」
「それでも、救わなかった方がよかったとは思わないから」
ミウは黙った。
広場の向こうで、さっきの男が荷車を押している。
男の娘らしい子供が走り寄り、荷台に飛び乗った。
「私が見ていたいのは、ああいう景色なんだ」
オズマは言った。
「でも、あなたが見ていることを、誰かにも知っていてほしい」
ミウの声は小さかった。
翌日、彼女は一人でグラディスを訪ねた。
書記は積み上がった帳面の前で目を丸くした。
「どうしたの、ミウ」
「治療を受けた人が、先生のことを思い出せないのは知っています。でも、家族の証言や当時の記録は残っていますよね」
「あるわ。ただし、本人が公開を望まない記録もある」
「勝手に見せたりしません。まず、誰が何を知っているか確かめたいんです」
グラディスは椅子を一つ引いた。
「それなら、手伝ってくれる?」
二人は患者の名前を伏せた一覧を作り始めた。
治療の日付、治癒後の暮らし、証言の有無。
分からないところは空欄のまま残した。
その中に、治療後の記録が途切れた少年の欄があった。
オズマが救ったのは確かだが、家族の所在が分からない。
「この人は?」
「転居したらしいの。追いかける理由があるかどうか、まだ判断できない」
ミウは筆を置いた。
父の名を残したいからといって、誰かの人生を勝手に掘り起こしていいわけではない。
「本人が望む人だけでいいんですね」
「ええ。それが一番大事」
夕方、ミウは一枚の紙を持って帰った。
そこには患者の名前も病名もない。
ただ、『命を救われたあと、家族と夕食を食べられるようになった人がいる』とだけ書かれていた。
「これなら、飾ってもいいですか」
オズマは読んで、長く黙った。
「いいよ」
ミウは紙を台所の壁に貼った。
昨日までは塩と蜂蜜の買い物表だけがあった場所だ。
「ここに、少しずつ増やしたいんです」
その週末、グラディスは町の集会所で記録の扱いについて説明会を開いた。
集まったのは十人ほどだった。
オズマに救われた本人もいれば、家族だけが来た人もいる。
ミウは入口で紙を配りながら、ひどく緊張した。
父のために始めたことなのに、父の過去を他人の前に広げるのが怖かった。
一人の女性が手を挙げた。
「私の夫は治療を受けました。でも、その病名を知られたくありません」
グラディスは頷いた。
「公開するのは本人が選んだ範囲だけです。記録を残すことと、誰にでも見せることは違います」
別の男が尋ねた。
「名前を忘れた人の証言は信用できるのか」
フェルが答えた。
「治療を受けた事実は、日付や当時の書類で確かめられます。ただし、術者の人柄を思い出したという話は慎重に扱うべきです」
ミウはその説明を聞きながら、手元の紙に『分からないことを分からないまま残す』と書いた。
父の名を守りたいあまり、都合のいい物語を作ってはいけない。
そこへ先日会った荷車の男がやってきた。
男は娘の描いた絵を差し出した。
荷車と、その横に立つ大人が二人。
「これは先生の絵じゃないんです」と男は言った。
「俺と娘です。俺が生きて帰ったから、娘が描けた絵です」
オズマはその絵を受け取りかけ、ミウに視線を向けた。
「飾ってもいいかな」
ミウは頷いた。
「病気のことを隠したまま、飾れますね」
男はほっと笑った。
誰かの秘密を守りながら、救われた命のその後を喜ぶ方法はある。
ミウは初めて、それを自分の仕事として考え始めた。
「なぜ?」
帰り際、広場で話を聞かせてくれた女性がミウを呼び止めた。
「あの先生を思い出したわけじゃないの。でも、治ったあとに初めて自分で歩いた日のことは覚えている」
彼女は足元の石畳を軽く踏んだ。
「あの日から毎年、同じ道を歩くの」
ミウはその言葉を帳面に記した。
父の名を証明するためだけではない。
救われた人が、その後をどう生きたかを残すために。
町の老人は「治してくれた先生の顔は覚えていない」と言ったが、治療後に孫と歩いた橋のことは話せた。
ミウは父の名を尋ねるのをやめ、その橋の場所を聞いた。
忘れられたのは救いのすべてではない。
誰かがその後を生きた証拠は、町のあちこちに残っていた。
掲示板の紙を見た少年が、ミウに尋ねた。
「救われた人が先生を覚えていないなら、先生が本当にいたってどうやって分かるの?」
ミウは返答に迷った。
グラディスの帳面を示すだけでは、少年の疑問に届かない。
「あなたが昨日食べたパンを、今日も持っている?」と聞くと、少年は首を振った。
「でも、食べたから今お腹が空いていないでしょう」
少年は考え込み、「パン屋さんは覚えてるよ」と言った。
「そう。だから、覚えている人の話や、残っている記録を確かめるんだよ」
少年は納得したように頷いたが、最後に「でも、先生自身は寂しくない?」と尋ねた。
ミウは広場の向こうに立つオズマを見た。
「寂しいこともあると思う。だから、私たちが勝手に忘れていいわけじゃない」
それは誰かに言い聞かせるより、自分への約束に近かった。
「あなたが忘れられても、救われた人の明日まで消えたわけじゃないって、私が忘れないためです」
オズマは紙の端を押さえた。
そこに書かれた誰かの夕食は、彼が知らないところで続いている。
初めて、そのことを娘と一緒に喜べた。




