第五十二話 この人は、どうして私の誕生日を知っているの?
戸口に小さな包みが置かれていた。
青い紐で結ばれた紙箱には、ミウの名前だけが書かれている。
「誰からですか?」
「私から」
オズマが答えると、ミウは包みを開く手を止めた。
「どうして今日なんですか」
「君の誕生日だから。日付は記録にも残っている。でも、お祝いしていいかは君に聞きたかった」
「……そうでした」
ミウは目を伏せた。
病気になる前の日記には誕生日の記録がある。
自分が何歳になるかは知っている。
それでも、今日を特別な日として迎える気持ちだけが、どこか遠かった。
箱の中には、小さな木製の鳥が入っていた。
翼を動かすと、首がこくりと下がる。
「かわいい」
「フェルに仕組みを教わったんだ」
「オズマさんが作ったんですか?」
「翼を削ったのは私。頭を動くようにしたのはフェルだ」
ミウは鳥を掌に載せた。
翼の片側に、細い傷がある。
「ここ、失敗しました?」
「三回ほど」
「直さなかったんですね」
「直すと翼が小さくなりすぎるから」
ミウはその傷を指でなぞった。
「私は、こういうのが好きです」
オズマは胸を突かれた。
幼い頃のミウも、欠けた玩具を捨てられなかった。
だが彼女が今そう言ったのは、昔の記憶が戻ったからではない。
午後、サーラが誕生日の焼き菓子を持ってきた。
台所の戸棚から七枚の薄い紙が見つかったのは、そのときだった。
一枚目には、赤ん坊の手形。
二枚目には、初めて歩いた日付。
三枚目には、初めて自分の名前を書いた文字。
年ごとに、オズマが娘の成長を記した紙だった。
「七枚……」
「毎年一枚、作っていたんだ」
「私が知らない私ですね」
ミウは紙を並べた。
五枚目には『今年は転んでも泣かずに立ち上がった』とある。
六枚目には『母の残した古い本を一人で読もうとした』。
七枚目だけ、余白が広かった。
「どうして、ここだけ何もないんですか」
オズマは答えに迷った。
七枚目は、娘の病が重くなった年だった。
何を書くにも、明日が来ないかもしれない恐怖がつきまとった。
「書けなかったんだ」
「何もなかったから?」
「違う。あまりにも多くて、どれを残せばいいか分からなかった」
ミウは七枚目を持ち上げた。
「じゃあ、今年は私が書きます」
「君が?」
「はい。『海を見た。豆の煮込みを作った。木の鳥をもらった』」
「誕生日の記録に豆の煮込み?」
「私には大事件でした」
二人は笑った。
ミウは文字を書き始めたが、途中で筆を止めた。
「でも、これじゃオズマさんが毎年書いてくれたことが消えちゃう」
「消えないよ。君の言葉が増えるだけだ」
そのとき、玄関を叩く音がした。
エマが花を持って立っていた。
ミウの幼なじみで、治療後も少しずつ友達になり直している少女だ。
「誕生日、おめでとう」
「ありがとう。……私たち、去年は何をしたの?」
エマは一瞬言葉に詰まった。
「去年は雨だったから、二人で靴を濡らして帰った。怒られたのは私だけ」
「どうして?」
「ミウは熱が出てたから」
オズマはその話を覚えていた。
だが、エマは続けた。
「でも、私は今年の話がしたい。明日、川辺に行かない?」
ミウは顔を上げた。
「行く」
「お父さんに聞いてからね」
その呼び名に、ミウの肩がわずかに動いた。
エマは気づいて、慌てて言い直した。
「オズマさんに、相談してから」
「大丈夫。オルド先生の許可をもらえば行けるよ」
オズマは二人を見比べた。
娘の誕生日を祝うのは、自分だけの役目ではない。
エマが未来の予定を持ってきてくれたことが嬉しかった。
夕方、ミウは七枚の紙を順番に箱へ戻した。
そして八枚目の白紙を取り出した。
「これは来年の分?」
「そうだよ」
「来年も、もらえますか」
「もちろん」
「来年は、私もあなたに何か作ります」
オズマは思わず顔をそらした。
娘が来年の話をする。
それだけで涙が出そうになる。
「泣いてます?」
「木屑が目に入った」
誕生日の午後、フェルが遅れてやってきた。
手には細い木箱がある。
「鳥の仕掛けが少し硬かったでしょう。直す道具を持ってきました」
ミウは鳥を差し出しかけて、やめた。
「直さなくていいです」「どうして?」「翼の傷が残っているから。動きにくいところも、この鳥の形なんです」
フェルは困ったように笑った。
「研究者には耳の痛い話ですね。欠点を見つけると、つい全部直したくなる」
ミウは七枚の成長記録をフェルにも見せた。
フェルは六枚目を指さした。
「この年、君は私の研究室で薬瓶を並べ替えた。色の順番にね」「怒られませんでした?」「怒ったよ。薬は色で分類できないから」「私、謝りました?」「いや、『分かるように名前を書いて』と言い返した」
ミウは目を丸くした。
フェルは笑った。
「それで瓶に札をつけるようになった。結果として、事故が減ったんだ」
オズマはその話を初めて聞いた。
娘の七年間を一番知っているつもりでいたが、自分の知らない場面もいくつもあったのだ。
「私の記録だけが、君の歴史じゃないんだね」と言うと、ミウは頷いた。
「だから、エマやサーラさんにも聞きたいです。でも、聞きたくない日もあると思います」
フェルは七枚目の余白を見て、「白いところがあるのは悪いことじゃない。次の文字を置く場所がある」と言った。
夜、ミウは鳥の底に小さく日付を書いた。
過去を思い出すためではなく、今日この鳥を好きになった日を忘れないためだ。
オズマはその手元を見守りながら、自分の誕生日に娘へ贈り物をする日がまた来るのだと、静かに喜んだ。
「もう作り終わってるのに」
贈り物の箱には、まだ小さな空きがあった。
ミウはそこへ今日拾った貝殻を入れた。
「七年間の箱なのに、八つ目を入れてもいいですか」
オズマは「君の箱だ」と答えた。
ミウは蓋を閉じず、机の上に置いた。
これから先も増えるもののために、空けておくのだ。
オズマは初めて、記録を完成させなくてもいいのだと思った。
贈り物の説明を聞いたミウは、箱の一番下に空白の札を見つけた。
「これは?」
オズマは「次に君が好きになるものを書くため」と答えた。
七年分の記録は過去の答えを押しつけるためではない。
ミウは札を取り出し、今日初めて選んだ青い花の名を書いた。
夜更け、ミウは七枚の紙を床に並べ、年ごとに変わる文字の大きさを見比べた。
一枚目の手形は自分の掌よりずっと小さい。
二枚目の足跡も、今の靴には収まりそうにない。
「私、こんなに大きくなったんですね」と言うと、オズマは「毎日見ていたから、気づくのが遅かったよ」と答えた。
ミウは七枚目を指で押さえた。
「病気だった年も、私が大きくなったことには変わりないでしょう」
オズマは息をのんだ。
あの一年を、彼は病状の悪化だけで数えていた。
娘が読める本を増やし、友達と喧嘩して仲直りし、海を見たいと願ったことまで、病気の陰に隠していたのだ。
「そうだね。大きくなったよ」
ミウは七枚目に小さな印を描いた。
「じゃあ、ここにも、ちゃんと一つ増えました」
翌朝、オズマは記録の余白に、治療の日付ではなく、娘が自分で選んだ青い皿の絵を描き足した。
ミウは笑い、青い紐を箱に結び直した。
夜、七枚目の紙には二人の筆跡が並んだ。
オズマは最後に小さく『来年も一緒に』と書き足した。
ミウはその下に、もっと大きな字で『約束』と記した。




