第五十一話 名前を知らない父親と、二度目の朝
海から帰って二日目の朝、ミウは台所の戸口で立ち止まった。
海辺で一度「お父さん」と呼べたことは、失った七年間が戻ったことを意味しない。
けれど、昨日より一歩だけ近くに立てる気がしていた。
鍋の中では麦粥が小さく泡を立てている。
オズマは火を弱め、木匙でゆっくりかき混ぜていた。
「おはよう、ミウ」
「……おはようございます、オズマさん」
海辺では、ミウは一度だけ彼を「お父さん」と呼んだ。
けれど今朝の声には、その言葉を使う自信がなかった。
オズマは何も言わず、皿を二枚並べた。
「蜂蜜は?」
「少しだけ。……どうして分かったんですか」
「昨日もそう言っていたから」
それは本当だった。
昨日のミウは蜂蜜を少しだけ入れた。
けれど、七年前からそうだったこともオズマは知っている。
言わずに済ませた事実が、胸の奥で小さく痛んだ。
ミウは匙を口に運び、眉を寄せた。
「甘くない」
「少しだけと言ったからね」
「もう少し、って意味だったんです」
「それは難しい注文だ」
二人は笑った。
笑ったあと、ミウは急に真顔になった。
「私、ここで暮らしていていいんですよね」
「もちろん」
「でも、私の部屋には知らない思い出ばかりあります。壁の傷も、人形も、赤い日記も。私だけが、ずっと遅れているみたい」
オズマは鍋を火から下ろした。
「遅れているんじゃない。今日から知っていけばいい」
「毎日、教えてもらわないといけないんですか」
その問いに、オズマはすぐ答えられなかった。
父としては何でも教えたい。
だが、娘の生活をすべて説明する人間になれば、ミウは自分の好き嫌いまで彼に預けてしまう。
「教えてほしいことだけ、聞いてくれればいい」
「じゃあ、今日は自分で決めます」
ミウは椅子から立ち、食器棚を開けた。
皿を取り出し、並べ直し、最後に青い縁取りの皿を自分の前に置く。
「これが好きです」
「そうか」
「昔も好きでした?」
「昔は赤い皿だった」
ミウは一瞬きょとんとし、それから吹き出した。
「じゃあ、変わったんですね」
その言い方が嬉しかった。
取り戻せない七年間と、今ここにいる娘が、初めて同じ食卓で争わずに並んだ気がした。
昼前、サーラが海から持ち帰った小瓶を見に来た。
ミウは窓辺の砂箱の横に瓶を置き、貝殻を一つ選んでサーラに渡した。
「お土産です」
「まあ。あなたが選んだの?」
「はい。波に洗われて、角が丸くなっていたから」
サーラは掌に載せた貝殻をしばらく眺めた。
「あなたのお母さんも、丸い石を拾うのが好きだったわ」
ミウは振り返った。
「お母さんも?」
オズマは、マリアが海岸で石を集めていた日のことを思い出した。
ミウが生まれる前、妻は小石を三つ並べて、いつか家族で海へ行きたいと言った。
話しかけようとして、口を閉じる。
マリアのことは、オズマ一人が語るより、サーラの記憶もあった方がいい。
「どんな人だったんですか」
サーラは笑った。
「研究に夢中になると、お茶を三回も冷ました人。でも、誰かが泣いていると、研究を置いて隣に座る人だった」
「オズマさんは?」
「お茶を温め直す係だった」
三人で笑った。
オズマはマリアの思い出を聞きながら、妻のいない空席がほんの少し柔らかくなったのを感じた。
午後、ミウは台所の棚に紙を貼った。
『塩、蜂蜜、パン粉。
使ったら書く』。
昨日まではオズマが必要なものを覚えていた。
今日はミウが、二人の暮らしを整えようとしている。
「この家、私も手伝っていいですか」
「頼みたいくらいだ」
「じゃあ、夕食は私が作ります」
オズマは少しだけ顔をこわばらせた。
娘は病み上がりだ。
包丁も火も危ない。
そう言いかけて、オルドの許可した範囲なら料理をしてもよいことを思い出す。
「何を作る?」
「まだ決めてません」
「では、買い物からだね」
市場では、ミウが一つずつ野菜を選んだ。
オズマが無意識に好物の人参を籠に入れると、ミウは取り出して戻した。
「今日は豆にします」
「人参は嫌いになった?」
「嫌いじゃない。でも、今日は豆です」
オズマは謝り、籠を娘に渡した。
過去の好みを知っていることが、今の娘の選択を先回りする理由にはならない。
夕食は豆の煮込みになった。
塩が少し多く、パンは焦げた。
それでも二人は最後まで食べた。
食器を洗い終えたミウが、突然言った。
「オズマさん、明日の朝も、私が皿を選んでいいですか」
「毎朝でも」
「じゃあ、明日は黄色い皿にします」
オズマは戸棚の奥を見た。
黄色い皿は一枚しかない。
昔、ミウが落として割り、彼が同じものを探して買い直した皿だ。
その話は、明日聞かれたらしよう。
夜、オズマは日記を開いた。
『海から帰って二度目の朝。
ミウは青い皿を選び、夕食には豆を選んだ』。
書き終えたところで、隣の部屋から声がした。
「オズマさん」
「どうした?」
「明日、蜂蜜は今日より多くしてください」
翌朝、黄色い皿を取り出そうとしたミウは、戸棚の奥に欠けた取っ手を見つけた。
オズマが木片で直した跡がある。
「これも、昔の私が壊したんですか」「いいや、私だよ。鍋を落としてね」「あなたもよく壊すんですね」
ミウは安心したように笑った。
失敗した跡が残る家は、少しだけ入りやすい。
食後、近所の老人が薬草を届けに来た。
老人はミウを見て「大きくなったね」と言いかけ、言葉を飲み込んだ。
ミウは気づき、自分から尋ねた。
「前の私を知っていますか」
老人は頷いた。
「庭の花を踏んで、謝りに来たことがあるよ」「それは、ひどいですね」「いや、そのあと自分で苗を植え直した」
ミウはしばらく考え、「今度、その花を見に行ってもいいですか」と尋ねた。
老人は目を細めた。
庭の花は、何年も前の苗から株を増やしていた。
ミウはしゃがんで土を触った。
昔の自分が植えた花だと言われても、懐かしさは湧かない。
ただ、葉の裏に小さな虫が隠れているのが面白かった。
「この花、今の私も好きです」
老人は何も言わず、花の名前を教えてくれた。
帰り道、ミウはオズマに頼んだ。
「明日から、昔の話を一つ聞く代わりに、今日見つけたものも一つ話したいです」「いいね」
ミウは考え込んでから、「今日の発見は、花の裏に虫がいること」と言った。
「私の発見は、君が虫を怖がらなくなったこと」「それ、昔と比べてます」「ああ、そうだった」
オズマが頭を掻くと、ミウは笑った。
夜の台所で、二人は小さな帳面を作った。
表紙には『今日の発見』。
最初の頁はミウが書き、二頁目はオズマが書いた。
父が記憶を教えるだけの家ではなく、娘から新しいことを教わる家になっていく。
その変化を、オズマは嬉しく思った。
翌朝、オズマはいつもの癖で、ミウの皿に蜂蜜を多めに落としかけた。
だが手を止め、瓶をテーブルの中央に置く。
「今日は自分で決めてごらん」
ミウはほんの少しだけ垂らし、味を確かめてからもう一滴足した。
「これが、今の私の好きな甘さです」
オズマはその量を覚えようとして、ふと笑った。
昨日までの好みを知っていることと、今日の娘を知ることは違う。
彼は新しい帳面に、蜂蜜の量ではなく『自分で決めた』と書いた。
食卓の向かいに座ったミウは、昔の好物を当てられるたびに少し息苦しくなった。
「知らない私のことを、知っている人がいる」
オズマは匙を置いた。
「だったら、今日の好みを教えてくれないか」
ミウは蜂蜜を自分で足し、「今日は甘いほうが好き」と答えた。
昨日の娘と今日の娘が同じとは限らない。
それを父が受け入れたことが嬉しかった。
「覚えておくよ」
「私も覚えておきます」
娘の声は軽かった。
記憶が戻らなくても、明日の朝を一緒に作れる。
その当たり前のことが、オズマには何より眩しかった。




