第五十話 初めまして、お父さん
春になった。
オルドが長旅に耐えられると判断した日、オズマとミウは海へ向かった。
サーラが弁当を包み、フェルは病状を記した紙を持たせた。
馬車の窓から初めて見る景色に、ミウは何度も歓声を上げた。
四日目、丘の向こうに青い水平線が現れた。
ミウは馬車から降り、砂浜へ駆け出した。
オズマは後ろを歩いた。
娘が振り返り、「早く!」と手を振る。
その姿を見て、彼は第40話の赤い日記に書かれた「海」の一文字を思い出した。
波打ち際でミウは二本の線を描いた。
「こっちが私。こっちがオズマさん」
波が寄せて線を消した。
ミウは笑いながら、もう一度描いた。
「何回消えても、また書けるんだね」
オズマは隣にしゃがんだ。
失った記憶が戻ったわけではない。
だからこそ、今ここにある笑顔を大切にしたかった。
宿屋の主人は海辺の部屋に小さな花瓶を置いてくれた。
帰り際、ミウは赤い日記を開き、最初の頁の「お父さんと海へ行く」を読んだ。
それからオズマを見上げた。
「私、あなたのことを覚えていない。でも、今のあなたといると安心する」
小さく息を吸って、言った。
「初めまして、お父さん」
オズマは娘を抱きしめた。
「初めまして、ミウ」
海の音が二人の声を包んだ。
帰り道のことを考えると、オズマは少し不安になった。
海での時間が終われば、また診察や日々の不確かさが待っている。
けれどミウは、波打ち際から振り返って「また来ようね」と言った。
未来を約束することは、未来を保証することではない。
病気の記録も、失われた記憶も消えない。
それでも、今日の約束を明日へ運ぶことはできる。
オズマは貝殻を上着の内側にしまった。
砂箱の小さな海から始まった旅は、本物の波音にたどり着いた。
娘は父親の手を取り、ゆっくりと浜辺を歩いた。
二人の足跡は波に消されたが、二人はまた次の一歩を踏み出した。
浜辺でミウは貝殻を二つ拾い、片方をオズマに渡した。
「もし明日、今日のことを忘れたら、これを見せて」
オズマは首を振りかけた。
忘れないでほしい、と言いたかった。
だが娘は続けた。
「思い出せなくても、もう一度海の話をして」
彼は貝殻を受け取った。
「何度でも」
波の音が近づき、二人の足元の砂を洗った。
浜辺に着く前、オルドからの手紙をもう一度読んだ。
無理をしないこと、疲れたら休むこと。
ミウは「お父さんのほうが心配しすぎ」と笑い、馬車を降りるときには自分から手を差し出した。
オズマはその手を取った。
かつての記憶が戻ったからではない。
今の娘が選んでくれたからだ。
海辺の宿で、ミウは自分のために小さな紙を一枚書いた。
『今日、海を見た。
青くて、思っていたよりずっと大きい。
隣の人と笑った』。
オズマは「隣の人」という表現を見て少し胸が痛んだ。
けれどミウは書き足した。
『その人は、私が父と呼ぶことを急がせない』。
彼は紙を見ないふりをして、窓を開けた。
潮風が部屋を通り抜けた。
ミウは波で濡れた靴を持ち上げ、二人で声を立てて笑った。
翌朝、ミウは波打ち際の前で、昨日より長く考え込んでいた。
「昨日の私と今日の私は、同じ私かな」
オズマは答えを急がなかった。
「違うところもある。でも、どちらも君だよ」
娘は首をかしげ、それから小さく笑った。
「じゃあ、明日の私にも教えてあげよう」
その言葉を聞いて、オズマは記録を残す理由が少し変わったことに気づいた。
失った記憶を数えるためではない。
明日の娘が、自分の好きなものを選べるようにするためだった。
夕暮れ、波が足跡を消していった。
ミウは砂に残った二つの貝殻を拾い、一つをオズマに渡した。
「これ、次に来るときも持ってきましょう」
オズマは受け取り、「約束だ」と答えた。
娘はしばらく海を見てから、照れくさそうに笑った。
「初めまして、お父さん」
その言葉は失われた記憶が戻った合図ではなかった。
今のミウが、自分で選んだ呼び方だった。
オズマは涙を拭い、「初めまして、ミウ」と返した。
昼過ぎ、サーラが波打ち際を見て「ここは急がなくていい」と言った。
オズマは、急がなければ手遅れになるという恐怖にずっと追われていた。
だが、今できることを丁寧にする時間まで奪ってはいけない。
ミウはサーラの手から布を受け取り、端をきれいに折った。
失敗すると二人で笑った。
その笑い声が部屋の奥まで届き、オズマは久しぶりに深く息を吸った。
夕方、オルドは波打ち際のそばでオズマに尋ねた。
「お前は、自分のことを責めていないか」
オズマは答えられなかった。
助けられた命の数を数えても、娘の苦しみが軽くなるわけではない。
オルドは続けた。
「責任を取ることと、すべてを一人で背負うことは違う」
オズマはその言葉を胸に留めた。
誰かに支えられるのは、弱さではない。
娘にそれを教えるためにも、まず自分が受け入れなければならなかった。
その晩、オズマは波打ち際を見つめ、マリアに話しかけるように心の中でつぶやいた。
もし君がここにいたら、私はもっと上手に笑えただろうか。
返事はない。
それでも、亡き妻の思い出は彼を過去へ閉じ込めるものではなかった。
ミウが今夜も眠り、明日目を覚ます。
そこに手を伸ばす勇気を、かつて妻と過ごした時間が支えていた。
波打ち際でミウは靴を脱ぎ、冷たい水に声を上げた。
「私、海を見るのは初めてなのかな」
オズマは答えた。
「少なくとも、今日の海は初めてだよ」
ミウは笑って、砂に二人の名前を書いた。
波が文字を消すと、彼女はまた書いた。
オズマも隣にしゃがみ、自分の名前をゆっくり書いた。
二人の文字は少しずつ近づき、次の波に一緒にさらわれた。
次の日、ミウは波打ち際について、自分の言葉で短い文章を書いた。
文字はところどころ傾いていたが、オズマは直さなかった。
娘が残したいと思った言葉を、父親の都合で整えたくなかったからだ。
「読みにくい?」と聞かれ、「ちゃんと読めるよ」と答えた。
ミウは満足そうに頷いた。
その表情を見て、オズマは今日という日が記録の中だけではなく、確かにここにあると感じた。
帰り支度を始める頃、ミウは小瓶に海水を少し汲んだ。
「砂箱の隣に置くの」
オズマは瓶の蓋を固く閉めた。
二人の家に、今日の海が帰っていく。
帰りの馬車で、ミウは眠りながら貝殻を握っていた。
オズマは起こさないように窓を閉めた。
海の景色は遠ざかっていく。
それでも娘の手の中には、今日選んだ小さな白い形が残っていた。
その帰り道、ミウは、海辺で口にした「お父さん」という言葉を日記に書いた。
隣には小さく「まだ毎日そう呼べるかは分からない。でも、あの瞬間は本当だった」と添えた。
オズマは読ませてもらって初めて、あの一言が終着点ではなく、娘の新しい一歩だったと知った。




