第四十九話 百冊の治療記録
グラディスはオズマの治療記録を整理し、ミウが望むなら読めるようにした。
記録は百冊近くに及んだ。
病状と治療法の欄の端には、患者のその後を案じる小さな文字が残されていた。
ミウは最初の一冊を開いた。
そこには自分が生まれた日の記録があった。
「今日、娘が生まれた。小さな手で私の指を握った」
次の頁には「初めて歩いた」
また次には「雨の日、私をお父さんと呼んだ」
文字は時に滲み、急いで書いた日は斜めに傾いていた。
最後の巻には、治癒の前夜の言葉があった。
「今日、娘は生きたいと言った。私のことを忘れても、未来を諦めたくないと」
ミウは頁を閉じ、長い間黙っていた。
思い出は戻らない。
それでも、知らないはずの人が自分を愛していたことは、文字の向こうから伝わってきた。
治療を受けたミーナがミウに手紙を届けた。
そこには父への感謝が記されていた。
グラディスは記録の最初の頁を開き、ミウに言った。
「これはあなたのお父さんが書いた記録。でも、ここに書いていないあなたもいる」
ミウは頷き、余白に自分の字で「今日は甘いパンが好き」と書いた。
オズマは一瞬驚いたが、筆を取り上げなかった。
百冊の記録は過去を示す。
百一冊目を始めるなら、これからは娘自身の言葉も並ぶべきだった。
グラディスは棚に新しい背表紙を一冊置いた。
まだ何も書かれていない薄い帳面だった。
ミウはそれを手に取り、「百一冊目?」と尋ねた。
「そうしたければ」とグラディスが答えた。
オズマは首を振らなかった。
百冊の記録は過去の重さを伝える。
しかし、新しい一冊の中身を決めるのは自分だけではない。
ミウは表紙に自分の名前を書き、少し考えてから隣に父親の名を書いた。
どちらも今日、自分の手で書いた文字だ。
オズマは「ありがとう」と言った。
娘は不思議そうに笑った。
「私の帳面なのに?」
彼は頷いた。
自分の名前がそこにあることより、娘が書きたいと思ってくれたことが嬉しかった。
夕方、ミウはオズマに尋ねた。
「私、あなたを好きになってもいい?」
オズマは泣き笑いの顔で頷いた。
「もちろん」
ミウは続けた。
「でも、まだお父さんって呼ぶのは恥ずかしい」
彼は「それでいい」と答えた。
愛情は、呼び名を急がせるためにあるのではない。
ミウは一冊目を閉じた。
「全部読むと、あなたが知っている私にならなきゃいけない気がする」
オズマは記録を片づけようとしたが、娘は首を振った。
「捨てないで。私が選んで読みたい」
グラディスは個人の診療記録と家族の記録を分け、他の患者の情報は伏せた。
百冊という重さを、娘に一度に背負わせる必要はなかった。
記録の棚には、治療の成功だけでなく失敗も残っていた。
ミウは頁をめくり、父親が救えなかった人の名前を見つけた。
「どうして消さなかったの?」
オズマは答えた。
「その人がいたことまで消したくなかった」
ミウは黙って頁を閉じた。
やがて「私のことも、都合のいいところだけ書かないで」と言った。
オズマは頷いた。
怒った日も、忘れた日も、笑った日も、娘自身が望むならそのまま残す。
ミウは父の文字を真似て、今日の日付を丁寧に書いた。
翌朝、ミウは治療記録の前で、昨日より長く考え込んでいた。
「昨日の私と今日の私は、同じ私かな」
オズマは答えを急がなかった。
「違うところもある。でも、どちらも君だよ」
娘は首をかしげ、それから小さく笑った。
「じゃあ、明日の私にも教えてあげよう」
その言葉を聞いて、オズマは記録を残す理由が少し変わったことに気づいた。
失った記憶を数えるためではない。
明日の娘が、自分の好きなものを選べるようにするためだった。
百冊目の最後に、ミウは自分のための空白を見つけた。
オズマは何も書かずに待った。
娘は筆を取り、『私はこの人をまだ全部は知らない。
でも今日、一緒にパンを焼く約束をした』と記した。
文字が乾くまで二人は黙っていた。
オズマは過去を取り戻すために本を開いたのではないと気づいた。
娘が今日の自分の言葉を残せるよう、場所を空けておくためだった。
昼過ぎ、サーラが治療記録を見て「ここは急がなくていい」と言った。
オズマは、急がなければ手遅れになるという恐怖にずっと追われていた。
だが、今できることを丁寧にする時間まで奪ってはいけない。
ミウはサーラの手から布を受け取り、端をきれいに折った。
失敗すると二人で笑った。
その笑い声が部屋の奥まで届き、オズマは久しぶりに深く息を吸った。
夕方、オルドは治療記録のそばでオズマに尋ねた。
「お前は、自分のことを責めていないか」
オズマは答えられなかった。
助けられた命の数を数えても、娘の苦しみが軽くなるわけではない。
オルドは続けた。
「責任を取ることと、すべてを一人で背負うことは違う」
オズマはその言葉を胸に留めた。
誰かに支えられるのは、弱さではない。
娘にそれを教えるためにも、まず自分が受け入れなければならなかった。
その晩、オズマは治療記録を見つめ、マリアに話しかけるように心の中でつぶやいた。
もし君がここにいたら、私はもっと上手に笑えただろうか。
返事はない。
それでも、亡き妻の思い出は彼を過去へ閉じ込めるものではなかった。
ミウが今夜も眠り、明日目を覚ます。
そこに手を伸ばす勇気を、かつて妻と過ごした時間が支えていた。
ミウが選んだのは、病気の記録でも治癒の記録でもなく、雨の日に二人で焼いたパンの頁だった。
余白に小さな焦げ跡の絵がある。
「これ、私が描いたの?」
オズマは「そうだよ」と答えた。
ミウは同じ頁の端に今日の日付を書き足した。
『今度は二人で焼く約束をした』。
過去を証明する本が、未来の予定帳に変わった。
次の日、ミウは治療記録について、自分の言葉で短い文章を書いた。
文字はところどころ傾いていたが、オズマは直さなかった。
娘が残したいと思った言葉を、父親の都合で整えたくなかったからだ。
「読みにくい?」と聞かれ、「ちゃんと読めるよ」と答えた。
ミウは満足そうに頷いた。
その表情を見て、オズマは今日という日が記録の中だけではなく、確かにここにあると感じた。
ミウは百一冊目を棚の一番取りやすい場所に置いた。
過去の百冊は大切だ。
それでも今日の記録を、いつでも自分の手で開けるようにしたかった。
赤い日記の最後の頁をめくったミウは、空白の多さに笑った。
「ここからは私が書いていい?」
オズマは「君の本だから」と答えた。
娘は日付を書き、その下に「今日はオズマさんが泣いた」と記した。
父は慌てたが、ミウは消さなかった。




