第四十七話 通りすがりの治癒師
オズマは「通りすがりの治癒師だよ」と答えた。
ミウは安心したように頷いたが、父の手が自分の手を握っていることに戸惑っていた。
彼はゆっくり手を離した。
娘が拒む前に、距離を選べるようにしたかった。
サーラが水を運び、オルドが検査をした。
ミウは彼らの名を覚えていた。
治癒の代償が奪ったのはオズマに関する記憶だけだった。
父と過ごした日々の中で、父に結びつく場面は空白になっていた。
ミウはその空白を怖がった。
赤い日記を見せられたミウは、自分の字を指でなぞった。
「お父さんと海に行く……」
読み終えると、困った顔でオズマを見た。
「私、お父さんがいたの?」
オズマは喉の痛みをこらえ、「いたよ。君をとても大事にしていた」と答えた。
ミウは窓辺の砂箱を見て、どうして部屋に砂があるのか尋ねた。
「その人、どこにいるの?」
オズマはすぐに名乗れなかった。
嘘を重ねれば娘の未来を傷つける。
だから椅子を引き寄せ、目線を合わせた。
「ここにいる。私が君の父親だ」
ミウはしばらく黙ってから言った。
「ごめんなさい。覚えてなくて」
オズマは首を振った。
「謝らなくていい。君が生きていてくれる。それだけで嬉しい」
廊下に出たオズマは、壁にもたれて長く息を吐いた。
娘が生きていることを喜ぶ気持ちと、知らない人として見られた悲しみが同時に押し寄せた。
オルドが隣に立った。
「悲しむことまで禁じるな」
オズマは顔を上げた。
「でも、娘の前では」
オルドは首を振った。
「娘の前で悲しみを押しつけないことと、悲しみがないふりをすることは違う」
オズマはしばらく黙り、ようやく涙を拭いた。
翌朝また会いに行くとき、彼は父親として認められることを期待しないつもりだった。
ただ、娘が話したいと思ったことを聞く。
その小さな目標を胸に、廊下を歩き出した。
「オズマさんは、私の好きな食べ物を知っていますか」
ミウの質問に、彼は即答しかけて止まった。
「前は甘いパンが好きだった。でも、今もそうかは君に聞かないと分からない」
ミウは少し考え、「じゃあ明日、一緒に食べて決めます」と言った。
廊下に出たオズマは、壁にもたれて泣いた。
父と呼ばれなかったことが悲しい。
それでも明日の約束ができたことは、嘘ではなく嬉しかった。
ミウは寝台の横に置かれた椅子を見た。
「あなたは、ずっとここにいたんですか」
オズマは「うん」と答えた。
「どうして?」
すぐに父親だと告げたくなったが、彼女の怯えた目を見て、まず説明することを選んだ。
「君の治療を担当した。大切なことを話す前に、医師に体を診てもらおう」
ミウは小さく頷いた。
昼になってミウは水を飲み、窓の外を見た。
「みんな、私のことを知っているんですね」
サーラは「あなたと一緒に過ごしたからよ」と答えた。
ミウはオズマを見た。
「この人も?」
サーラは急いで答えず、オズマに目を向けた。
彼はゆっくり頷いた。
「君の父親だ」
ミウはしばらく黙っていた。
「信じないわけじゃない。でも、まだそう呼べない」
オズマは喉の奥の痛みを飲み込み、「分かった」と答えた。
サーラは何も説明せず、娘の好む温度の茶を差し出した。
翌朝、ミウは赤い日記の前で、昨日より長く考え込んでいた。
「昨日の私と今日の私は、同じ私かな」
オズマは答えを急がなかった。
「違うところもある。でも、どちらも君だよ」
娘は首をかしげ、それから小さく笑った。
「じゃあ、明日の私にも教えてあげよう」
その言葉を聞いて、オズマは記録を残す理由が少し変わったことに気づいた。
失った記憶を数えるためではない。
明日の娘が、自分の好きなものを選べるようにするためだった。
その日の夕方、ミウは自分から椅子を指さした。
「そこに座って、話してもらえますか」
オズマは昔話を選ばなかった。
今日の天気、治療院の庭、窓辺の鉢植えの話をした。
ミウはときどき質問し、答えに笑った。
帰り際、彼女は「明日も来ますか」と聞いた。
「来てもいいなら」
ミウは少し迷ってから頷いた。
父親と呼ばれることより、もう一度会いたいと思ってもらえたことが嬉しかった。
昼過ぎ、サーラが赤い日記を見て「ここは急がなくていい」と言った。
オズマは、急がなければ手遅れになるという恐怖にずっと追われていた。
だが、今できることを丁寧にする時間まで奪ってはいけない。
ミウはサーラの手から布を受け取り、端をきれいに折った。
失敗すると二人で笑った。
その笑い声が部屋の奥まで届き、オズマは久しぶりに深く息を吸った。
夕方、オルドは赤い日記のそばでオズマに尋ねた。
「お前は、自分のことを責めていないか」
オズマは答えられなかった。
助けられた命の数を数えても、娘の苦しみが軽くなるわけではない。
オルドは続けた。
「責任を取ることと、すべてを一人で背負うことは違う」
オズマはその言葉を胸に留めた。
誰かに支えられるのは、弱さではない。
娘にそれを教えるためにも、まず自分が受け入れなければならなかった。
その晩、オズマは赤い日記を見つめ、マリアに話しかけるように心の中でつぶやいた。
もし君がここにいたら、私はもっと上手に笑えただろうか。
返事はない。
それでも、亡き妻の思い出は彼を過去へ閉じ込めるものではなかった。
ミウが今夜も眠り、明日目を覚ます。
そこに手を伸ばす勇気を、かつて妻と過ごした時間が支えていた。
検査後、サーラは父娘の関係を説明した。
ミウは赤い日記の表紙を見つめ、「これを読んだら、思い出さなきゃいけませんか」と尋ねた。
「いいえ」とオズマは答えた。
「何も思い出せなくてもいい」
ミウは日記を閉じたまま膝に置いた。
そして「明日、少しだけ読んでもいいですか」と聞いた。
その約束は、治癒後の二人が初めて交わしたものだった。
次の日、ミウは赤い日記について、自分の言葉で短い文章を書いた。
文字はところどころ傾いていたが、オズマは直さなかった。
娘が残したいと思った言葉を、父親の都合で整えたくなかったからだ。
「読みにくい?」と聞かれ、「ちゃんと読めるよ」と答えた。
ミウは満足そうに頷いた。
その表情を見て、オズマは今日という日が記録の中だけではなく、確かにここにあると感じた。
オズマは翌日の訪問時刻をサーラに確認した。
娘が疲れたらすぐ帰るつもりだった。
会うことを望む気持ちと、相手に休む権利があることを両方忘れないようにした。
帰り際、ミウは「明日も来ていいですよ」と言った。
オズマは「ありがとう」と答えた。
以前なら、娘に会うのに許可など要らなかった。
今は違う。
だが、明日を自分から約束してくれたことが、何より大きかった。




