第四十五話 奇跡を使わない最後の夜
ミウの発作が長くなった。
オルドは通常の支持療法で時間を稼ぎ、フェルは封印装置の再検査を続けた。
しかし青い結晶の侵食は進み、これ以上待てば治癒が間に合わない可能性が高いと分かった。
グラディスは診療記録を読み上げた。
封印装置は病の進行を遅らせるが、根本的な修復はできない。
オズマの治癒なら救命の見込みがあるが、術者に関する記憶は失われる。
誰も「絶対」という言葉を使わなかった。
オズマはミウに、もう一度だけ意思を確かめた。
「治療を受けたいか」
娘は長く考え、頷いた。
「生きたい。お父さんを忘れるのは嫌。でも、忘れたあとに新しい友達になれるなら、私は生きたい」
その言葉に、オズマは声を上げて泣いた。
サーラは娘の好物を用意したが、ミウは緊張で半分しか食べられなかった。
夜、二人は砂箱の前に座った。
ミウは砂に「またね」と書いた。
「さよなら、じゃないよ」
オズマは娘の手を包み、「ああ、また会おう」と答えた。
明日の自分がどんな言葉で娘に話しかけるのか、まだ分からなかった。
オズマは娘が眠ったあとも、椅子から立てなかった。
オルドは記録を閉じ、「明朝までに状態が変われば知らせる」と言った。
オズマは何度も頷いたが、医師が去っても時計の針ばかり見ていた。
サーラが湯を持ってきて、「飲まないと倒れるわ」と差し出した。
彼は断ろうとして、受け取った。
明日、娘を救うためには自分も立っていなければならない。
湯の熱さで手が震えた。
隣の寝台ではミウが静かに息をしている。
オズマはその呼吸を数えるのをやめた。
数え続けても時間は止まらない。
代わりに、娘が目を覚ましたら最初に何を聞こうかと考えた。
痛くないか、寒くないか、何か飲みたいか。
父親の名を覚えているかは、最後まで聞かないと決めた。
オルドは「決断を支えるのも医師の仕事だ」と言って椅子を寄せた。
封印装置の灯が一度だけ弱まった。
フェルが調整を試みたが、オルドは首を横に振った。
「もう装置のために患者を待たせられない」
オズマは治療の準備を申し出た。
ミウは苦しい呼吸の合間に「まだ、今夜は話せる?」と尋ねた。
オルドは容体を確かめ、短い時間ならと答えた。
誰も安全を約束しなかった。
それでも、残された時間をどう使うかはミウにも選べた。
オルドは診療室の戸を閉め、ミウに父親抜きで話したいことがあるか尋ねた。
娘は少し考えてから首を振った。
「お父さんにも聞いてほしい。でも、私の返事は私が言う」
オズマはその場で膝を折った。
ミウは息を整え、治癒を受けたいと告げた。
ただし、目覚めた自分が父親を知らなくても責めないこと。
日記を読むかどうかを自分で決められること。
その二つを条件にした。
オルドは記録し、オズマは声を詰まらせながら承諾した。
真夜中、オルドは体温の変化を示す記録をオズマに渡した。
数値は静かに悪化していた。
ミウが眠る寝台の横で、オズマは紙を二度読んだ。
「朝まで待てるのか」
「断言はできない。異変があればすぐ呼ぶ」
二人は交代で見守る時間を決めた。
オズマは眠ることに罪悪感を覚えたが、治癒を行う手が震えては困る。
サーラに背中を押され、短い休息を取った。
翌朝、ミウは診療票の前で、昨日より長く考え込んでいた。
「昨日の私と今日の私は、同じ私かな」
オズマは答えを急がなかった。
「違うところもある。でも、どちらも君だよ」
娘は首をかしげ、それから小さく笑った。
「じゃあ、明日の私にも教えてあげよう」
その言葉を聞いて、オズマは記録を残す理由が少し変わったことに気づいた。
失った記憶を数えるためではない。
明日の娘が、自分の好きなものを選べるようにするためだった。
夜が更けるにつれ、窓の外の街灯が一つずつ消えた。
ミウは昔の子守歌を頼んだが、オズマは途中の歌詞を忘れてしまった。
娘が笑って続きを教えた。
「お父さんも忘れるんだね」
その笑いはすぐ咳に変わり、オルドが脈を確かめた。
オズマは歌をやめ、ただ手を握った。
娘が忘れることだけを恐れていた自分も、すでに多くのことを忘れている。
けれど、今ここで手を握ることはできる。
その夜、彼は奇跡を使わずに娘のそばにいた。
昼過ぎ、サーラが診療票を見て「ここは急がなくていい」と言った。
オズマは、急がなければ手遅れになるという恐怖にずっと追われていた。
だが、今できることを丁寧にする時間まで奪ってはいけない。
ミウはサーラの手から布を受け取り、端をきれいに折った。
失敗すると二人で笑った。
その笑い声が部屋の奥まで届き、オズマは久しぶりに深く息を吸った。
夕方、オルドは診療票のそばでオズマに尋ねた。
「お前は、自分のことを責めていないか」
オズマは答えられなかった。
助けられた命の数を数えても、娘の苦しみが軽くなるわけではない。
オルドは続けた。
「責任を取ることと、すべてを一人で背負うことは違う」
オズマはその言葉を胸に留めた。
誰かに支えられるのは、弱さではない。
娘にそれを教えるためにも、まず自分が受け入れなければならなかった。
その晩、オズマは診療票を見つめ、マリアに話しかけるように心の中でつぶやいた。
もし君がここにいたら、私はもっと上手に笑えただろうか。
返事はない。
それでも、亡き妻の思い出は彼を過去へ閉じ込めるものではなかった。
ミウが今夜も眠り、明日目を覚ます。
そこに手を伸ばす勇気を、かつて妻と過ごした時間が支えていた。
サーラが持ってきた温かな布で手を包むと、ミウは父に尋ねた。
「明日の私に、何を言ってほしい?」
オズマは「お父さんと呼んでほしい」と言いかけた。
だが、それは娘に背負わせる願いだ。
「痛いところがあったら教えてほしい。嫌なことは嫌だと言ってほしい」
ミウは目を閉じ、「それならできそう」と答えた。
次の日、ミウは診療票について、自分の言葉で短い文章を書いた。
文字はところどころ傾いていたが、オズマは直さなかった。
娘が残したいと思った言葉を、父親の都合で整えたくなかったからだ。
「読みにくい?」と聞かれ、「ちゃんと読めるよ」と答えた。
ミウは満足そうに頷いた。
その表情を見て、オズマは今日という日が記録の中だけではなく、確かにここにあると感じた。
夜明け前、ミウは一度だけ目を開けた。
オズマが水を差し出すと、娘は少し飲んで微笑んだ。
たったそれだけのことが、彼には何より大切な出来事に思えた。
夜明けを待つ間、サーラはミウの好きな毛布を洗い直して寝台に掛けた。
「治ったあと、見覚えがなくても柔らかいものは柔らかいから」
オズマはその言葉に救われた。
記憶がなくなっても、寒さを防ぐ手は残る。
明日からできることを一つ、彼は覚えた。




