第四十一話 海へ行く約束
ミウが赤い日記に書いた「海」という文字を見て、オズマは旅行の計画を立てた。
王都から海までは馬車で四日。
今のミウに長旅は危険だった。
だから彼は、海を諦める代わりに、窓辺に小さな砂浜を作ることにした。
サーラが市場から白い砂を運び、フェルが浅い木箱を作った。
オルドは潮の匂いのする乾燥海藻を届けた。
ミウは箱の砂に指で波を描き、笑った。
「これ、海の練習だね」
その笑顔を見て、オズマは本物を見せたいと強く思った。
旅に出るかどうかの判断を、オズマは娘だけにも医師だけにも押しつけなかった。
三人で決めた合図は、ミウが指を二本立てたら休憩、握りこぶしなら引き返す、というものだった。
「声が出ない日でも伝えられるね」
ミウは指を開いたり閉じたりして練習した。
オズマはその小さな手を見つめた。
海までの距離を縮めることはできない。
だが、娘が途中で「やめたい」と言える道なら作れる。
ところが夕刻、ミウは砂に書いた自分の名前を読めなくなった。
オズマが呼びかけると顔は上げたが、ほんの数秒、彼が誰か分からないような目をした。
すぐに「お父さん」と笑い直したものの、オズマの背中には冷たい汗が流れた。
フェルは旅程表の余白に、休憩所と医師のいる町を書き込んだ。
翌日、ミウは旅程表の赤い丸を見て、少し不満そうに言った。
「途中で帰る場所ばかり書いてある」
オズマは返事に詰まった。
危険を減らすことに夢中で、旅の楽しみを一つも書いていなかったのだ。
そこで二人は、宿場ごとに見たいものを一つずつ書き足した。
最初の町では焼きたてのパン、次の町では古い石橋、その次では夜の星。
ミウは最後の欄に大きく「海」と書いた。
危険を忘れたわけではない。
危険だけで娘の未来を埋めたくなかった。
オズマが旅程表を壁に貼ると、ミウは何度も見上げた。
行けるかどうかはまだ分からない。
それでも、明日の楽しみを一緒に考える時間が生まれた。
出発を諦めたわけではなかった。
フェルが作った旅程表には、二日目の宿場に赤い丸がついていた。
そこで診察を受け、悪化の兆候があれば戻る。
オズマは娘に条件を伝えた。
「海が見られなくても怒らない?」とミウが尋ねる。
「怒るのは私じゃない。君の体が危険なら引き返すだけだ」
ミウは少し考え、旅程表に自分の字で「帰る勇気」と書き加えた。
旅の荷物を並べたとき、ミウは厚い毛布よりも小さな空き瓶を選んだ。
「海の水を持って帰るの」
オズマは瓶の口を確かめ、割れないよう布で包んだ。
病気の前なら、父親が必要なものを決めていただろう。
今は娘が選び、父親はそれができる方法を考える。
フェルは荷車の揺れを減らすために木箱の底へ布を敷いた。
サーラは途中で食べられる柔らかい菓子を焼いた。
誰も旅を成功させると約束しなかった。
それでも、ミウのためにできることが一つずつ形になった。
ミウは完成した荷物を眺め、「これなら、行けなくなっても準備した日は覚えていたい」と言った。
オズマは答えず、赤い日記にその言葉を書き留めた。
ミウは砂の上に二本の線を引いた。
「これは私。こっちはお父さん。波が消しても、また書けばいいよね」
オズマはその線を守ろうとして手を伸ばし、途中で止めた。
娘が望むのは消えない砂文字ではなく、二人で何度でも書く時間だった。
ミウは砂箱の貝殻を一つ選び、日記に挟んだ。
翌朝、ミウは砂箱の前で、昨日より長く考え込んでいた。
「昨日の私と今日の私は、同じ私かな」
オズマは答えを急がなかった。
「違うところもある。でも、どちらも君だよ」
娘は首をかしげ、それから小さく笑った。
「じゃあ、明日の私にも教えてあげよう」
その言葉を聞いて、オズマは記録を残す理由が少し変わったことに気づいた。
失った記憶を数えるためではない。
明日の娘が、自分の好きなものを選べるようにするためだった。
夜中、ミウが目を覚まして父を呼んだ。
砂箱の貝殻を一つ落としたらしい。
オズマが灯りをつけると、娘は床を探していた。
「見つからなくてもいい」と言いかけて、彼はやめた。
大切かどうかを決めるのは娘だ。
二人は椅子の下を覗き込み、やがて小さな白い貝殻を見つけた。
ミウはほっと息を吐き、手のひらに包んだ。
「なくしたら、もう同じものはないと思った」
オズマは娘の手に触れず、「そうだね」と答えた。
失われるものがあることを否定せず、それでも探す時間を一緒に過ごす。
彼にできるのは、そういう小さなことだった。
昼過ぎ、サーラが砂箱を見て「ここは急がなくていい」と言った。
オズマは、急がなければ手遅れになるという恐怖にずっと追われていた。
だが、今できることを丁寧にする時間まで奪ってはいけない。
ミウはサーラの手から布を受け取り、端をきれいに折った。
失敗すると二人で笑った。
その笑い声が部屋の奥まで届き、オズマは久しぶりに深く息を吸った。
夕方、オルドは砂箱のそばでオズマに尋ねた。
「お前は、自分のことを責めていないか」
オズマは答えられなかった。
助けられた命の数を数えても、娘の苦しみが軽くなるわけではない。
オルドは続けた。
「責任を取ることと、すべてを一人で背負うことは違う」
オズマはその言葉を胸に留めた。
誰かに支えられるのは、弱さではない。
娘にそれを教えるためにも、まず自分が受け入れなければならなかった。
砂箱の端に、ミウは貝殻を二つ置いた。
一つは自分のもの、一つは父のものだという。
「旅先で私が忘れたら、どっちが誰のか聞いて」
オズマは貝殻の形を覚えようとしたが、娘は首を振った。
「当てる試験じゃないよ。話しかける理由がほしいだけ」
父はようやく、思い出を守ることと記憶を試すことの違いを理解した。
次の日、ミウは砂箱について、自分の言葉で短い文章を書いた。
文字はところどころ傾いていたが、オズマは直さなかった。
娘が残したいと思った言葉を、父親の都合で整えたくなかったからだ。
「読みにくい?」と聞かれ、「ちゃんと読めるよ」と答えた。
ミウは満足そうに頷いた。
その表情を見て、オズマは今日という日が記録の中だけではなく、確かにここにあると感じた。
窓辺の砂箱には、まだ二本の線が残っていた。
ミウはそれを見て、明日になったら新しい線を描くと言った。
オズマは頷いた。
波が消すことを怖がるより、描く手を支えようと思った。
出発の日取りは、結局決まらなかった。
それでもミウは旅程表の横に小さな絵を描いた。
馬車の車輪は大きすぎて、海の波は山のようだった。
オズマが笑うと、娘は「下手って言わないで」と唇を尖らせた。
「言わないよ。これは君の海だから」
彼は絵を外さず、毎朝そこを通ることにした。




