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忘却の治癒師 ~娘に忘れられても、俺は何度でも父親になる~  作者: レモンティー


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第四十話 私があなたを忘れる前に

「お父さん、私の名前は?」ミウがそう尋ねた瞬間、オズマの手から薬匙が落ちた。

いつもの冗談だと思いたかった。

けれど娘の目は真剣で、日記を開いた指は震えていた。

窓に雨が打ちつける。

オズマは名前を答える前に、娘の呼吸を確かめた。

ミウは自分の名を思い出せなかった。

ミウは自分の名を思い出せなかった。

オズマはまず呼吸と意識を確かめ、オルドを呼んだ。

短い発作が収まると、ミウは赤い日記を開き、表紙に書かれた名前を指でなぞった。

「これは私の字?」

父は頷いた。

昨日までの娘と今の娘を、無理につなぎ合わせる言葉が見つからなかった。

落ち着いたあと、ミウは封筒を一枚用意した。

『明日の私へ』と書き、父には中身を見せなかった。

「私が忘れても、私が選んだことを知ってほしい。でも、そのときの私が嫌だと言ったら、無理に守らせないで」

オズマは約束した。

日記には海の絵と『お父さんと』という文字が残っている。

娘が記憶を失っても、願いまで奪われたと決めつけない。

オズマは明日の診察で、今のミウの意思をもう一度聞くことにした。

夜更け、ミウは赤い日記に短い一文を書いた。

『明日の私へ。

怖いときは、怖いと言っていい』。

オズマはその文字を読んでも、記憶を取り戻す約束はしなかった。

「明日の君が嫌だと言ったら、ちゃんと聞く」

ミウは日記を閉じ、「それなら眠れる」と呟いた。

ミウは封筒をしまう場所を三度変えた。

机の引き出しでは見つけにくい。

枕元では濡れるかもしれない。

最後に赤い日記の表紙の内側へ入れた。

「忘れた私が、自分で選んで開けるように」

オズマは場所だけ覚え、内容は尋ねなかった。


その夜、娘は眠る前に「明日もお父さんと朝ごはんを食べたい」と言った。

オズマは「もちろん」と答えた。

遠い未来を保証できなくても、明日の食卓を整えることはできる。

日記の頁には、まだ乾かない二つの言葉があった。

「海」「お父さんと」

オズマは娘の眠りを確かめた。

未来の保証はない。

それでも明日を選ぼうとする娘の声だけは、忘れたくなかった。

ミウは赤い日記の新しい頁に、大きく「海」と書いた。

その下には「お父さんと」と続いている。

オズマは文字を見つめた。

未来を保証できない。

それでも、娘が生きたいと願う明日を諦めない。

ミウが眠ったあと、オズマは日記の「海」という文字をもう一度見た。

娘が父を忘れる未来を想像すると、胸の奥が冷たくなる。

それでも、治癒を使わないまま娘を失う未来はもっと恐ろしかった。

彼は今夜の発作の時刻と呼吸の変化を書き、翌朝オルドに見せる紙を用意した。

娘の願いを守るために、父親の恐怖を隠して決断を急がない。

明日、ミウが目を覚ましたら、まず本人の言葉を聞く。


翌朝の診察で、ミウは昨日のことをほとんど覚えていなかった。

オルドが簡単な質問をすると、名前と場所は答えられたが、日付を間違えた。

オズマは代わりに答えようとして止まった。

娘が自分で答えられる時間を奪ってはいけない。

診察が終わると、オルドは父だけを廊下に呼び、発作の頻度が増えていると告げた。

「まだ待てる時間はあります。ただし、無期限ではありません」

オズマは頷いた。

オズマは日記の表紙を閉じ、寝台の横へ戻した。

娘の言葉を未来へ運ぶのは紙だけではない。

明日また尋ね、明日また聞く。

そんな小さな約束を、父は自分の胸にも書きつけた。

オルドが帰ったあと、オズマは明日の診察に持っていく質問を整理した。

ミウが自分で話せる時間を残すこと。

症状が悪化したら迷わず助けを求めること。

父としてできるのは、娘の代わりに未来を決めることではなかった。


翌日の診察では、ミウは自分の名前を答えられたが、前夜の発作を覚えていなかった。

オルドは症状の変化を説明し、次の発作に備えた観察方法を伝えた。

父が答えを先回りしそうになると、ミウは手を上げた。

「私が答える」

オズマは口を閉じた。

診察後、ミウは封を切っていない手紙を確かめ、「読みたくなったら自分で開く」と言った。

父はその意思を記録した。

次の診察に向けて、ミウは封筒を開く前に父へ尋ねた。

「昨日の私は、何を選んだの?」

オズマは「今朝の君にも聞いてほしいと言っていた」と答えた。

昨日の言葉を命令として使わず、娘が質問できるように診療票を並べた。

ミウはしばらく読んでから、まだ決められないと言った。

「それでいい。ただし、病状が変わったらまた相談しよう」

二人は今日の日付を書き、次の診察時刻を確認した。

診察を終えたミウは、日記の最後に小さな空欄を残した。

何を書こうか迷っていると、オズマが「今日、何が一番怖かった?」と尋ねた。

「自分の名前が分からなかったこと。でも、もっと怖かったのは、お父さんが私の代わりに全部決めてしまうこと」

オズマは言葉を失った。

守りたい気持ちが強すぎるほど、娘の声を聞き逃してしまう。

彼は診療票の余白に『本人の希望を毎回確認する』と書いた。

ミウはそれを読んで頷き、自分の日記には『今日も、私が選ぶ』と記した。

夕食のとき、ミウは自分の皿を選び、明日食べたいものを尋ねた。

オズマは答えを聞いて買い物帳に書いた。

大きな治療の選択が迫っていても、今日の小さな選択を娘から奪う理由にはならなかった。

朝になり、ミウは枕元の日記を開いて「海」と書かれた頁を指さした。

「この字は私の字?」

オズマは頷き、いつ書いたかを説明した。

娘は少し考え、「覚えていなくても、行きたいと思う」と言った。

オズマは胸が詰まり、答えるまで時間がかかった。

「そのときの君にも、もう一度聞くよ」

ミウは安心したように日記を閉じた。

父が守るべきものは、昨日の娘の願いだけではない。

明日、変わってしまうかもしれない娘の声でもある。

部屋へ戻ると、ミウは封筒を机に置いていた。

「明日の私に、何を書けばいいか分からない」

オズマは隣に座った。

「全部書かなくてもいいよ」

ミウは考えた末、『怖いときは、怖いと言っていい。

お父さんに聞いてもいい』と書いた。

父は封をするのを手伝ったが、中身を覗かなかった。

ミウは笑って「秘密ができたね」と言った。

オズマはその笑顔を覚えておこうとした。

いつか娘が自分を忘れても、今日交わした尊重まで無かったことにはならない。

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