第三十八話 父親を知らない子供たちの合唱
合唱の発表が止まった。
トビアスが歌詞の途中で黙り込み、隣の子も次の言葉を思い出せない。
舞台の下で待つ親たちは誰も急かさなかった。
ひとりの母親が小さく続きを口ずさむまで、広場には風の音だけが流れた。
広場でトビアスが歌詞を忘れたとき、誰もすぐには歌い直させなかった。
彼は舞台の上で唇を噛み、客席の母親を探した。
母親が小さく最初の一節を口ずさむと、隣の子供が続き、やがて合唱になった。
トビアスは声を取り戻したが、最後の行だけは違う歌詞になった。
指導役は止めなかった。
「今日は、今日の歌でいい」と言った。
終演後、ミウはトビアスに「怖くなかった?」と聞いた。
「怖かったよ。でも、みんなが待ってくれた」
ミウはしばらく考え、赤い日記の余白にその言葉を書いた。
忘れたときに叱られると思うから、間違えることが怖い。
誰かが待ってくれると知れば、もう一度声を出せる。
オズマはその頁を読んで、娘に答えを教えるより待つことの難しさを思った。
子供たちの歌が終わると、一人の少女が「明日も同じ歌を歌う?」と聞いた。
ミウは答えに迷い、「明日は違う歌でもいい」と言った。
忘れた昨日を再現するだけが、明日の過ごし方ではない。
オズマは拍手しながら、娘が自分で選んだ返事を胸に刻んだ。
翌日の教室では、歌詞を忘れた子だけでなく、覚えている子も新しい節を間違えた。
皆が笑い、最初から歌い直した。
誰か一人だけが特別に助けられるのではない。
その教室では、全員が互いを待つことを覚えていった。
舞台を片づけるころ、トビアスがミウに「次も歌っていい?」と聞いた。
ミウは教師を見た。
教師は頷いたが、子供自身に決めさせた。
「歌いたいなら、もちろん」
トビアスは少し考え、「次は違う歌にする」と言った。
昨日と同じ歌を覚えることが目的ではない。
新しい歌を選ぶ自由もある。
ミウはその言葉を帰宅してオズマに伝えた。
父は笑い、「君も次に何をしたいか、自分で決めていい」と答えた。
歌が終わっても、子供たちはしばらく舞台を降りなかった。
トビアスが母親に手を振る。
覚えていない昨日ではなく、今日覚えた声が二人をつないでいた。
終演後、トビアスは歌詞を書いた紙を母親に渡した。
「明日、僕が忘れていたら、これを見せて」
母親は受け取りかけて、「あなたが見たいときに見られる場所に置こう」と答えた。
オズマは舞台袖でそのやり取りを聞いていた。
覚えている大人がすべてを決めるのではない。
歌えなかった一節を、次は子供自身が選んで歌う。
その小さな自由を守ることも、治療と同じくらい大切なのだと感じた。
翌週、トビアスは合唱の練習で同じ歌詞をまた忘れた。
以前なら泣いて退室したという。
だが彼は自分で紙を取り出し、「ここから歌ってもいい?」と仲間に尋ねた。
指揮をする少女が頷き、全員が一拍待った。
オズマはその一拍の静けさに胸を打たれた。
誰かが思い出すのを待つ時間は、失敗ではない。
舞台で聞いた歌声は今日も不完全だったが、少年は最後まで自分の足で立っていた。
片づけの時間、トビアスは間違えた歌詞を消そうとした。
指導役は紙を押さえ、「今日の歌を残しておこう」と言った。
子供たちはその横に正しい歌詞を書き足した。
誰かが間違えたから歌が壊れたのではない。
途中で助け合ったことまで含めて、一度きりの合唱だった。
帰り道、ミウは父の手を握り、「私が忘れても、怒らない?」と尋ねた。
オズマは「怒らない」と答えかけ、言い直した。
「困ることはあるかもしれない。でも、君を責めないようにする」
娘はその不器用な返事に笑った。
約束は立派な言葉より、明日も守れる言葉であるほうがよかった。
舞台裏では、トビアスが自分の失敗を気にしていた。
「みんなに迷惑をかけた」
ミウは返事に迷った。
自分も毎日のように忘れて、誰かに教えてもらっている。
けれど、助けてもらうことが迷惑なのかどうか、まだ分からない。
指導役は「歌が止まったとき、ほかの子がどうしたか見た?」と尋ねた。
トビアスは「待ってくれた」と答えた。
「それが今日の練習で一番大切なことだった」
ミウはその言葉を日記に書いた。
家に戻ると、オズマは娘の歌をもう一度聞きたいと言った。
ミウは最初の一節を歌い、途中で止まった。
「ここから先、分からない」
オズマは続きを歌わず、「一緒に別の歌を作ろうか」と言った。
二人は窓の外の風や、台所の湯気を歌詞にした。
上手な歌ではなかったが、ミウは何度も笑った。
日記には『今日の歌は今日しか歌えない』と書かれた。
忘れないためだけでなく、今日を生きた証として。
翌日の練習で、トビアスは歌詞の紙を持ってきた。
間違えた箇所を消さず、その横に正しい言葉を書き足してある。
「昨日の歌も残していい?」
指導役が頷くと、ミウは自分の日記もそうしたいと思った。
失敗を責めるためでなく、明日の自分を助けるために残す。
家に戻ったミウが歌を忘れたとき、オズマは一緒に新しい一節を考えた。
歌詞を書いた紙をしまうと、ミウは「また忘れるかな」と呟いた。
オズマは「そうかもしれない」と答えた。
それでも紙を捨てなかった。
次に歌うとき、同じ歌でも違う歌でも、二人が笑えればよかった。
トビアスの母親は帰り際、ミウに礼を言った。
「息子が失敗したことを、笑わずに聞いてくれてありがとう」
ミウは首を振った。
「私も失敗するから」
二人は舞台のほうを見た。
片づけられた椅子の間に、まだ歌の余韻が残っていた。
合唱の練習でトビアスが歌詞を忘れると、隣の子が小声で続きを教えた。
教師は歌を止めず、子供たちが自分で戻れるのを待った。
ミウは客席で、その様子を見ていた。
誰かが忘れたとき、正しい答えを大声で押しつけなくてもいい。
少し隣にいるだけで、歌が続くこともある。
終演後、トビアスは歌詞の紙を母親に渡した。
「明日忘れても、また歌えるように」
母親は紙を子供の手に戻した。
「あなたが見たい場所に置こう」
トビアスは胸のポケットへしまい、ミウに笑いかけた。
オズマは舞台袖からその光景を見た。
忘れた人に何を知らせるかを決めるのは、覚えている人だけではない。
子供たちは歌だけでなく、その選び方も覚え始めていた。




