第三十七話 娘が選んだ小さな旅
船着場に着くと、ミウは目印の青いリボンを見つけた。
「ここからなら帰り道が分かるよ」オズマは遠出を止めようとしていた。
だが娘は旅のために自分で目印を考え、エマにも手伝ってもらっていた。
守ることと閉じ込めることの境目が、父にはまだ難しい。
ミウはエマと作った道順の紙を父に見せた。
船着場までの曲がり角には青いリボン、迷ったときに戻る場所には店の看板が描かれている。
「忘れるかもしれないから、行かないほうがいい?」と聞かれ、オズマはすぐに答えられなかった。
娘の安全を考えれば、家にいるのが一番だ。
けれど家の中で守るだけでは、娘の世界は小さくなってしまう。
三人は船着場まで出かけた。
途中、ミウは道を忘れて立ち止まった。
オズマが腕を取ろうとすると、娘は「少し待って」と言い、紙を開いた。
目印のリボンを見つけ、店の人に場所を確かめてから歩き出す。
海そのものはまだ遠かったが、潮の匂いが風に混じっていた。
「次は本物の海へ行きたい」
ミウは貝殻の絵を父に渡した。
オズマはその場で旅の約束をした。
ただし、病状と道の安全を確かめてから。
守ることと、選ばせることを両方諦めないために。
旅支度の途中、ミウは薬の包みより先に小さな画帳を鞄へ入れた。
「忘れたときに見返すため?」とオズマが尋ねる。
「ううん。忘れても、きれいだと思ったものを描きたいから」
父は薬箱の蓋を閉め、娘の画帳が折れない場所を空けた。
川へ向かう道の途中、ミウは立ち止まった。
「ここから先は、今日は無理かもしれない」
オズマは引き返そうとしたが、娘は少し休みたいだけだと言った。
二人は木陰で水を飲み、地図を広げた。
海までの距離を指でたどるミウに、オズマは「今日ここまで来られたことも、旅だよ」と伝えた。
ミウは自分で帰り道を選んだ。
家に戻ると、ミウは地図に丸を二つ描いた。
一つは歩けた場所、もう一つは怖くなった場所だった。
「両方残しておきたいの」
オズマは頷いた。
うまくいったことだけを書けば、次に歩くとき同じ場所で無理をするかもしれない。
翌日の体調は分からない。
それでも、どこで休めるかを二人は知った。
海へ行く約束は、今日の小さな選択の上に続いていた。
川の水面に夕日が伸びた。
ミウは「海はもっと広いんだよね」と聞いた。
オズマは頷き、娘の手を握った。
約束は未来のためだけではない。
今日を歩く理由にもなる。
宿の主人は海までの道を地図に描き、途中に休める村を二つ記した。
ミウは遠回りだと気づいたが、父の疲れた顔を見て何も言わなかった。
オズマはその沈黙を察し、「君が行きたい場所も聞かせて」と頼んだ。
ミウは小さな港を指さした。
「ここで貝殻を探したい」
旅程には新しい寄り道が加わった。
地図を片づけようとしたオズマに、ミウは「怖かった場所にも印をつけて」と頼んだ。
エマは橋の手前に小さな丸を描き、休めた木陰には星をつけた。
「次は星の場所まで行けばいいね」
ミウは頷いたが、海へ行く約束の日付は書かなかった。
体調のよい日を自分で選びたいからだ。
オズマは空白の欄を残した。
約束を守るとは、予定を押しつけることではない。
娘が歩ける日まで、地図を閉じずに待つことでもあった。
船着場から戻ると、ミウは疲れて椅子に座り込んだ。
オズマは外出を許したことを後悔しかけたが、娘は息を整えて言った。
「疲れた。でも、行ってよかった」
オルドの診察では大きな悪化は見られなかった。
父は安堵し、次の旅では休憩を増やそうと地図に印をつけた。
「全部お父さんが決めるの?」とミウが聞く。
オズマは鉛筆を渡した。
娘は貝殻の絵のある港に丸をつけた。
「ここで少し長く休みたい」
二人の計画は、安全だけを優先した道から、娘が行きたい道へ少しずつ変わっていった。
港では、小さな船が岸に戻ってきた。
ミウは海鳥を見つけて歓声を上げ、次の瞬間、何を見ていたのか分からなくなった。
オズマの胸が締めつけられる。
だが娘は「もう一回教えて」と頼み、父が指さした空を見上げた。
海鳥はまだそこにいた。
忘れた瞬間の悲しさと、もう一度見つけた喜びは、同じ日の中にあった。
帰り道、ミウは「次はもっと遠くまで行きたい」と言った。
オズマは体調を確かめ、無理のない旅程を一緒に考えようと答えた。
オズマは帰宅後、旅の地図を壁に貼った。
ミウは今日歩けたところに小さな丸をつけた。
まだ行けない場所にも丸をつけた。
二つの丸は違う色だったが、どちらも娘が選んだ場所だった。
エマは次の旅に向け、宿場の名前を書いた紙をミウに渡した。
ミウはその横に、見たい景色の絵を描いた。
旅の準備は病状の管理だけではない。
どんな景色に出会いたいかを考えることでもあった。
帰宅後、ミウは地図に二種類の印をつけた。
迷った場所には丸、休んで元気を取り戻した場所には星。
オズマは丸を消したくなったが、娘は止めた。
「次に困ったら、ここで誰かに聞けるから」
忘れたことや迷ったことも、次の旅の手掛かりになる。
オズマは娘の地図を壁に貼り、次の外出では休憩を増やそうと約束した。
港で見た船の名前をミウは帰宅後に忘れていた。
オズマは答えを教えようとしたが、娘は地図を広げて自分で思い出そうとした。
名前は戻らなかった。
それでもミウは港の絵を描き、次に行ったとき船員に聞こうと決めた。
忘れたことが、次の旅の理由になる日もある。
船着場の帰り、ミウは道案内の紙に赤い印を一つ増やした。
目印にしていた青いリボンが、風で裏返って見えなくなっていた場所だ。
「次は看板も覚えておく」と言う娘に、オズマは「困ったら店の人に聞くのもいい」と答えた。
ミウは頷き、紙の余白に『一人で分からないときは助けを頼む』と書き足した。
父はその文字を見て、娘の自立を自分の手から離れることだけだと考えていたと気づいた。
旅から戻ると、ミウは地図の端に小さな印を描いた。
「ここで怖くなった」「ここでエマが待ってくれた」
オズマは成功した場所だけ記せばいいと言いかけ、口を閉じた。
怖かった道も、娘が歩いた道だ。
ミウは青いリボンを外して日記に挟み、「今度は海の匂いがするところまで」と書いた。
オズマは無理だとも必ず行けるとも言わなかった。
「次の一歩を、一緒に考えよう」
その返事なら約束を破らずに済むと思った。




