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忘却の治癒師 ~娘に忘れられても、俺は何度でも父親になる~  作者: レモンティー


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第三十六話 救えなかった兵士の弟

西門に立っていた青年は、泥のついた軍靴を机に置いた。

「兄のです。あなたが救えなかった兄の」オズマは弁解を用意していた。

だが青年の握りしめた拳を見たとたん、口を開けなくなった。

謝罪で取り戻せる命ではなかった。

ノアは兄の軍靴を机に置いた。

「あなたが兄を助けられなかった夜、何があったんですか」

オズマは古い診療簿を開き、手当てをした時刻、呼吸が弱くなった時刻、最後に話した言葉を順に伝えた。

美しい最期だったとは言わなかった。

ノアは怒りを隠さず、「許すために来たわけじゃない」と告げた。

オズマは「分かっています」と答えた。

記録には兄の名前が一文字間違っていた。

ノアが指摘すると、オズマは誤記を消さず、線を引いて正しい名と訂正日を書いた。

「間違いがあったことも残します」

ノアはしばらくその頁を見つめ、軍靴を持って立ち上がった。

帰り際、彼は「兄は靴紐を結ぶのが下手だった」と小さく笑った。

オズマは戦場でしか知らなかった兵士の、家族の中での姿を初めて知った。

ミウはその夜、軍靴の絵を描き、名前を尋ねた。

オズマは正しく答えた。

兵士の弟は礼を言う代わりに、兄が持っていた欠けた木の笛を差し出した。

オズマは受け取らなかった。

「君のものだ」

青年は笛を握りしめ、「じゃあ、兄の名前だけ覚えていて」と言った。

オズマは診療記録にその名を書き、声に出して読み返した。

青年の兄の名は、診療所の壁には掲げなかった。

家族が望まない形で知られるべきではない。

オズマは記録を閉じ、次に青年が訪れたときに見せられるよう棚へ戻した。

診療簿の訂正を見たサーラは、古い記録にも同じ誤字が残っていることに気づいた。

オズマは写しのすべてを修正しようとしたが、サーラは「元の記録は消さないで」と止めた。

間違いがあった事実も残さなければ、誰がいつ訂正したか分からなくなる。

二人は誤記に線を引き、正しい名前と訂正日を添えた。

青年へは、その経緯も伝えた。

小さな訂正が、失われた一人の人生を軽く扱わない証になった。

青年が去った後、床には軍靴の泥が残った。

オズマはすぐに拭かなかった。


やがて布を取り、静かに拭いた。

記憶することは、汚れを残し続けることではない。

帰り道、ミウは「救えなかった人の名前も書くの?」と尋ねた。

オズマは頷いた。

「救えた人だけ並べれば、私は間違わない治癒師に見える。でも、それは本当じゃない」

ミウは黙ってから、自分の画帳を差し出した。

「この頁、あの笛の絵に使っていい?」

オズマは初めて、娘と一緒に失った人を悼んだ。

ノアが帰ったあと、サーラは診療簿の訂正欄を見た。

「名前を直しただけでは、あの人の悲しみは消えませんね」

オズマは頷いた。

許しを得るために記録を直したわけではない。

間違いをそのままにしておけば、兄がここにいた事実まで曖昧になってしまう。

夕食の席でミウは軍靴の絵を見せた。

「靴だけじゃ寂しいから、紐も描いた」

オズマは笑いかけて、胸が詰まった。

ノアが語った兄の不器用な癖を、娘は忘れない形にしていた。

救えなかった人の話をすることは、失敗を数えるだけではない。

生きていた人を一人の人間として思い出すことなのだ。

ノアが持ってきた軍靴には、片方だけ新しい紐が通してあった。

「兄は紐を結ぶのが下手で、いつも俺が直していたんです」

オズマは戦場でその兵士の足を見た記憶を探した。

傷と熱と呼吸のことは覚えている。

だが、靴紐のことは知らなかった。

「私は、あなたの兄を患者としてしか知らなかった」

ノアは「それでいい」とは言わなかった。

ただ、軍靴を膝に置き、兄が家でよく歌った曲の話をした。

オズマは聞きながら、記録には書けない人生の大きさを思った。

ミウは絵を描き終えると、父に見せた。

軍靴の横に、小さな家と二人の少年がいる。

「ノアさんのお兄さん、家に帰りたかったのかな」

オズマは「そうかもしれない」と答えた。

分からないことを、知っているように話したくなかった。

ノアに絵を渡すと、彼はしばらく黙り、「兄はこんなに立派な靴を履いてなかった」と言って笑った。

それから泣いた。

オズマは慰めの言葉を探さず、ただそばにいた。

救えなかった命の前では、治癒師の肩書きより、沈黙を共にする時間が必要なこともある。


その晩、オズマは戦場の記録を閉じる前に、ノアから聞いた兄の癖を余白に書いた。

診療の判断とは別の欄に。

生きていた人のことを、傷の数だけで終わらせないためだった。

ノアが扉を出るとき、オズマは呼び止めなかった。

謝罪を重ねれば、自分が楽になるだけかもしれない。

代わりにサーラへ、古い戦場の記録に誤字がないか点検を頼んだ。

ミウはその仕事を手伝いたいと言い、父は一緒に一頁ずつ読み始めた。

ノアの軍靴には片方だけ新しい紐が通してあった。

兄は結び方が下手で、弟がいつも直していたという。

オズマが覚えていたのは傷と呼吸の状態ばかりだった。

ノアは「兄は人を笑わせるのが得意だった」と話した。

オズマはその人柄を知らなかったと正直に伝えた。

診療記録を直しても悲しみは消えない。

それでも、兄が生きた証を取り違えずに残すことはできる。

手紙の返事を待つ間、オズマは兄の診療記録を改めて読み直した。

『救命できず』という四文字の横には、当時の自分が書いた短い時刻しかない。

ノアが語った靴紐の癖や、家族を笑わせた話は、そこには収まらない。

記録は命を守るために必要だが、人の一生を全部書けるわけではない。

オズマは診療簿を閉じ、ノアの返事が来るまで手紙を別の封筒に保管した。


翌朝、ノアから短い手紙が届いた。

兄の名前を正しく書いてくれたことへの礼ではなく、子供のころの兄の話が二つ記されていた。

オズマはその手紙を勝手に診療簿へ挟まず、ノアへ保存の許可を尋ねる返事を書いた。

青年は兄の軍靴を机に置いた。

「兄が死んだ夜のことを、話してくれ」

オズマは当時の診療簿を開き、覚えている事実と覚えていないことを分けて話した。

自分を許してほしいとは言わなかった。

青年は何度も質問し、最後に「兄は苦しんだのか」と尋ねた。

オズマは目を伏せ、短く答えた。

青年は泣かなかった。

軍靴を抱え直して立ち上がった。


翌日、オズマは診療簿に書かれた兄の名前の誤字を訂正した。

訂正した日付も残した。

青年へ写しを送ると、返事には「確かめた」とだけあった。

許しの言葉はなかったが、それでよかった。

オズマはその紙を記録に挟んだ。

救えなかった人を記憶することは、きれいな結末を作ることではない。

その人が確かに生きていたことを、正しく残すことだった。

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