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忘却の治癒師 ~娘に忘れられても、俺は何度でも父親になる~  作者: レモンティー


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第三十二話 忘れられた治癒師の名簿

「あなたが私を救ったという証拠は?」窓口に来た老人は、オズマの顔を見ても何も思い出さなかった。

古い治療記録には確かに老人の署名がある。

だが、その紙を突きつければ信じてもらえるとは限らない。

サーラは名簿を伏せ、「本人が望まない情報を一方的に伝えるのは慎重であるべきです」と静かに告げた。

老人が帰った後、サーラは名簿を閉じた。

「助けた記録があるからといって、本人に思い出す義務はありません」

オズマは頷いた。

これまで彼は、忘れられる痛みを一人で抱えてきた。

だが、記録を突きつけられた患者にも戸惑う権利がある。

老人の診療簿には手術の日付と家族の署名が残っていた。

サーラが確認を取ると、娘は父が生き延びたことは知っているが、治療者の名前は聞いたことがないと答えた。

一方、役所の名簿には妙な点があった。

患者名は消えていないのに、治癒師の欄だけ筆跡が違う。

写しにはオズマの名があり、原本には削った跡がある。

魔法が紙の文字を消すとは限らない。

誰かが意図して訂正した可能性を考え、オズマは原本の保管者と訂正日時を調べることにした。

「犯人を捜すの?」とミウに聞かれ、彼は「まず何が起きたかを確かめる」と答えた。

自分の名前を取り戻すために、他人の名誉を傷つけたくなかった。

ミウは名簿の余白に小さな丸を描いた。

「この人たち、名前を消されたら、助けてもらったことまで消えるの?」

オズマは首を振った。

「生きてきた時間までは消えない。ただ、記録を直す責任は私たちにある」

二人は原本の所在を確認し、本人の許可なく病歴を公表しないことを決めた。

名簿を閲覧したいという老人は、受付の前で立ち止まった。

「ここに書かれている昔の私を、今の私が知る必要はあるのか」

サーラは答えを急がず、希望すれば途中で閲覧をやめられると説明した。

老人は結局、名前の載った頁を開かずに帰った。

オズマはその選択を記録しなかった。

本人が知りたくない過去まで、誰かが管理するべきではないからだ。


翌日、別の女性は自分から記録を求めた。

治療の日付を確認すると、亡くなった夫の手帳に同じ日付があると言った。

「顔は覚えていないけれど、助かったあとに一緒に見た夕焼けは覚えています」

彼女は写しを受け取り、静かに頭を下げた。

名簿は、誰かを感謝させるための道具ではない。

望む人が自分の人生を確かめるための入口になった。

サーラは閲覧の案内文から「真実を知る権利」という大きな言葉を消し、「知りたいときに申し込めます」と書き直した。

老人にも女性にも、同じ自由が必要だった。

役所では、古い写しを作った書記が退職していた。

サーラはその住所を調べようとしたが、オズマは先に本人へ連絡してよいか確認するよう頼んだ。

名簿を守るために、別の誰かの暮らしを勝手に調べてはならない。


数日後、書記から返事が来た。

空欄は本人の希望で伏せたものと、後から削られたものが混在しているという。

二種類を区別するため、閲覧記録に訂正履歴の欄が加えられた。

夕暮れ、窓口に戻ったサーラは名簿の空欄を見た。

そこには誰かの欠落ではなく、本人に委ねられた選択があった。

オズマはその空欄を埋めなかった。

名簿の写しを持ってきた役人は、「原本にはその名前がない」と言った。

ミウが二冊を並べると、削られた欄の下に古い日付だけが残っていた。

「名前を消したのは、忘却の力じゃない」

オズマはそう呟いた。

誰かが人の手で記録を消したのなら、その理由を調べなければならない。

サーラは窓口の奥で、名簿に載る人々へ一律に知らせを送る案を取り下げた。

「記録があるからといって、知ることを強制できない」

代わりに希望者が閲覧できる手続きを作り、本人確認の方法を二人で決めた。

老人が帰り際に「次に来たら、今日のことを話してくれ」と言った。

オズマは頷いた。

救った過去を信じさせるより、次に会う約束を守る方が確かだった。

帰りかけた老人が、窓口の前で立ち止まった。

「名簿を見ないことも選べるんだな」

サーラは頷き、閲覧の申し込み用紙と、何も記入せず持ち帰れる封筒を並べた。

老人は後者を選んだ。

オズマは彼の名前を呼びそうになり、飲み込んだ。

名簿にある過去が、目の前の人の現在より大切なはずはない。


翌日の受付には、別の女性が自分の意思で閲覧を申し込んだ。

名簿は答えではなく、選択肢になり始めていた。

翌日、老人の娘が治療院を訪ねた。

父には話さないでほしいという。

「父は忘れたことを責めているんです。知らない治癒師の名前を押しつけられたら、もっと苦しむ」

オズマは診療記録の閲覧を保留した。

サーラは、本人が望む範囲で確認できる手続きを作ろうと提案した。

名簿を公開すれば感謝を得られるかもしれない。

しかし、そのために患者の秘密を奪うことはできない。

夕方、ミウは父に尋ねた。

「忘れられたことが悲しいのに、どうして教えないの?」

オズマは少し考えた。

「私の悲しさを減らすために、あの人の今の暮らしを壊したくない」

ミウはその言葉を日記に書かず、しばらく胸にしまっていた。

サーラが作った閲覧申込書には、最初は名前と住所しか欄がなかった。

老人の娘はそれを見て「父が申し込んだら、全部見せるんですか」と尋ねた。

サーラはペンを取り、閲覧する範囲を本人が選べる欄を加えた。

治療日だけ、処置内容だけ、担当者名まで。

知る権利と、知らずにいる自由は同じ紙の上に並べられた。

オズマは自分の名が最後の選択肢になったことに、わずかな痛みを覚えた。

だが、その痛みを理由に順序を変えようとは思わなかった。

夕方、老人はもう一度窓口に戻ってきた。

娘に聞いて、記録の存在だけは知りたくなったという。

サーラは最初に閲覧できる範囲を説明し、老人自身に選んでもらった。

老人は治療日と退院日を確認したが、治癒師の名前の欄は開かなかった。

「今日はここまででいい」

オズマはその選択を尊重した。

名前を知られなかったことは寂しい。

それでも、自分のために老人の一日を変えずに済んだことに安堵した。

役所の書記が残した古い訂正簿を調べると、患者本人の希望による伏せ字には印があるのに、いくつかの削除には印がなかった。

サーラは「不正だ」と断じかけて口を閉じた。

書類の規則が変わった時期と重なっていたからだ。

オズマは旧規則を探すよう頼んだ。

調べるべきものが増え、名誉回復は遠のく。

それでも確かな事実だけを積み上げることが、後に名簿を読む誰かへの責任だった。

帰宅後、ミウは「お父さんの名前を覚えている人が少なくても、私は今日の話を聞いたよ」と言った。

オズマはその日初めて、名簿を閉じて食卓についた。

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