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忘却の治癒師 ~娘に忘れられても、俺は何度でも父親になる~  作者: レモンティー


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第三十一話 銀の箱は奇跡ではなかった

銀の箱が破裂した瞬間、助手ミトの悲鳴が実験室を裂いた。

床には銀色の破片が散り、フェルは手袋を脱ぐことも忘れて駆け寄った。

オズマは治癒の光を呼びかけ、ミト自身の「待ってください」という声で止めた。

「先に破片を抜いて。何が起きたか、記録も残して」その指示に従うことから、今日の研究は始まった。

工房の作業台には、箱の破片が十枚並んでいた。

フェルは一枚ごとに割れ目の向きを描き、ミトには怪我をした位置を再現してもらった。

「私が締めすぎたからです」とミトが言うと、フェルは首を振った。

「そうかもしれない。けれど、そうだと決めれば調査は終わってしまう」

破片の裏側には、加工時にできた細い傷があった。

箱を組み立てる前からついていた傷だ。

部品を納めた工房に照会すると、一部だけ外注品だったことが分かった。

検品欄は空白。

ミトの手の傷は、たった一つの失敗ではなく、いくつもの見落としの結果かもしれなかった。

オズマは怪我を治そうとして止めた光のことを思い出した。

治癒を拒まれたのではない。

まず破片を取り除き、傷を調べ、本人の同意を得るという順番を教えられたのだ。

ミトは処置を受けながら「事故を隠さないでください」と頼んだ。

オズマは事故報告に自分が術を使おうとしたことも書いた。

誰かの失敗を責める記録ではなく、次に手を止めるための記録にしたかった。

「お父さんはどうしたい?」とミウが聞いた。

「君に生きていてほしい」

「それだけ?」

オズマは答えに詰まった。

命さえあればいい、と自分に言い聞かせてきた。

けれど娘は、ただ呼吸を続けるためだけに生きているのではない。

友達と笑いたい。

海を見たい。

自分の足で歩きたい。

忘れてしまう朝があっても、今日を楽しみたい。

「君が、君のしたいことを選べるようにしたい」

ようやくそう答えると、ミウは笑った。

「じゃあ、私の話もちゃんと聞いてね」

オズマは小指を差し出した。

娘の小指が触れる。

細い指は時々震える。

それでも約束を結ぶ力は、確かに残っていた。

工房の職人は箱の内側の留め具を見て、首を振った。

「この傷は破裂でついたものじゃない。組み立てる前からある」

フェルは破片の記録と照らし、次の試験を中止した。

誰かの悪意を疑う前に、製造工程を確かめる。

だが、部品の納品書には一か所だけ、別の工房の印があった。

職人から届いた返答には、部品の一部を別の工房に外注したとあった。

納品日は事故の三日前。

だが検品欄は空白だった。

フェルは「誰が悪いかより、どこで確かめ損ねたかだ」と言い、工程表に検品の担当を追加した。

オズマはその写しをミトにも渡した。

ミトは紙を握りしめ、「次は作る前に私が確かめます」と言った。

責任を押しつけられたのではなく、次の仕事を任されたのだと分かったのだ。


翌朝、ミトは包帯を巻いたまま研究室に来た。

棚には壊れた箱が置かれていた。

「失敗を見せておくんですね」

フェルが頷く。

オズマはその棚に、次の実験を止めるための赤い札を掛けた。

午後、検品に来た職人は、外注先の印を見て顔色を変えた。

「この部品は急ぎの注文でした。納期に間に合わせるため、最終確認を省いた」

フェルは責める代わりに、次の箱の製造を止めた。

オズマは思わず「ミウには時間がない」と口にした。

するとミトが包帯の手を差し出した。

「私にも時間はあります。次に傷つく人にも」

オズマは黙った。

娘を守りたいという願いが、別の人の痛みを見えなくしていた。

研究室の壁には赤い札が掛けられた。

検査結果が揃うまで再試験は禁止。

夕食の席でその話を聞いたミウは「私のために誰かが怪我するのは嫌だ」と言った。

父は事故を隠さなかったことだけを、今日は誇りに思った。

研究室の扉には、事故のあとも人が集まっていた。

若い職人は「うちの部品のせいにされる」と怯え、フェルは「原因が分かるまで責任は決めない」と答えた。

オズマは割れた箱の寸法を測り直した。

図面では厚みが均一のはずなのに、底の縁だけわずかに薄い。

外注先の加工機では、その部分を削るときに支えが外れるという。

図面を描いた者、加工した者、組み立てた者、試験を許可した者。

それぞれが正しいつもりでも、危険は残る。

ミトは傷ついた指を見ながら、「私が悪いと決めてもらったほうが簡単だった」と漏らした。

フェルは「簡単な答えで次の人を傷つけるわけにはいかない」と返した。

ミウが研究室へ届けた弁当は、冷めてしまっていた。

父が食べずに記録を見ていると、娘は包帯のミトに先に声をかけた。

「痛くない?」

ミトは「少しね」と答え、無理に笑わなかった。

ミウは父へ向き直る。

「箱が完成したら私を治せるの?」

オズマは首を振った。

「まだ、分からない。今日分かったのは、今の箱を使ってはいけないということだ」

ミウは落胆したが、事故の記録を読んで「止めるのも仕事なんだ」と言った。

オズマはその言葉を報告書の末尾に記した。

成果を急ぐ日ほど、止めた理由を忘れてはいけない。

事故報告の最後に、フェルは試験再開の条件を三つ書いた。

新しい部品の検品、組み立て後の耐圧確認、そして立ち会う者全員の同意。

オズマはその紙に署名した。

娘のために急ぎたい気持ちは消えない。

だからこそ、急いだことが理由で誰かを傷つけたとき、立ち止まれる仕組みが必要だった。

ミトの傷は数日で塞がったが、指先の感覚が戻るまでには時間が必要だった。

オズマは一度で治そうと申し出たものの、ミトは経過を見て決めたいと言った。

フェルはその希望を診療記録へ記した。

研究を進める人の体も、研究の道具ではない。

ミウはその記録を読んで、治療を受ける人が決めることの意味を少し理解した。

フェルは納品書と部品番号を照合し、蓋と底が別の型だったと突き止めた。

わずかな寸法差でも圧力が集中すれば破損につながる。

ミトは自分が組み立てた責任を口にしたが、フェルは番号を確かめる手順自体がなかったと指摘した。

オズマは検品を終えるまで試験を止めることに署名した。

娘のために急ぎたい気持ちは消えない。

それでも、次の負傷者を出してはならなかった。

検品記録を見直したフェルは、銀の箱の蓋と底に別々の製造番号が刻まれているのを見つけた。

二つの部品は、もともと同じ箱のものではなかった。

ミトは「私が間違えて組んだのかもしれません」と言ったが、部品を渡した棚には番号を区別する札がなかった。

オズマは報告書の責任欄を一人の名で埋めず、棚の管理方法と確認手順を記した。

次の実験を安全にするには、誰かを叱るより仕組みを変える必要があった。

研究室を出る前、オズマは赤い札の下に日付を書き加えた。

いつ止めたかが分からなければ、再開の判断も曖昧になる。

ミトは「次に試すときは私も説明を聞きたい」と申し出た。

フェルは頷き、事故報告の写しを渡した。

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