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忘却の治癒師 ~娘に忘れられても、俺は何度でも父親になる~  作者: レモンティー


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第三十話 父親の名前を、娘は三度書いた

人工容器の試験は夜明けから始まった。

フェルは結晶の粉を密閉した瓶に入れ、魔力の流れを測った。

オルドは過去の症例を読み直し、急激な吸収を避ける手順を考えた。

オズマは娘のそばに残った。

誰かに任せることを、ようやく覚え始めていた。

ミウは枕元に赤い日記を置き、父に尋ねた。

「今日は何をするの?」

「みんなが、君の体を少し楽にする方法を調べている」

ミウは頷いた。

「私も手伝える?」

オズマは首を振りかけたが、考え直した。

「君が今どう感じているか、教えてくれることが一番大切だ」

娘は指の震え、息苦しさ、朝になると薄れてしまう記憶を、一つずつ自分の言葉で話した。

昼、フェルが来た。

人工容器は試料の魔力を一部だけ吸収し、漏れも見つかっていない。

ただし長時間の安全性は不明だった。

グラディス院長は第三者の医師を集め、検証を続けると決めた。

「焦る気持ちは分かる。でも、同じ過ちを繰り返したくない」

オズマは院長を見た。

かつて自分を偽物と呼んだ人間が、今は娘の命を守ろうとしている。

人は変われるのだと思った。

夕方、ミウは庭へ出たいと言った。

オズマは肩を貸し、二人で黄色い花の前まで歩いた。

花びらは六枚のままだった。

「覚えてる?」と聞くと、ミウは少し考えて首を振った。

「でも、きれいだね」

オズマは頷いた。

「そうだね」

花の美しさは、昨日を覚えていなくても変わらない。

部屋に戻ると、ミウは日記の新しい頁を開いた。

『お父さんの名前はオズマ』。

一度書き、しばらくしてもう一度書いた。

三度目には手が震えて、最後の文字が大きく曲がった。

「忘れないように、三回書いた」

オズマは娘の背中に手を添えた。

「覚えていられなくても、君のせいじゃない」

ミウは顔を上げた。

「お父さんは、私が忘れたら悲しい?」

「悲しい。でも、君を責めたりしない」

娘は泣きながら笑った。

夜、オルドが静かに告げた。

「人工容器の方法が間に合わなければ、生命を守るために強い治癒を選ばねばならないかもしれない」

オズマは目を閉じた。

娘に忘れられる恐怖は消えない。

だが、娘が生きられない未来のほうが、はるかに恐ろしい。

彼は赤い日記を閉じ、枕元に置いた。

「そのときは、命を優先します」

声は震えていた。

それでも言い直さなかった。

眠りかけたミウが手を伸ばした。

「お父さん、明日もいる?」

「いるよ」

オズマは答えた。

「私が覚えていても、いなくても?」

「どちらでも」

娘は安心して眠った。

机の上には、三度書かれた父親の名前が残った。

物語はまだ終わらない。

明日を迎えるための戦いは、ここから始まる。


その晩、オズマは治療記録の余白に新しい欄を作った。

『患者本人の希望』。

これまでは病状と処置ばかりを記してきた。

ミウが望んだのは、父がそばにいること、勝手に治癒を使わないこと、忘れても責められないこと。

どれも魔法の効き目とは別の大切なことだった。

オズマは娘に確認した。

「ここに書いていいかい」

ミウは頷いたあと、少し考えて付け加えた。

「それと、元気になったら海を見たい」

オズマは筆を止めた。

病気が治ることだけを未来にしていた。

娘には、その先の願いがある。

「約束する。海を見に行こう」

ミウは笑った。

「約束が増えちゃったね」

オズマは「一つずつ守ろう」と答えた。


翌日へ向けて、オズマは三度書いた名前のことを帳面に書き残した。

何が確かで、何がまだ分からないのか。

紙に書き出すと、胸の中で絡まっていた恐怖が少しだけ形を持った。

庭の六枚の花で交わした言葉を思い出し、彼は自分に言い聞かせた。

娘が選ぶ未来を一つの答えで片づけないこと。

患者の身体だけでなく、その人がどう暮らしたいかを聞くこと。

自分の願いを、娘の願いと取り違えないこと。

ミウが父の名前を三度書いた紙には、二文字目だけ筆圧が違った。

「最後の一回、手が震えたの」と娘が言う。

オズマは紙を取り上げず、机に置いたままにした。

「書けなくなったら、私に教えて」とミウは続けた。

「でも私の代わりに書かないで」

父は頷いた。

フェルは人工容器の試験結果を説明した。

成功した数値だけではなく、失敗した条件も一つずつ見せた。

オズマは娘の目を見た。

「まだ治療法とは呼べない」

ミウは唇を噛み、それでも「分かった」と答えた。

希望を与えるための嘘を、父は選ばなかった。

フェルが帰ったあと、ミウは三度書いた父の名前を指でなぞった。

「これ、いつか読めなくなるかな」

オズマは「分からない」と答えた。

ミウは少し考え、名前の横に父の似顔絵を描いた。

髪は跳ね、鼻は大きすぎた。

「似てないな」と父が言うと、「笑ってるところは似てる」と娘が返す。

オズマは紙を見た。

記憶をつなぎ止める方法は一つではない。

けれど、どの方法にも娘自身の手が必要なのだ。

夜、オズマは三度書いた名前を見ながら、治癒師になったばかりのころを思い出した。

師匠は「助けられなかった人の数だけで、自分を裁くな」と言っていた。

若い彼には、その意味が分からなかった。

救える力があるのに救えなければ、すべて自分の責任だと思っていたからだ。

今は違う。

患者には患者の気持ちがあり、家族には家族の暮らしがある。

医師や友人の知恵も必要だ。

自分の力がすべてではないと認めるのは、逃げることではなかった。

夜、ミウは三度書いた名前の下に、四つ目の言葉を添えた。

「聞いてくれる人」

オズマは涙をこらえた。

自分の名を覚えてもらうことばかり恐れて、娘の言葉を聞き損ねるところだった。


翌日の記録には、娘が選ぶ未来についての小さな確認事項も残した。

三度書いた名前をきっかけに、オズマは一つの出来事にも複数の見方があることを考えた。

娘にとっては怖い変化でも、誰かにとっては調査の手掛かりになる。

調査が進むのは嬉しいが、娘の不安を置き去りにはできない。

彼はミウに「今日、私にしてほしいことはある?」と尋ねた。

ミウは少し考え、「話している途中で、最後まで聞いてほしい」と言った。

オズマは頷いた。

記憶が抜けることを恐れるあまり、娘の言葉を先回りして補っていたのだ。

父はその日から、答えを急がずに待つ練習を始めた。

ミウは紙を折って、赤い日記の表紙の内側に挟んだ。

「忘れたら、これを読む。でも、お父さんは私の顔を見て話してね」

オズマは約束した。

文字は記憶を補える。

けれど、文字だけで人を愛することはできない。

明日の娘にも、今日と同じように向き合う。

それが父親に残された仕事だった。

オズマは日記の余白に自分の名を書こうとして、筆を止めた。

ミウの三つの文字は、それぞれ形が違う。

最初は手本を見ながら、二つ目は思い出そうとして、三つ目は自分の意思で書いたのだ。

「四つ目は私が書く?」と尋ねると、ミウは首を振った。

「それは明日の私の場所」

オズマは空白を残した。

未来の娘の選択まで、今日の自分が埋めてはいけなかった。

窓の外で朝の鐘が鳴った。

ミウは日記の三つの名前を指でなぞり、「明日の私も、お父さんを好きになれるかな」と尋ねた。

オズマは答える前に、娘の顔を見た。

安心させる嘘なら、いくらでも言えた。

「分からない。でも、明日の君にも、私は会いに行く」

ミウはしばらく黙り、四つ目の行に小さく書き足した。

『明日のお父さんへ。

私が怖がったら、急がないで』。

オズマはその一行を読んだ。

名前を覚えてもらうことより先に、守らなければならない約束があった。

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