第二十九話 娘が倒れた夜、治癒師は手を止めた
ミウが倒れたのは、夕食の皿を片づけているときだった。
乾いた音がして、オズマが振り返ると、娘が床に崩れ落ちていた。
唇は青く、息が浅い。
オズマは膝をつき、呼吸と脈を確かめた。
いつもの治癒魔法の光が指先に集まる。
だが彼は手を止めた。
マリアの記録が頭をよぎる。
強い治癒が結晶を刺激するかもしれない。
「ミウ、聞こえるか」
返事はない。
オズマは娘を横向きに寝かせ、気道を確保して、サーラにオルドを呼ぶよう頼んだ。
待つ数分が何時間にも感じられた。
何百人もの患者を救ってきた自分の手が、今は娘に触れることしかできない。
無力感が胸を焼いた。
オルドが駆けつけ、呼吸を補助する器具を使った。
フェルは人工容器を持って来たが、まだ人体で安全性を確かめていない。
「使えば助かるかもしれない」
オズマは娘の顔を見た。
「使って悪化するかもしれない」
二人の言葉はどちらも正しかった。
オルドはまず既存の処置を続け、呼吸が回復するか慎重に見守ることを選んだ。
しばらくして、ミウが小さく咳をした。
オズマは名前を呼びかけた。
「ミウ」
娘の瞼が開く。
「……お父さん?」
その一言に、彼は泣きそうになった。
「ここにいるよ」
ミウは弱々しく笑った。
「約束、守ってくれた?」
オズマは頷いた。
「勝手に魔法を使わなかった」
娘は安心したように目を閉じた。
しかしオルドの顔は険しかった。
「次も同じように戻るとは限らない」
人工容器の検証を急ぐ必要がある。
それでも人体への無謀な実験はしない。
オズマは娘の傍らで夜を明かした。
窓の外が白み始めるころ、ミウは目を開けた。
「お父さん、私、怖かった」
オズマは答えた。
「私も怖かった」
父親が怖がってはいけないと思っていた。
だが娘は、父の正直な言葉を聞いて少しだけ安心した顔になった。
朝、ミウは赤い日記に震える字で書いた。
『きのう、たおれた。
お父さんは、ずっとそばにいた』。
オズマはその文字を見つめた。
誰かに忘れられることを恐れていた自分が、いま本当に恐れているのは、娘と明日を迎えられないことだった。
命があってこそ、忘れたことをもう一度話せる。
彼は娘の手を握り、オルドに言った。
「危険を減らせる方法を、今日できるところまで進めましょう」
夜明け前、サーラが温かいスープを持って来た。
オズマは「食欲がない」と断りかけたが、サーラは器を置いた。
「あんたが倒れたら、ミウが目を覚ましたとき誰が手を握るんだい」
オズマは黙って一口飲んだ。
塩が少し強く、喉に染みた。
「怖いよ」と彼はつぶやいた。
サーラは頷いた。
「そうだろうね」
安易な励ましはなかった。
その代わり、サーラは椅子に座り、夜が明けるまで一緒にいた。
オズマは、誰かに救われるとはこういうことかもしれないと思った。
魔法も奇跡もない。
ただ、ひとりにしないこと。
翌日へ向けて、オズマは温かいスープのことを帳面に書き残した。
何が確かで、何がまだ分からないのか。
紙に書き出すと、胸の中で絡まっていた恐怖が少しだけ形を持った。
夜明けの窓で交わした言葉を思い出し、彼は自分に言い聞かせた。
命を守る判断を一つの答えで片づけないこと。
患者の身体だけでなく、その人がどう暮らしたいかを聞くこと。
自分の願いを、娘の願いと取り違えないこと。
倒れたミウの手には、洗いかけの皿の泡が残っていた。
オズマはその指を拭いながら、魔法の詠唱を口にしかけた。
オルドが「脈はある。まず呼吸を」と声を掛ける。
オズマは震える手を止め、医師に場所を譲った。
父親として娘のそばにいることと、治癒師として独断することは違う。
夜明け前、ミウは短く目を覚ました。
「お皿、割れた?」と尋ねる。
「割れていないよ」と答えると、安心してまた眠った。
オズマは笑えなかった。
娘の心配が自分ではなく皿に向いたことが、かえって日常の尊さを突きつけた。
夜、オズマは温かいスープを見ながら、治癒師になったばかりのころを思い出した。
師匠は「助けられなかった人の数だけで、自分を裁くな」と言っていた。
若い彼には、その意味が分からなかった。
救える力があるのに救えなければ、すべて自分の責任だと思っていたからだ。
今は違う。
患者には患者の気持ちがあり、家族には家族の暮らしがある。
医師や友人の知恵も必要だ。
自分の力がすべてではないと認めるのは、逃げることではなかった。
朝、オズマは診療所の予定をすべて仲間に引き継いだ。
助けを求める人を見捨てるためではない。
娘のそばを離れずに済むよう、救う仕事を一人のものにしないためだった。
夜明けの検査では、ミウの意識は戻っていたが、右手の動きはまだ鈍かった。
オルドは「今すぐ原因を断定できない」と告げ、急変時の対応を書いた紙を渡した。
オズマはそこに、自分の魔法を使う条件も書き加えた。
呼吸が止まり、通常の処置で救命できないと判断されたとき。
その判断は一人では下さない。
ミウの命を守るための線引きが、父の恐怖だけで揺れないように。
翌日の記録には、命を守る判断についての小さな確認事項も残した。
温かいスープをきっかけに、オズマは一つの出来事にも複数の見方があることを考えた。
娘にとっては怖い変化でも、誰かにとっては調査の手掛かりになる。
調査が進むのは嬉しいが、娘の不安を置き去りにはできない。
彼はミウに「今日、私にしてほしいことはある?」と尋ねた。
ミウは少し考え、「話している途中で、最後まで聞いてほしい」と言った。
オズマは頷いた。
記憶が抜けることを恐れるあまり、娘の言葉を先回りして補っていたのだ。
父はその日から、答えを急がずに待つ練習を始めた。
ミウが眠ったあと、オズマは机に置かれた木彫りの犬を手に取った。
片方の耳が少し曲がっている。
娘が元気な手で削った最後の作品になるかもしれない、と考えかけてやめた。
まだ未来は決まっていない。
彼は犬を枕元に置き、娘の呼吸を静かに数えた。
サーラは帰り際、ミウが目覚めたら一緒に市場へ行こうと約束した。
オズマはその小さな未来を、何より大切に思った。
夜の廊下で、フェルが静かに言った。
「先生が倒れたら、ミウさんは誰を頼るんです」
オズマは答えられなかった。
自分一人で救うことに慣れすぎていた。
彼は翌日の担当表にフェルとオルドの名前を書き、最後に自分の名を添えた。
助けを受ける練習も、娘を守る仕事の一部だった。
夜明け前、ミウの指先が再び震えた。
オズマが呼び鈴に手を伸ばすと、娘は薄く目を開けた。
「先生を呼んで。お父さん一人で決めないで」
声はかすれていた。
オズマは迷わず鈴を鳴らした。
駆けつけたオルドに発作の時刻と長さを伝える。
助けを求めたからといって、父親でなくなるわけではない。
むしろ、娘の言葉を守れたことが、今夜初めて彼を少しだけ立たせた。
ミウの呼吸が落ち着いたころ、オズマは椅子に腰を下ろした。
正しい判断だったかどうかは、まだ分からない。
枕元の赤い日記が開き、娘の震える字が見えた。
『倒れたら、私より先にお父さんが怖がる。
だから先生たちの話も聞いて』。
いつ書いたのだろう。
オズマは娘の手を握り、声を殺して泣いた。
救う側でいなければならないと思っていた。
だが今夜、自分もまた、八歳の娘に救われていた。




