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忘却の治癒師 ~娘に忘れられても、俺は何度でも父親になる~  作者: レモンティー


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第二十八話 父を忘れた少年が教えてくれたこと

患者支援窓口に、父親を忘れた少年が相談に来た。

少年の名はノア。

父の顔を見ると怯え、家へ帰ることを拒んでいるという。

父親は仕事を休み、毎日窓口に通っていた。

「俺が父親だと証明する方法はありませんか」

オズマは答えた。

「証明できることと、安心してもらえることは違います」

その言葉は、未来の自分に向けたものでもあった。

オズマは少年の希望を聞いた。

ノアは「知らない大人と二人きりになるのが怖い」と言った。

そこで父親は、初めは相談員のいる場所で短い時間だけ会うことにした。

昔の思い出を押しつけず、今日の話をする。

好きなパンのこと、飼っている犬のこと、学校の友達のこと。

三度目の面会で、ノアは父親が持ってきた木彫りの犬を受け取った。

「これ、僕が好きな犬に似てる」

父親は泣きそうになったが、無理に抱きしめなかった。

「君がよければ、また作るよ」

ノアは頷いた。

オズマはその場で、父親が息を整えるのを待った。

愛情があるからこそ、相手の速度を尊重しなければならない。

治癒魔法では教えてくれなかったことだった。

ミウはその話を聞き、自分の赤い日記を開いた。

「もし私がお父さんを忘れたら、すぐに『お父さんだよ』って言わないでね」

オズマは息をのんだ。

「どうして?」「知らない人にそう言われたら、怖いと思うから」

娘は続けた。

「でも、ちゃんと待ってて。私が自分で聞くから」

オズマは頷いた。

約束を守れるかどうか分からなかったが、守ると決めた。

その午後、フェルが試験用の人工容器を持って来た。

結晶の魔力を吸い込む鉱石と、外へ漏らさない金属の箱。

まだ人に使える段階ではない。

実験室ではごく微量の試料が容器に移り、青い光が薄くなった。

「一歩です」

フェルは言った。

オズマは笑いかけたが、娘の指先がまた震えたことを思い出し、笑顔が消えた。

夜、ミウは父の隣で小さな木彫りの犬を作った。

ノアの話を聞いて、自分も誰かに渡したくなったのだという。

出来上がった犬は少し不格好だった。

「これ、お父さんにあげる」

オズマは受け取った。

「どうして?」「明日、私が忘れても、今日私が作ったって分かるでしょう」

オズマは犬を胸に当てた。

記憶が失われても、誰かを思って作ったものは残る。

その小さな木片が、どんな宝石より重かった。

ノアの父親は帰り際、オズマに頭を下げた。

「あなたがいなければ、私は息子に昔を思い出せと怒鳴っていたでしょう」

オズマは首を振った。

「私も、娘が忘れることを怖がっています」

父親は驚いたが、何も慰めようとはしなかった。

ただ隣の椅子に座り、二人でしばらく庭を眺めた。

「怖いですね」「ええ」

その短い会話だけで、オズマの肩から少し力が抜けた。

治癒師である前に、一人の父親として恐れてもいい。

ノアが帰るとき、少年は父親の袖を自分からつかんだ。

まだ『お父さん』とは呼ばなかった。

それでも二人は同じ歩幅で帰っていった。


翌日へ向けて、オズマは木彫りの犬のことを帳面に書き残した。

何が確かで、何がまだ分からないのか。

紙に書き出すと、胸の中で絡まっていた恐怖が少しだけ形を持った。

相談室の椅子で交わした言葉を思い出し、彼は自分に言い聞かせた。

相手の歩幅を一つの答えで片づけないこと。

患者の身体だけでなく、その人がどう暮らしたいかを聞くこと。

自分の願いを、娘の願いと取り違えないこと。

ノアは父親の顔を覚えていない。

それでも木彫りの犬を修理する父の手元をじっと見つめた。

「その耳、前も直した?」父は「三度目だ」と答えた。

ノアは笑った。

「じゃあ四度目もお願い」

父親はうなずき、オズマに見えないように涙を拭った。

記憶を取り戻す約束ではない。

これからも一緒にいる約束だった。

ミウはノアに、自分の赤い日記を見せた。

「書けば全部戻るわけじゃない。でも昨日の私が、今日の私に教えてくれる」

ノアは犬の首に小さな札をつけた。

「名前はポチ」

ミウが笑うと、彼は「明日忘れても、また名付けるよ」と言った。

ノアは帰り道、父親と同じ歩幅で歩こうとして転びかけた。

父親は手を伸ばしたが、抱き上げなかった。

「つかまるか?」と聞くと、ノアは少し考えてからその手を取った。

ミウは二人を見送り、オズマに言った。

「私にも、選ばせてくれてありがとう」

オズマは、治療を拒まれた日のことを思い出した。

あの日の拒絶は愛情の否定ではなかった。

娘が自分の人生を守ろうとした、最初の勇気だったのだ。

夜、オズマは木彫りの犬を見ながら、治癒師になったばかりのころを思い出した。

師匠は「助けられなかった人の数だけで、自分を裁くな」と言っていた。

若い彼には、その意味が分からなかった。

救える力があるのに救えなければ、すべて自分の責任だと思っていたからだ。

今は違う。

患者には患者の気持ちがあり、家族には家族の暮らしがある。

医師や友人の知恵も必要だ。

自分の力がすべてではないと認めるのは、逃げることではなかった。

帰り道、ミウは父に「忘れる人をかわいそうな人だけにしないで」と言った。

オズマは立ち止まった。

娘は患者である前に、一人の人間だった。


翌日の記録には、相手の歩幅についての小さな確認事項も残した。

木彫りの犬をきっかけに、オズマは一つの出来事にも複数の見方があることを考えた。

娘にとっては怖い変化でも、誰かにとっては調査の手掛かりになる。

調査が進むのは嬉しいが、娘の不安を置き去りにはできない。

彼はミウに「今日、私にしてほしいことはある?」と尋ねた。

ミウは少し考え、「話している途中で、最後まで聞いてほしい」と言った。

オズマは頷いた。

記憶が抜けることを恐れるあまり、娘の言葉を先回りして補っていたのだ。

父はその日から、答えを急がずに待つ練習を始めた。

ノアの父は後日、木彫りの犬の耳を直しに来た。

「息子が毎晩持って眠るんです」

オズマは微笑んだ。

記憶が戻ったわけではない。

それでも、二人の間には新しい時間が積もり始めていた。

彼はその事実をミウに話し、娘も安心したように笑った。

帰り際、ノアは犬を抱えて振り向いた。

「先生は、ぼくのお父さんを知ってる?」オズマは「今日、君と一緒に犬を直していた人だよ」と答えた。

ノアはしばらく考え、「じゃあ明日も会いに行く」と言った。

名前を思い出すことより、明日会う理由が一つできたことを、オズマは喜んだ。

ノアの父は犬の耳を縫いながら、昔の話をしそうになって口を閉じた。

「覚えていないことを、何度も聞かせてしまう」

ノアは針を持つ父の手を見た。

「じゃあ、今の話をして。犬の耳、どうやって直すの?」

父は初めて笑い、針を通す向きを教えた。

オズマは二人を見守った。

思い出を取り戻すことだけが回復ではない。

今日初めて知る父親の器用さも、二人の歴史になっていく。

ノアの父が帰ろうとすると、少年はその袖をつかんだ。

「明日も犬を見に来て」

父は泣きそうな顔で頷いた。

オズマは二人を見送り、ミウの部屋へ戻った。

娘は犬の絵を描いていたが、絵の隅には小さく『知らない人を、すぐに嫌いにならない』と書いてあった。

「ノアに教わったの」とミウは言う。

オズマはその一文を読んで、胸が詰まった。

いつか娘にとって自分が知らない人になっても、最初の言葉を交わせるかもしれない。

希望は、残酷なほど小さかった。

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