第二十七話 記憶を戻す術式に書かれた犠牲
カイの鍵束の札が示したのは、旧施療院の地下にある小さな保管室だった。
衛兵とグラディス院長の立ち会いで扉を開けると、埃をかぶった器具と、切り取られた研究頁が見つかった。
オズマは紙を急いで開きかけ、手を止めた。
以前、記憶を戻そうとした実験で患者が自分の名前を忘れた記録がある。
希望だけを見て危険を読み飛ばしてはならない。
頁には、結晶の魔力を別の器へ移す方法が書かれていた。
だが移す先として生きた人間を使った場合、その人の記憶や生命力が損なわれる危険がある。
オズマは喉が乾いた。
「私が引き受ければ」
口にした途端、オルドが遮った。
「その選択を娘に背負わせるのか」
オズマは答えられなかった。
父が犠牲になって救われたと知れば、ミウは一生その重みを抱えるだろう。
フェルは器具の図面を見て言った。
「生きた人間ではなく、人工の魔力容器では駄目でしょうか」
技術的な問題は多い。
器が割れれば結晶の影響が広がるかもしれない。
それでも検証する価値があった。
彼らは実験を人体に行わず、少量の試料を密閉した容器で調べる方針を決めた。
帰り道、オズマは川辺で立ち止まった。
何年も前、マリアとここを歩いた。
妻は妊娠中で、まだ生まれない子供の名前を二人で考えていた。
「自分を大切にすることも、家族を大切にすることよ」
妻はそう言った。
あのときは簡単な言葉だと思った。
今は、その難しさが痛いほど分かる。
夜、ミウは父の顔を見て尋ねた。
「何か悪いことが分かったの?」
オズマは隠さず、ただし子供にも分かる言葉で話した。
「治す方法の一つに、誰かを傷つける危険があった。だから別の方法を探すよ」
ミウは考え込んだ。
「お父さんが傷つくのも嫌だよ」
オズマは頷いた。
「私も、君が傷つくのは嫌だ」
二人の願いは矛盾していなかった。
ただ、簡単に両方を叶える方法がまだ見つからないだけだった。
その晩、ミウは木箱に紙を一枚加えた。
『お父さんがいなくなるのはいや。
わたしが忘れても、いなくならないで』。
オズマはその紙を読み、長い間目を閉じた。
娘を守るために消えるのではなく、娘と一緒に生きる方法を探す。
それが、いま彼に求められている勇気だった。
資料を持ち帰る前に、オズマはフェルへ確認した。
「私が試料に触れれば、調査は早まるかもしれない。だが危険も増える。私を外して進められるか」
フェルは驚いた顔をしたあと、力強く頷いた。
「進められます。先生が全部を背負う必要はありません」
オズマは初めて、救う側から一歩退くことを選んだ。
帰宅するとミウは庭でエマと石を並べていた。
白い石を父、赤い石を自分、青い石を母に見立てている。
「三つ並べると家族だよ」
オズマはしゃがんで石を見た。
亡くなった妻も、ここにいる娘も、彼の中で別々の重さを持っている。
誰かを救うために自分を消してしまえば、この石の一つがなくなる。
娘はそれを望んでいない。
翌日へ向けて、オズマは切り取られた頁のことを帳面に書き残した。
何が確かで、何がまだ分からないのか。
紙に書き出すと、胸の中で絡まっていた恐怖が少しだけ形を持った。
川辺の石で交わした言葉を思い出し、彼は自分に言い聞かせた。
犠牲に頼らない方法を一つの答えで片づけないこと。
患者の身体だけでなく、その人がどう暮らしたいかを聞くこと。
自分の願いを、娘の願いと取り違えないこと。
危険な術式の余白には、実験者の署名が消されていた。
オズマは怒りで紙を握りつぶしかけたが、フェルが手を添えた。
「証拠まで失くさないでください」
二人は紙を広げ、傷をつけずに写した。
誰かの罪を暴くためにも、娘を守るためにも、冷静さが必要だった。
ミウは父が持ち帰った資料を見ようとした。
オズマは危険な術式を隠す代わりに、何が危険かを分かる言葉で話した。
「誰かの記憶を犠牲にして治す方法だ」
ミウは黙って聞き、「私はそれを望まない」と言った。
父はその意思を日付とともに記録した。
フェルは危険な術式の説明書を読み、ある箇所で声を低くした。
「成功例の横に、被験者の名前がありません」
オズマは頁を確かめた。
犠牲が必要な術式なのに、誰がその代償を払ったか書かれていない。
成功という言葉だけを残した記録だった。
「これは治療法の証明じゃない」とオズマは言った。
「誰かが黙らされた記録かもしれない」
彼らは使用を保留し、術式の出所を調べることにした。
夜、オズマは切り取られた頁を見ながら、治癒師になったばかりのころを思い出した。
師匠は「助けられなかった人の数だけで、自分を裁くな」と言っていた。
若い彼には、その意味が分からなかった。
救える力があるのに救えなければ、すべて自分の責任だと思っていたからだ。
今は違う。
患者には患者の気持ちがあり、家族には家族の暮らしがある。
医師や友人の知恵も必要だ。
自分の力がすべてではないと認めるのは、逃げることではなかった。
翌朝、フェルが別の研究班に照会状を送った。
オズマは急ぎたい気持ちを飲み込み、返事を待つ間に安全な検査を続けた。
待つことも治療の一部だった。
翌日の記録には、犠牲に頼らない方法についての小さな確認事項も残した。
切り取られた頁をきっかけに、オズマは一つの出来事にも複数の見方があることを考えた。
娘にとっては怖い変化でも、誰かにとっては調査の手掛かりになる。
調査が進むのは嬉しいが、娘の不安を置き去りにはできない。
彼はミウに「今日、私にしてほしいことはある?」と尋ねた。
ミウは少し考え、「話している途中で、最後まで聞いてほしい」と言った。
オズマは頷いた。
記憶が抜けることを恐れるあまり、娘の言葉を先回りして補っていたのだ。
父はその日から、答えを急がずに待つ練習を始めた。
オズマは研究資料の封を閉じる前、危険な術式の頁に大きく印をつけた。
未来の誰かが同じ誘惑に駆られたとき、注意書きが先に目に入るように。
失敗を隠すより、失敗から学べるように残す。
その選択が、今の彼にできる小さな償いだった。
研究班への手紙には、娘の名を書かなかった。
本人の同意があっても、必要以上の情報を広める理由にはならない。
オズマは「八歳の患者」と記し、検査結果だけを添えた。
父親として守りたいのは命だけではない。
娘が将来、自分の病歴を誰に話すか決められる権利も守りたかった。
オルドは術式の写しを読み、代償の記述を指で隠した。
「この部分が読めない以上、誰かに試す許可は出せん」
オズマは反論しかけた。
ミウの症状は進んでいる。
待つ時間がない。
だが、代償を払う者の名さえ分からない術を、娘のために誰かへ押しつけるのか。
彼は反論を飲み込み、照会先をもう一つ増やした。
急ぐことと、飛ばしてはいけない手順を飛ばすことは違う。
照会状を封じる直前、フェルが術式の欄外に気づいた。
「犠牲、という字の下に、削った跡があります」
斜めから灯りを当てると、薄く別の文字が浮かんだ。
『代償の行き先は――』。
その先は紙ごと破れていた。
オズマは息を止めた。
誰が代償を払うのか。
誰が決めるのか。
娘を救える可能性があるからといって、その問いを飛ばすわけにはいかない。
彼は照会状に削り跡の写しを添え、封をした。




