第二十三話 王立施療院の地下に眠る母の文字
カイの研究室から回収した資料の中に、オズマの亡き妻マリアの筆跡があった。
フェルが封印箱を開け、端に小さく記された注記を示す。
『青晶の蓄積は個体差が大きい。
子供の安全性は未確認』。
オズマは文字を指でなぞった。
妻が亡くなってから何年も経つのに、その丸い「子」の書き方だけは忘れなかった。
王立施療院の地下保管庫へ行くと、古い研究台帳にはマリアの名前が助手として記されていた。
オズマは妻が薬草の研究をしていたと聞いていたが、記憶に関わる結晶を調べていたとは知らない。
グラディス院長は過去の隠蔽を認め、資料の閲覧を許可した。
ただし患者の個人情報を持ち出さない条件だった。
「今さら信用してくれとは言わない。記録だけは正確に残したい」
院長の言葉にオズマは頷いた。
台帳には、結晶の粉を浴びた後に手の震えが出た子供の症例があった。
数日後には短い記憶の欠落、さらに進むと呼吸を調節する筋肉に異常が現れたとある。
最後の欄には『投与中止後、回復例あり』。
オズマはその一行を何度も読んだ。
希望だった。
だが症例は少なく、回復した子供が何を受けたかも不明だった。
マリアの署名がある別の頁には、結晶を取り除く方法ではなく、体内に残る魔力を静める方法が書かれていた。
『急激な治癒は結晶を刺激する可能性。
段階的な排出を優先』。
オルドは眉をひそめた。
「これが正しければ、強い治癒は逆効果になり得る」
オズマは娘に魔法を使わなかった自分を、初めて少しだけ許せた。
帰り際、保管庫の管理人が古い封筒を渡した。
マリアから、将来この研究を読む者へ宛てたものだった。
中には短い手紙が入っていた。
『治療する力がある人ほど、待つことを恐れる。
けれど、待つことも患者を守る選択になる』。
オズマはその場に座り込んだ。
妻は彼の性格を知っていた。
誰かが苦しめば、手を伸ばさずにはいられないことを。
家へ帰るとミウが庭の花を数えていた。
「六枚だったよね」と尋ねられ、オズマは驚いた。
昨日の花のことを覚えていたのだ。
「覚えていたのかい」「うん。全部忘れるわけじゃないよ」
娘は当たり前のように笑う。
オズマはマリアの手紙を読み聞かせた。
ミウはしばらく黙ってから言った。
「お母さんは、お父さんが急いじゃうって知ってたんだね」
二人で笑ったあと、オズマはそっと手紙を畳んだ。
失った人が残した言葉が、今生きている人を守ろうとしている。
保管庫を出たあと、オズマは院長に尋ねた。
「なぜマリアの研究が封じられたのですか」
グラディスはすぐに答えなかった。
「安全性を証明できなかった。それに、結晶の利用で利益を得ようとする者がいた」
院長は過去の会議記録を示した。
反対意見が途中で削られ、結論だけが残されていた。
オズマは怒りを覚えたが、院長は言った。
「怒っていい。だが、記録を読む者が次に同じ過ちをしないよう、残すことも必要だ」
オズマは資料の写しを依頼した。
責任の所在を調べることと、娘の治療を急ぐことは、どちらも必要だった。
家へ帰るとミウは「お母さんも怒ったかな」と尋ねた。
「きっと怒ったよ。でも怒るだけで終わらなかっただろうね」
二人はマリアの好きだった薄荷茶を淹れ、少し苦い味に顔をしかめた。
翌日へ向けて、オズマはマリアの手紙のことを帳面に書き残した。
何が確かで、何がまだ分からないのか。
紙に書き出すと、胸の中で絡まっていた恐怖が少しだけ形を持った。
保管庫の階段で交わした言葉を思い出し、彼は自分に言い聞かせた。
記録に残された警告を一つの答えで片づけないこと。
患者の身体だけでなく、その人がどう暮らしたいかを聞くこと。
自分の願いを、娘の願いと取り違えないこと。
地下の記録室で見つけた紙片には、マリアの癖のある「確定ではない」の文字があった。
オズマは何度も読み直した。
希望が欲しいあまり、仮説を治療法だと思い込みかけていた。
フェルが言った。
「奥様は、確かめる前に使うなと書いています」
オズマは紙を折らず、透明な覆いに入れた。
帰宅するとミウが母の古い手袋をはめていた。
指先が余り、うまく針を持てない。
「お母さんも最初は下手だった?」と尋ねられ、オズマは首を振った。
「もっと下手だった。針を三本も折った」
ミウは声を立てて笑った。
研究者としてではないマリアの記憶を、娘に渡せた夜だった。
地下室の出口で、フェルは見つけた紙の番号が一枚飛んでいることに気づいた。
「十二の次が十四です」
オズマは棚の埃を調べ、十三番だけが最近抜かれた跡を見つけた。
盗まれたと決めつけるには早い。
だが誰かが研究記録に触れている可能性はある。
二人は管理人に立会いを頼み、保管簿の閲覧記録を写した。
マリアの字を追うことに夢中だったオズマは、妻の研究を現在の事件につなぐ手掛かりが足元にあったと気づいた。
夜、オズマはマリアの手紙を見ながら、治癒師になったばかりのころを思い出した。
師匠は「助けられなかった人の数だけで、自分を裁くな」と言っていた。
若い彼には、その意味が分からなかった。
救える力があるのに救えなければ、すべて自分の責任だと思っていたからだ。
今は違う。
患者には患者の気持ちがあり、家族には家族の暮らしがある。
医師や友人の知恵も必要だ。
自分の力がすべてではないと認めるのは、逃げることではなかった。
翌日、オズマは資料の余白に「検証前」と赤字で記した。
娘のために急ぐことと、娘を危険にさらして急ぐことは違う。
その境目を消さないための印だった。
翌日の記録には、記録に残された警告についての小さな確認事項も残した。
マリアの手紙をきっかけに、オズマは一つの出来事にも複数の見方があることを考えた。
娘にとっては怖い変化でも、誰かにとっては調査の手掛かりになる。
調査が進むのは嬉しいが、娘の不安を置き去りにはできない。
彼はミウに「今日、私にしてほしいことはある?」と尋ねた。
ミウは少し考え、「話している途中で、最後まで聞いてほしい」と言った。
オズマは頷いた。
記憶が抜けることを恐れるあまり、娘の言葉を先回りして補っていたのだ。
父はその日から、答えを急がずに待つ練習を始めた。
机の上には、マリアの研究紙とミウの落書きが並んでいた。
片方には病の可能性が細かく記され、もう片方には三人で食卓を囲む絵が描かれている。
オズマは研究紙を重ねなかった。
どちらも娘の未来に必要だが、同じものではない。
研究は進める。
家族の時間も守る。
地下室の戸を閉めるとき、フェルは錠前の内側に新しい擦り傷を見つけた。
古い記録室に最近誰かが入った可能性はある。
しかし管理人は、雨漏りの点検で鍵を開けたと話した。
オズマは二つの証言を別々に書き、管理人の勤務記録を確かめることにした。
「疑わしい人を作るのは簡単です」とフェルが言う。
「でも、間違えたらその人の暮らしを壊す」
オズマは頷いた。
娘のためという理由で、別の誰かを傷つけてはならなかった。
フェルは資料の写しを二部作り、原本と照合した。
その途中で、欠番の直前だけ紙の端に小さな針穴が二つ並んでいると気づいた。
「綴じた跡です。誰かが一枚だけ抜いたのかもしれません」
オズマは穴の間隔を測り、紙に写した。
盗難と決めつけるには早い。
だが、単なる書き忘れとして片づけることもできなくなった。
彼はマリアの筆跡を指でなぞった。
妻が残したのは答えではなく、答えに近づくための慎重さだった。




