第二十二話 忘れた朝食、忘れなかった約束
翌朝、ミウは食卓の蜂蜜パンを見て「今日はごちそうだね」と笑った。
オズマは昨夜も同じパンを焼いたことを覚えていた。
ミウが二つ食べて、三つ目を欲しがったことも。
だが娘にはその記憶がない。
「昨日も食べたよ」と言いかけ、彼は口を閉じた。
忘れたことを責めるような言い方だけはしたくなかった。
学校へ行く前、ミウは玄関の柱に小さな紙を貼った。
『かえるときは、ここでお父さんをまつ』。
オズマが「どうして?」と尋ねると、「約束が見えたら、忘れても守れるでしょう」と答えた。
父は頷いたが、学校から帰った娘は紙を見て不思議そうな顔をした。
「これ、誰が書いたの?」
筆跡は間違いなくミウのものだった。
フェルは患者支援窓口に集まった記録を持参した。
記憶の抜け方は人によって異なる。
顔だけを忘れる人、出来事だけを忘れる人、数時間の空白を繰り返す人。
オズマの治癒による忘却とは違う症状だった。
「同じ病として扱えば、誤った治療につながる」
彼らは症状ごとに帳票を分け、本人が望まない情報を家族へ渡さない取り決めを作った。
昼過ぎ、北門の少年トビアスと母親が治療院を訪れた。
少年は母親をまだ思い出せない。
それでも二人は一緒に市場へ買い物に行けるようになったという。
「昨日、母さんに包丁の持ち方を教えてもらった」
母親は泣き笑いの顔をした。
ミウは少年に尋ねた。
「思い出せなくても、好きになれる?」
トビアスは少し考えた。
「うん。昨日のことを忘れても、今日また話せるから」
その答えに、オズマは娘より先に涙ぐみそうになった。
夕方、ミウは赤い日記に新しい欄を作った。
『忘れたこと』『覚えていること』『今日うれしかったこと』。
オズマは最初の欄だけが増えるのではないかと恐れたが、娘は最後の欄を先に埋めた。
『トビアスくんがわらった』。
父が「私のことも書くかい」と冗談めかして言うと、ミウは首を傾げた。
「お父さんは今日ここにいるから、今話せばいいよ」
オズマは筆を置いた。
記録は大切だ。
でも記録を書くために、目の前の娘を見失ってはいけない。
夜、ミウは眠りかけてから手を伸ばした。
「明日も蜂蜜パンがいい」
オズマは答えた。
「何度でも焼くよ」
娘は笑って目を閉じた。
朝食を忘れることより、明日も食卓に座れるかどうかが、彼にはずっと怖かった。
その日の午後、ミウは窓辺で紙の札を何枚も作った。
『水をのむ』『くつをはく』『エマに本をかえす』。
オズマが「そんなに作ると、札を読むだけで日が暮れる」と言うと、娘は真顔で答えた。
「じゃあ、大事なものだけにする」
二人は札を減らし、玄関には『帰る場所』とだけ書いた。
オズマはその字を見て胸が詰まった。
娘が帰る場所を忘れないように、目印が必要になっている。
けれどミウは札を貼り終えると、父を見上げた。
「これで安心して遊べるね」
不自由を数えるより、残った自由を使おうとしている。
その強さを美談にしてはいけないとオズマは思った。
ミウは強いから助けなくていいのではない。
強がらなくても助けてもらえる場所を、父が作るのだ。
翌日へ向けて、オズマは玄関の札のことを帳面に書き残した。
何が確かで、何がまだ分からないのか。
紙に書き出すと、胸の中で絡まっていた恐怖が少しだけ形を持った。
市場の鐘で交わした言葉を思い出し、彼は自分に言い聞かせた。
新しい一日の記憶を一つの答えで片づけないこと。
患者の身体だけでなく、その人がどう暮らしたいかを聞くこと。
自分の願いを、娘の願いと取り違えないこと。
蜂蜜パンを半分残したミウは、エマに包んで渡した。
「私が忘れたら、明日また一緒に食べようって誘って」
エマは頷いたが、包みを受け取る手が震えていた。
ミウはその手を握った。
「忘れたことを怒らないで。教えてくれたら嬉しい」
友達同士の約束に、父は口を挟まなかった。
オズマは食卓に昨日と同じ皿を並べた。
ミウが覚えているか確かめるためではない。
「この皿、好き」と娘が言ったからだ。
症状を測る道具にしない時間を、一日の中に残したかった。
ミウは青い縁の皿を指でなぞり、「今日は蜂蜜を少なめにして」と頼んだ。
父はその好みを新しく覚えた。
翌日の朝食で、ミウは蜂蜜を二度入れようとした。
オズマが手を止めかけると、ミウは自分で匙の底を見た。
「あれ、もう入ってる」
二人は顔を見合わせて笑った。
失敗を見つけるのが父でなくてもいい。
食卓の端には、娘が書いた『蜂蜜は一匙』という札が置かれていた。
オズマは札の裏に小さく日付を書いた。
今日の工夫を、明日も使えるように。
病気に奪われたことだけを数えるのは、もうやめたかった。
夜、オズマは玄関の札を見ながら、治癒師になったばかりのころを思い出した。
師匠は「助けられなかった人の数だけで、自分を裁くな」と言っていた。
若い彼には、その意味が分からなかった。
救える力があるのに救えなければ、すべて自分の責任だと思っていたからだ。
今は違う。
患者には患者の気持ちがあり、家族には家族の暮らしがある。
医師や友人の知恵も必要だ。
自分の力がすべてではないと認めるのは、逃げることではなかった。
夜、ミウは自分宛ての手紙の封を閉じた。
「明日の私へ。知らないことがあっても、みんなに聞いていい」
オズマは日付だけを手伝った。
娘の未来を父の字で埋め尽くしたくなかった。
翌日の記録には、新しい一日の記憶についての小さな確認事項も残した。
玄関の札をきっかけに、オズマは一つの出来事にも複数の見方があることを考えた。
娘にとっては怖い変化でも、誰かにとっては調査の手掛かりになる。
調査が進むのは嬉しいが、娘の不安を置き去りにはできない。
彼はミウに「今日、私にしてほしいことはある?」と尋ねた。
ミウは少し考え、「話している途中で、最後まで聞いてほしい」と言った。
オズマは頷いた。
記憶が抜けることを恐れるあまり、娘の言葉を先回りして補っていたのだ。
父はその日から、答えを急がずに待つ練習を始めた。
玄関の札を見つけたミウは、明日の自分への手紙を書いた。
そこには病気の説明より先に、好きなものが並んでいた。
蜂蜜パン、エマの笑い声、サーラの店の匂い。
オズマはそれを読み、娘の人生が症状の一覧ではないと改めて知った。
エマが帰ったあと、オズマは食器を洗いながら考えた。
明日のミウは今日の約束を忘れるかもしれない。
それでもエマは明日も来ると言った。
誰かの記憶に残ることだけが、関係を続ける条件ではない。
父親の自分が、最初にそれを信じなければならなかった。
エマは翌日、遊びの規則を一枚の紙に描いて持ってきた。
ところがミウは紙を見ずに石を並べ始めた。
「前と同じ遊びは嫌。今日は私が決めたい」
エマは戸惑い、やがて自分の石を一つ引いた。
「じゃあ、負けた人が新しい規則を作る」
二人は何度も負け、何度も笑った。
オズマは紙をしまった。
昨日を再現することが、今日の娘を大切にすることとは限らない。
翌朝、エマは約束どおり戸を叩いた。
ミウは手紙を見て「蜂蜜パンの子だ」と笑い、すぐに言い直した。
「違う。エマだ」
エマは頷いたが、帰り際、玄関でオズマにだけ尋ねた。
「明日も忘れていたら、私、毎日初めましてって言えばいい?」
オズマは答えを急がなかった。
「つらい日は、来なくてもいい。君の気持ちも大切だ」
エマは少し泣き、それから「明日は、私が好きな遊びを教える」と決めた。
誰かを支える子にも、支えが必要なのだ。




