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忘却の治癒師 ~娘に忘れられても、俺は何度でも父親になる~  作者: レモンティー


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第二十一話 娘の手から落ちた赤い日記

ミウが筆を落とした翌朝、オズマは診療所の戸を閉め、娘を連れてオルドの診察室へ向かった。

八歳の娘は普段と変わらず道端の猫に声をかけたが、石段を上がる途中で足を止めた。

「お父さん、今日は何曜日?」

昨日も聞かれた問いだった。

オズマは答え、娘の手を握り直した。

手のひらは温かい。

それがかえって恐ろしかった。

オルドは脈と瞳の反応を確かめ、左右の手に同じ形を描かせた。

左手の線だけが少し歪んだ。

「痛みは?」「ない。でも時々、指が私のじゃないみたい」

オルドは結晶への接触歴を尋ねた。

北門の石材のそばを通ったこと、広場で粉を吸った可能性、発症までの時間を一つずつ記録する。

診断はまだつかない。

オズマが魔法を使おうとすると、ミウがその手を両手で押さえた。

「約束したでしょう。先に調べるって」

父は震える指を引っ込めた。

「もし治療したら、ミウは私を忘れる」

その言葉をオズマは初めて娘の前で声にした。

オルドは静かに告げた。

「それだけではない。原因が分からぬうちに強い治癒をかけても、再発を防げる保証がない」

検査のため、オルドは簡単な記憶課題を作った。

青い石、赤い糸、白い鳥。

しばらく別の話をしてから尋ねると、ミウは青い石だけを思い出せなかった。

帰り道、ミウはパン屋の窓に映る自分を見つめた。

「私、少しずつ別の子になっちゃうのかな」

オズマはしゃがんで目線を合わせた。

「覚えていないことが増えても、君が君でなくなるわけじゃない」

そう言いながら、父自身がその言葉を信じ切れていなかった。

ミウは顔を上げる。

「じゃあ、今日は二人で何か覚えよう」

二人は川沿いに咲いた小さな黄色い花を見つけ、花びらを数えた。

六枚。

ミウは赤い日記に、ゆっくり書きつけた。

夕方、フェルが調査結果を持って来た。

北門で採取した青い結晶の粉と、鐘楼の結晶片は同じ鉱脈のものらしい。

ただしミウの症状を直接証明する材料はない。

オズマは紙の端に「疑い」と記した。

誰よりも早く答えを欲しがっている自分こそ、断定を避けなければならない。

夜、ミウは日記を枕の下に置いた。

「明日の私が今日を忘れたら、これを読んでね」

オズマは「一緒に読もう」と答えた。

娘が眠ったあと、彼は初めて治療記録の患者欄に、娘の名を鉛筆で書いた。

まだ消せるように。

まだ治療しなくて済むように。

オルドは診察の最後に、ミウ自身に尋ねた。

「どんなことが一番困る?」

大人たちは震えや記憶の数字ばかりを気にしていた。

ミウは少し迷ってから答えた。

「お父さんが、私を見るたび悲しい顔になること」

オズマは顔を上げた。

自分の恐怖を隠しているつもりだったが、娘は見抜いていた。

「ごめん」と言うと、ミウは首を振った。

「謝ってほしいんじゃない。いつもの変な冗談を言ってほしい」

オズマは苦し紛れに「昨日のパンは石より硬かった」と言った。

ミウは「石を食べたことあるの?」と笑った。

オルドも笑った。

病を診ることと、病のことしか話さないことは違う。

帰宅した二人は、焦げたパンの失敗談を三つ思い出して笑い合った。

オズマは日記の端に、今日ミウが笑った理由を書いた。

症状だけでは娘の一日を言い表せないからだ。


翌日へ向けて、オズマは黄色い花のことを帳面に書き残した。

何が確かで、何がまだ分からないのか。

紙に書き出すと、胸の中で絡まっていた恐怖が少しだけ形を持った。

診察室の窓で交わした言葉を思い出し、彼は自分に言い聞かせた。

今日の身体の変化を一つの答えで片づけないこと。

患者の身体だけでなく、その人がどう暮らしたいかを聞くこと。

自分の願いを、娘の願いと取り違えないこと。

ミウは診察台の脚に赤い糸を結んだ。

「日記を落とした場所。明日はここから探せるでしょう?」オズマは結び目を見た。

忘れたときの備えを、娘は自分の手で増やしている。

「私ができること、勝手に取らないでね」

その言葉に、オズマは返事を急がず、糸の端を押さえる役だけを引き受けた。

診療所の戸口に、ミウは小さな木札を掛けた。

「今日はここまで」

父が夜更けまで記録を調べようとすると、札を裏返して見せた。

「病気は逃げない。でも今日の夕飯は冷めるよ」

オズマは初めて資料を閉じた。

二人で食べた薄い豆のスープは、冷める前に飲めた。

検査が終わると、ミウはオルドに一つだけ質問した。

「先生、私が覚えていないことを、私の前でお父さんだけに話さないでくれる?」

オルドは椅子を引き寄せ、ミウと目の高さを合わせた。

「約束しよう。ただし危険が迫ったら、お父さんにも同時に伝える」

ミウは頷いた。

オズマは診察室の外へ出るとき、娘に先に戸を開けてもらった。

守るとは、本人を話し合いから外すことではない。

その小さな順番を、彼は覚えておこうと思った。

夜、オズマは黄色い花を見ながら、治癒師になったばかりのころを思い出した。

師匠は「助けられなかった人の数だけで、自分を裁くな」と言っていた。

若い彼には、その意味が分からなかった。

救える力があるのに救えなければ、すべて自分の責任だと思っていたからだ。

今は違う。

患者には患者の気持ちがあり、家族には家族の暮らしがある。

医師や友人の知恵も必要だ。

自分の力がすべてではないと認めるのは、逃げることではなかった。


翌朝、ミウは赤い日記を自分で棚に戻した。

棚の高さを測り直したのはオズマだった。

届かない場所に置いたまま「自分でできる」と言わせるのは、親の都合だと気づいたからだ。

翌日の記録には、今日の身体の変化についての小さな確認事項も残した。

黄色い花をきっかけに、オズマは一つの出来事にも複数の見方があることを考えた。

娘にとっては怖い変化でも、誰かにとっては調査の手掛かりになる。

調査が進むのは嬉しいが、娘の不安を置き去りにはできない。

彼はミウに「今日、私にしてほしいことはある?」と尋ねた。

ミウは少し考え、「話している途中で、最後まで聞いてほしい」と言った。

オズマは頷いた。

記憶が抜けることを恐れるあまり、娘の言葉を先回りして補っていたのだ。

父はその日から、答えを急がずに待つ練習を始めた。

夜半、オズマは赤い糸の結び目を見に戻った。

小さな輪が、診察台の脚にしっかり残っている。

娘の記憶をつなぎ止める魔法ではない。

明日の娘が困らないよう、今日の娘が残した工夫だった。

彼は糸をほどかなかった。


翌朝、ミウが自分で見つけられるように。

診察の記録を見返したオルドは、左手の線が歪む時間帯を尋ねた。

ミウは日記をめくり、「鐘が鳴ったあと」と答える。

三度の記録のうち二度は一致したが、一度は鐘の前だった。

オズマは思わず線を引いて結びたくなった。

「まだ決めないで」とミウが言う。

「違った日も書いて」

オズマはその一行を赤で囲んだ。

娘は患者であると同時に、調査を間違った方向へ進ませない仲間でもあった。

翌朝、ミウは糸を見つけたが、笑わなかった。

「これ、誰が結んだの?」

オズマは胸の奥が冷えるのを感じた。

「昨日の君だよ。自分で決めて、自分で結んだ」

ミウは糸に指を添え、しばらく考えてから日記を開いた。

『私が結んだ。

忘れても、私のしたことは消えない』。

書き終えると、今度はオズマを見た。

「今日は、別の結び方を教えて」

父は初めて、失った記憶を数える代わりに、これから作れる記憶を数えた。

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