第二十話 忘れられた治癒師の名前を呼ぶ人々
王都の広場に、百人を超える人々が集まった。
記憶障害の調査結果を公開するための説明会だった。
王立施療院の評議員、衛兵、患者と家族、そして市場の商人たち。
オズマは壇上ではなく、皆と同じ高さに立った。
「分かっていることと、まだ分からないことを分けてお話しします」
彼は青い結晶の粉、鐘の仕組み、発症までの時間差の可能性を説明した。
患者の名前は公表しない。
原因の一つとして結晶が疑われるが、すべての症例を説明できるわけではないことも伝えた。
グラディス院長が前に出た。
「発注書には私の印がある。しかし署名は偽造された疑いがある。管理責任を免れるつもりはない」
広場がざわめいた。
オズマは院長の言葉を遮らなかった。
「鐘楼は封鎖されました。結晶を運んだ経路も調査中です。被害を受けた方には、医師と相談員が継続して対応します」
一人の男性が声を上げた。
「俺の妻は、俺を忘れたままだ! いつ治るんだ!」
オズマは男性の目を見た。
「今は約束できません。ですが、あなたと奥さんが今日を暮らすための支援は続けます」
男性は唇を震わせた。
怒りを飲み込むように拳を開く。
そのとき、広場の端から小さな声が聞こえた。
「オズマ先生!」
声の主はミーナの母親だった。
第1話で娘を連れてきた女性である。
「娘は、あなたのことを覚えていません。でも私は覚えています。あの雨の日、娘を助けてくれたことを」
続いて、橋で助かった少年の母親が手を挙げた。
「うちの子も先生を忘れました。でも毎朝、元気に走っています」
サーラが一歩前へ出た。
「先生が救った人の家族は、ここにいるよ」
あちこちから名前が呼ばれた。
「オズマ先生!」
「先生、ありがとう!」
「忘れていません!」
オズマは言葉を失った。
自分を覚えていない患者たちの代わりに、家族や友人が声を上げていた。
彼の力の代償は消えない。
だが、彼の存在が世界から完全に消えたわけではなかった。
ミウは人混みをかき分けて父のそばへ来た。
「お父さん、聞こえた?」
「ああ」
「お父さんの名前、みんな知ってるよ」
オズマは娘の手を握った。
「……そうだね」
説明会のあと、グラディスが彼を呼び止めた。
「営業停止を解除するよう、評議会に提案した」
「ありがとうございます」
「礼を言われる資格はない。私はお前を危険だと決めつけ、調査を遅らせた」
院長は頭を下げた。
「今後は、患者への説明と同意を徹底することを条件に、治療を認めたい」
オズマはうなずいた。
謝罪で失われた時間は戻らない。
それでも、今後の患者のために協力できるなら、その道を選びたかった。
帰宅後、ミウは夕飯の支度をしながら歌っていた。
オズマは広場でもらった手紙を机に並べた。
患者の家族からの感謝、助かった子供の絵、仕事に戻れた職人の報告。
どれも自分の治癒の結果だった。
「お父さん、今日は嬉しかった?」
「嬉しかったよ。でも少し怖かった」
「どうして?」
「みんなが名前を呼んでくれて、もしまた忘れられたらと思ったんだ」
ミウは皿を置き、父の隣に座った。
広場を去る前、ミーナが母親の手を引いてオズマのところへ来た。
「お母さんが、この先生にありがとうって言いなさいって」
少女は照れくさそうに笑った。
「どうしてかは覚えてないけど、ありがとう」
オズマは膝を折った。
「こちらこそ、元気でいてくれてありがとう」
ミーナは首をかしげたが、すぐに走って母親のもとへ戻った。
オズマはその背中を見送り、忘れられることが必ずしも関係の終わりではないと、もう一度思った。
「忘れた人がいても、今日呼んでくれたことは消えないよ」
オズマは娘の顔を見た。
まだ八歳なのに、ときどき妻のようなことを言う。
「そうだね。今日のことは私が覚えている」
「私も日記に書く」
夜、二人は並んで机に向かった。
オズマは治療記録に、広場で起きたことを書いた。
ミウは赤い日記に、父の名前が何度も呼ばれたことを書いた。
そのとき、ミウの手から筆が落ちた。
「……あれ?」
オズマが顔を上げると、娘は自分の指を見つめていた。
「どうした?」
「ちょっと、力が入らなかっただけ」
彼はすぐに娘の脈を確かめた。
熱はない。
顔色も悪くない。
だが、指先がかすかに震えている。
説明会のあと、フェルは患者支援のための窓口を作ると申し出た。
治療を受ける前の説明書、忘却が起きたあとの相談先、家族のための記録の残し方。
オズマは一つずつ意見を出した。
「私の力だけを特別扱いしないでください。患者が納得して選べる仕組みにしたい」
フェルは頷いた。
「先生がいなくても続く仕組みですね」
オズマはその言葉に、少しだけ寂しさを覚えた。
しかしすぐに思い直した。
自分がいなくても誰かが助かるなら、それは仕事が実を結んだということだ。
ミウが大人になるころ、治療を受ける人が一人で決断しなくて済む国になってほしかった。
オズマは診療道具の入った箱を閉じた。
治療を急ぐより、まず娘の話を聞き、オルドに診てもらう。
それが二人で決めた約束だった。
机にはミウの赤い日記が開いたまま置かれている。
今日の最後の行には、震える字でこうあった。
『お父さんの名前は、オズマ』。
「いつから?」
「今日、広場から帰ってきたころ。すぐ治ると思った」
オズマは胸が冷たくなるのを感じた。
結晶の作用が遅れて現れる可能性。
ミウも広場へ行く途中、北門から運ばれた石材のそばを通っていた。
「明日、オルド先生に診てもらおう」
「お父さんの魔法は?」
「今は使わない。まず原因を調べる」
ミウはほっとしたようにうなずいた。
だが、次の瞬間、机に置いた赤い日記の表紙を見て、眉を寄せた。
「……お父さん」
「何だい」
「これ、私の日記だよね?」
オズマの喉が乾いた。
「そうだよ。毎日書いているだろう」
「うん。分かってる。でも、今日のことを書こうとしたら、朝のことが少し思い出せなくて」
彼は娘の手を包んだ。
ミウは泣きそうな顔で見上げる。
「私、忘れちゃうの?」
オズマは嘘をつかなかった。
広場の歓声が遠のいても、ミウは衛兵の名前を思い出せなかった。
オズマは「疲れただけ」と言いかけ、飲み込んだ。
娘が見つめているのは自分の顔ではなく、手の震えだった。
彼は症状が始まった時刻を聞き、無理に思い出させず、フェルへ診察を頼む手紙を書いた。
「怖い?」と尋ねると、ミウは小さくうなずいた。
「私も怖い」と言ってから、オズマは娘の手を取った。
集まった人々がオズマの名を呼んだとき、彼は喜びと同時に恐怖を覚えた。
ここにいる誰かを治療すれば、その人は再び自分を忘れる。
ミウは父の指を握った。
「みんなが覚えてくれたこと、うれしくないの?」
「うれしいよ。だからこそ怖い」
娘はしばらく考えて答えた。
「じゃあ、忘れても困らないように、みんなで記録を残そうよ」
オズマはその提案を聞き、初めて記録を一人で抱え込まなくてもいいのだと思った。
だが、ミウの指の震えを見た瞬間、喜びは冷えた。
彼が守りたい名前を呼ぶ声が、いま目の前で危うくなっていた。
「まだ分からない。でも、一人にはしない。オルド先生と一緒に調べよう」
ミウは小さくうなずき、父の胸に額を寄せた。
広場を離れるとき、ミウは自分の名前を確かめるように小さく唱えた。
オズマが尋ねると、娘は「今日は少し疲れただけ」と笑った。
その笑顔を見て安心したい気持ちと、医師として見過ごせない気持ちがぶつかった。
彼は症状を日付とともに記録し、娘に怖がらせず診察を受けてもらう方法を考えた。
広場で人々がオズマの名を呼んだあと、ミウは拍手の音に顔をしかめた。
「お父さん、少しだけ静かなところへ行きたい」
オズマはすぐ娘を連れ出し、日陰で水を飲ませた。
娘は元気だと言ったが、さっき教えたばかりの衛兵の名前を思い出せなかった。
オズマはその場で結論を出さず、いつ、何を忘れたのかだけを帳面に記した。
「お父さんのことは、忘れたくない」
オズマは娘を抱きしめた。
「私もだよ」
窓の外で、王都の鐘が鳴った。
鐘楼の危険な鐘ではなく、いつもの時刻を告げる鐘だった。
それでもオズマは、一瞬だけ息を止めた。
娘の指先は、まだ震えていた。




