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忘却の治癒師 ~娘に忘れられても、俺は何度でも父親になる~  作者: レモンティー


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第十九話 娘の小さな手が守った約束

ミウは学校で新しい遊びを覚え、帰宅すると父にも教えた。

片方が目を閉じ、もう片方が声だけで庭の端まで案内する遊びだ。

オズマは慎重に歩き、娘の「右だよ」という声に従った。

目を開けると、そこには咲き始めた白い花があった。

「知らない道でも、声を聞けば歩けるね」

娘の言葉にオズマはうなずいた。

未来が怖くても、今できる約束がある。

研究室の扉が開くと、乾いた薬草と金属の匂いがした。

机には実験器具が並び、棚には番号のついた結晶片が収められていた。

カイが残した鍵は、最後の引き出しにも合った。

中には、患者名のない実験記録があった。

『記憶の結び目を断つ術式。

対象の選択に失敗。

特定人物の記憶が消失』。

その次の頁には、さらに恐ろしい一文があった。

『術式を逆転させれば、消えた記憶を戻せる可能性』。

フェルは顔を上げた。

「先生、これが本当なら……」

オズマはすぐに答えなかった。

自分の患者たちが、再び自分を思い出せるかもしれない。

いつか娘を治療することになっても、忘却を取り戻せるかもしれない。

甘い希望が胸に湧いた。

だが次の頁には、失敗例が並んでいた。

記憶を戻そうとした患者が、自分の名前さえ分からなくなった記録もある。

「実験は中止だ」

オズマは言った。

「この術式を誰にも試してはいけない」

「でも、成功する可能性が……」

「可能性だけで人の心を賭けにはできない」

フェルは悔しそうに唇を噛んだが、うなずいた。

彼らは資料を封印し、独立した医師たちの審査を求めることにした。

帰宅すると、ミウが珍しく泣いていた。

学校で友人に、父親は人の記憶を盗む怪物だと言われたという。

「違うって言った。でも、みんな笑った」

オズマは娘の前に膝をついた。

「つらかったね」

「お父さんは悪い人じゃないのに」

「そう思ってくれて、ありがとう」

「私、みんなに分かってほしい」

オズマは娘を抱きしめようとして、以前の約束を思い出した。

「抱きしめてもいい?」

ミウは涙を拭き、両腕を広げた。

「今日は、いっぱい」

彼は娘を抱いた。

細い肩が震えている。

自分の仕事のせいで、娘まで傷つけている。

それが何より苦しかった。


翌日、オズマは学校へ行った。

教師は謝り、子供たちに事実を説明する時間を設けた。

オズマは自分の能力を隠さなかった。

「私が治した人は、私のことを忘れます。それは本当です。でも、ほかの人を忘れさせることはできません」

一人の少年が尋ねた。

「じゃあ、先生は寂しくないの?」

「寂しいよ」

教室が静かになった。

「でも、助かった人が家族のところへ帰るのを見ると、嬉しい。二つの気持ちは、同時にあっていいと思う」

ミウは一番前の席で父を見ていた。

オズマは続けた。

「人を怖がるときは、知らないことを聞いてください。怖いからといって、相手を傷つけていいわけではありません」

授業が終わると、友人のエマがミウのところへ来た。

「昨日、何も言えなくてごめん」

帰り際、教師はオズマに謝った。

「噂が広まったとき、私はすぐ止めませんでした」

オズマは「これから止めてください」と答えた。

誰かの過去の失敗を責め続けるより、次の子供を守る行動が必要だった。

教室の窓にはミウの描いた絵が貼られていた。

大きな家の前で、いろいろな人が手をつないでいる。

真ん中には父と娘。

オズマはその絵を、しばらく眺めた。

ミウは首を振った。

「今日、一緒に帰ろう」

二人が手をつないだのを見て、オズマは胸を撫で下ろした。

夕方、オルドが治療院を訪れた。

研究室の記録を読んだという。

「記憶を戻す術式に、興味を持っただろう」

「……はい」

「だが、やらなかった」

「娘が私を忘れる日が怖いからこそ、誰かの記憶を壊す実験はできません」

オルドは静かにうなずいた。

学校からの帰り道、ミウは父に一つだけ質問した。

「お父さんは、私が忘れちゃったら、私のこと嫌いになる?」

オズマは足を止めた。

「ならない。君が私を知らなくても、私は君を知っているから」

ミウは俯いた。

「でも、私がお父さんを怖がったら?」

「怖がられても、まず君が安心できるようにする。抱きしめてほしくないなら、離れて待つ」

娘はしばらく黙ってから、手を差し出した。

「今日はつないでいい」

オズマはその手を取った。

帰り道の石畳は夕日に赤く染まっていた。

彼は、今日許されたこの手の温かさを覚えておこうと思った。

オズマは娘の絵の下に、今日の日付を小さく書いた。

いつかミウがこの日を忘れたとしても、絵が残る。

けれど絵は、娘の代わりに笑ったり泣いたりはしない。

だからこそ、今ここにいる娘の声を聞き続けたいと思った。

その日の出来事を帳面に残すとき、オズマは事実と推測を別の欄に書いた。

誰かの人生を左右する仕事で、確かめていないことを確かだと言ってはいけない。

ミウが隣で紙を折り、父の手元を覗いた。

「お父さん、今日も難しい顔だね」

オズマは筆を置き、娘と一緒に温かい茶を飲んだ。

調べることは大切だが、娘と過ごすこの時間も同じくらい大切だった。

サーラは閉店前に治療院を訪れ、明日の食事に使う野菜を置いていった。

「困ったら言いな。あんたは何でも一人で抱える」

オズマは礼を言い、受け取った野菜をミウと並べた。

助けられることに慣れていない自分を、少しずつ変えていきたかった。

「マリアも、そう言っただろうな」

オズマは妻の肖像画を見た。

もし彼女が生きていたら、どんな言葉をかけただろう。

きっと簡単な答えはくれない。

それでも隣にいてくれただろう。

夜、ミウは赤い日記に今日のことを書いた。

『お父さんは、さびしいって言った。

だから、わたしはお父さんの名前をたくさん呼ぶ』。

「お父さん」

「何だい」

「お父さん」

「うん」

「オズマ」

彼は笑ってしまった。

「どうしたんだい」

「忘れない練習」

「そんな練習、必要ないよ」

ミウが結んだ糸は、夕方には汗で少し緩んでいた。

オズマは帰宅の約束を守れたことを誇る代わりに、間に合わない日には誰が迎えに行くかをミウと決めた。

「約束は、一人で守るものじゃないんだね」

娘の言葉に、オズマはうなずいた。

危険な調査へ向かう自分の覚悟だけでは、待つ子供の不安は消えない。

ミウは父が帰るまで眠らないと言い張った。

サーラが「心配なら寝て待っていてもいい」と伝えると、少女は首を振った。

「お父さんが帰ってきたとき、最初に名前を呼びたいの」

帰宅したオズマは、その言葉を聞いて胸が詰まった。

「待つのは大変だったろう」

ミウは小さくうなずいた。

「だから、帰れない日は知らせてね」

オズマは約束した。

守るべきなのは大きな奇跡だけではない。

相手を不安な夜に置き去りにしない、そんな小さな約束もあった。

ミウは首を横に振った。

「必要かどうかは、私が決めるの」

帰宅後、ミウは父の約束を紙に書き、戸口へ貼った。

「帰れない日は知らせる」

オズマは苦笑したが、剥がさなかった。

自分が誰かに忘れられることばかり考えていた。

しかし娘は、忘れる前に約束を守ることを望んでいる。

彼は翌日の予定を短く書き添え、娘が読める高さに貼り直した。

ミウは父の指に細い糸を結んだ。

「忘れないためのおまじない」

オズマが笑うと、娘は真剣に言った。

「お父さんが約束を忘れるんじゃなくて、忙しくて帰れなくなるのが怖いの」

オズマは糸を外さず、帰宅できないときは必ず使いを出すと約束した。

奇跡の治癒では守れないものが、日々の約束の中にある。

その強い言い方が、亡き妻に似ていた。

オズマは笑いながら目を潤ませた。


翌朝、研究室から持ち帰った資料の写しに、見落としていた一文が見つかった。

『結晶の作用は、体内に蓄積した魔力によって遅れて発現する場合がある』。

オズマは指を止めた。

北門の患者が粉を浴びた日と、記憶を失った日が一致しない理由になるかもしれない。

だが、それが本当なら、今は元気な人にも症状が現れる可能性がある。

彼はすぐフェルへ知らせた。

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