第十八話 偽りの署名と、消された助手
ユリアはオズマに尋ねた。
「私がカイを忘れても、カイは私を覚えているでしょうか」
オズマは正直に答えた。
「分かりません。けれど、確かめるために探すことはできます」
彼女はゆっくりうなずいた。
「もし会えたら、初めましてって言うかもしれない。それでも会いたいです」
その願いをオズマは記録した。
本人が何を望むか。
それを調査の中心に置くためだった。
発注書の署名は、グラディスの筆跡に似せてあった。
しかし最後の一画だけ、いつもとは逆に跳ねている。
フェルは過去の公文書を十枚並べ、その違いを示した。
「印は本物です。院長室から持ち出された可能性があります」
オズマは頷いた。
「印だけで犯人は決められない。鍵の貸出記録と発注日の勤務表を照らそう」
帳簿には、結晶の運搬を担当した助手の名があった。
ユリア。
二十四歳。
王立施療院の研究助手で、三週間前に退職したことになっている。
住所を訪ねると、彼女は小さな部屋で薬草を干していた。
訪問の理由を告げた途端、顔色が変わった。
「私は何も知りません」
「話したくなければ帰ります。ただ、あなたの名前が運搬記録に残っていました」
ユリアはしばらく黙り、ようやく扉を開けた。
「私、誰かのことを忘れているんです」
彼女の机には、同じ文字が何枚も書かれていた。
『私はカイを知っている』。
「カイは誰ですか」
「分かりません。でも、私の字で書いてある。毎朝、これを見ると泣きたくなるんです」
オズマは紙に触れなかった。
人の記憶が失われたとき、記録だけが残る。
その痛みを知っている。
ユリアは研究助手として結晶の運搬を命じられたが、最後の夜のことだけ思い出せないという。
退職届にも自分の署名がある。
しかし書いた記憶がない。
「私は何か悪いことをしたんでしょうか」
「まだ分かりません。あなたが被害者である可能性もあります」
フェルは彼女の同意を得て、手元の書類を写した。
オズマは症状と時期を記録し、治癒魔法は使わなかった。
原因不明の記憶障害に、安易に別の忘却を重ねたくなかった。
帰り道、二人はカイという人物を探すことにした。
王立施療院の古い職員名簿には、同じ名の助手がいた。
だが現在の名簿からは消えている。
「退職しただけかもしれません」
フェルは言った。
「そうだね。まず所在を確かめよう」
その晩、オズマはミウにユリアのことを話した。
娘は赤い日記を開き、ある頁を見せた。
『きょう、友だちのエマとけんかした。
あした、ごめんねと言う』。
「次の日、ちゃんと謝ったよ。でも、日記を見なかったら忘れてたかも」
「そうかもしれないね」
ユリアは、カイの名前を書いた紙の隅に小さな星を描いていた。
「なぜ星を?」と聞かれても、理由は分からないという。
宿の主人は後日、カイが星の観測を好み、夜空の話をよくしていたと証言した。
ユリアはその話を聞いても記憶を取り戻さなかった。
ただ窓の外を見上げ、「今夜、星を見てみます」と言った。
誰かを思い出すためではなく、自分が何を好きだったか知るために。
「だから、書いてあることって、すごく大事だね」
オズマはうなずいた。
記録は記憶の代わりにはならない。
それでも、失ったものへ手を伸ばす道しるべにはなる。
翌日、サーラが古い住所録を持ってきた。
カイは以前、北門の宿屋に住んでいたという。
宿の主人は彼を覚えていた。
「真面目な青年でしたよ。夜中に何度も鐘楼へ行っていた。ある日、突然いなくなりました」
「いつですか」
「ちょうど、青い粉が運ばれ始めたころです」
オズマは宿の帳簿を調べた。
カイの宿代は、失踪後も一か月分まとめて支払われていた。
支払人の欄は空白だった。
宿の主人は、カイが置いていった古い外套も保管していた。
襟元には小さな補修の跡があり、内側に星の刺繍がある。
ユリアに見せるべきか迷ったオズマは、まず本人へ手紙を書いた。
「あなたに関係するかもしれない品が見つかりました。見たくなければ見なくて構いません」
返事は翌日に届いた。
「見たいです。でも、一人では怖い」
オズマとフェルは立ち会い、外套を机に置いた。
ユリアは刺繍に触れ、涙を一粒落とした。
「何も思い出せません」
彼女は言った。
「でも、これを大切にしたいと思います」
オズマはうなずいた。
失われた記憶を取り戻せなくても、本人が新しく選ぶ気持ちには価値がある。
カイの手紙を読み返すと、最後の文字だけが乱れていた。
書いたとき手が震えていたのかもしれない。
オズマは紙を折らず、平らな封筒に戻した。
誰かが残した証拠を、今度こそ消してはならない。
その日の出来事を帳面に残すとき、オズマは事実と推測を別の欄に書いた。
誰かの人生を左右する仕事で、確かめていないことを確かだと言ってはいけない。
ミウが隣で紙を折り、父の手元を覗いた。
「お父さん、今日も難しい顔だね」
オズマは筆を置き、娘と一緒に温かい茶を飲んだ。
調べることは大切だが、娘と過ごすこの時間も同じくらい大切だった。
サーラは閉店前に治療院を訪れ、明日の食事に使う野菜を置いていった。
「困ったら言いな。あんたは何でも一人で抱える」
オズマは礼を言い、受け取った野菜をミウと並べた。
助けられることに慣れていない自分を、少しずつ変えていきたかった。
「誰かが部屋を残しておきたかったのかもしれません」
フェルが言った。
宿の主人はため息をついた。
「彼、最後の日に『もし帰らなかったら、これを』と封筒を預けたんです。怖くて開けられなかった」
封筒の宛名は『記憶を失った人を助ける者へ』。
中には鐘楼の設計図と、研究室の鍵があった。
さらに短い手紙が添えられていた。
『誰かを忘れさせることで、誰かを守れると思った。
間違っていた。
これ以上、同じことを繰り返さないでほしい』。
オズマは文を読み、拳を握った。
カイが何をしたのか、何から誰を守ろうとしたのか。
まだ分からない。
フェルは偽造された署名の筆跡と、薬品の発注番号を別々の帳面に写した。
署名が偽物でも、発注された結晶が鐘楼に届いた証明にはならない。
運送屋の控えを探すと、荷の一部が施療院の倉庫で積み替えられた記録があった。
調査は初めて、鐘楼以外の場所へ広がった。
助手カイの机には、使いかけの鉛筆が二本あった。
一本は削りたて、もう一本は短くなっていた。
オズマは短い方の側面に小さな刻み目を見つける。
日数を数えた跡かもしれない。
だが、すぐには断定しなかった。
フェルに机の配置を写させ、衛兵が来るまで触れずに待った。
行方不明者を救いたい気持ちほど、残された痕跡を壊しやすい。
署名の偽造を知った衛兵は、助手カイを即座に犯人と決めつけた。
オズマは止めた。
「署名を偽造した人物と、装置を動かした人物が同じとは限らない」
証拠の封筒には、誰がいつ触れたかを書き残した。
フェルは苦笑した。
「先生は疑うことまで丁寧ですね」
「間違って人を裁けば、その人の人生を壊す」
オズマはそう言い、研究室の扉の前に立った。
患者の記憶を守る調査で、別の誰かの人生を奪ってはならなかった。
その夜、ミウは父に聞いた。
「悪いことをした人でも、助けるの?」
カイの居場所を示す手掛かりは、署名ではなく封筒の糊にあった。
王立施療院で使う糊と、北門の倉庫で使う糊は匂いが違う。
フェルが気づいた違いを、オズマは証拠品に直接書き込まず別紙へ記録した。
推理はまだ推理にすぎない。
カイが生きている可能性がある以上、急ぐことと決めつけることを混同してはならなかった。
封筒の差出人欄は空白だった。
フェルが「カイのものです」と言いかけると、オズマは手を上げた。
「まだ分からない」
二人は封を切る前に封筒の傷と封蝋を写し取った。
中には短い文章があった。
『私が消えたことにしなければ、次は家族が消される』。
オズマは紙を伏せた。
これは行方不明者の告白か、誰かが仕掛けた罠か。
答えはまだない。
「罪は調べなければならない。でも、助けが必要なら助ける。二つは別だよ」
「じゃあ、ちゃんと帰ってきてね」
「ああ」
オズマは娘の髪を撫でた。
胸ポケットの札が、指先に触れた。
翌朝、研究室の鍵を衛兵に預け、立ち会いのもとで扉を開けることになった。




