第十六話 忘却を研究した医師の告白
夜半、鐘楼に人影が現れた。
フェルが息を潜め、オズマは物陰からその動きを見守った。
黒い外套の男は鐘の縄に手を伸ばしたが、直前で立ち止まった。
「そこまでです」
フェルが声をかけると、男は逃げようとせず、両手を上げた。
「……やはり見張っていたか」
外套の下から現れたのは、王立施療院の老医師ベルクだった。
かつてオズマに解剖学を教えた人物である。
「先生。どうしてここに」
ベルクは疲れた顔で答えた。
「鐘を鳴らすためじゃない。鳴らせなくするためだ」
男は工具を取り出した。
鐘の内部には小さな結晶片が埋め込まれ、音が響くと細かな粉が落ちる仕組みになっていた。
「誰が作ったんです」
「十年前の私たちだ」
ベルクは階段に腰を下ろし、長い沈黙のあとで語り始めた。
戦場から帰った兵士たちは、眠れず、家族にも触れられずに苦しんでいた。
恐怖の記憶だけを弱める研究は、当初は救済のためだった。
「だが結晶は、恐怖だけを選べなかった。人は、恐怖を誰かの顔や声と結びつけて覚えている。結晶はその結び目ごと切ってしまった」
「それで研究を止めた?」
「マリアが止めた。彼女は患者を研究材料にするなと怒った。私は賛成したが、院長は成果を惜しんだ」
オズマは妻の名に胸を押さえた。
「妻が亡くなったあと、研究は?」
「表向き中止された。私は封印したと思っていた。だが最近、古い設計図が持ち出された」
「誰に?」
ベルクは首を振った。
「まだ分からん。私は鐘を壊そうとしたが、見つかれば証拠隠滅と疑われる。だから内部を確かめに来た」
フェルは冷静に言った。
「なら、皆の前で証言してください。鐘もそのまま保存します」
「私が関わった罪も明らかになるな」
「はい」
ベルクは目を閉じた。
「それでいい。黙っていた私にも責任がある」
三人は鐘楼を封鎖し、衛兵に立ち会いを求めた。
結晶片は触らず、位置と形を絵に残した。
ベルクは署名入りの証言書を書き、当時の研究参加者の名を挙げた。
明け方、オズマが帰宅すると、ミウはサーラの家で眠っていた。
彼は起こさず、枕元に『帰ってきたよ』と紙を置いた。
昼、娘が目を覚ました。
「お父さん、ちゃんと帰ってきた!」
「約束したからね」
ミウは紙を大事そうに日記へ挟んだ。
ベルクは証言書の最後に、自分が研究中止を強く求めなかった理由も書いた。
昇進を失うのが怖かったこと。
院長に逆らえなかったこと。
被験者の声を聞きながら、記録上の数字として扱ったこと。
「許してほしいとは言わん」と老人は言った。
「ただ、これからの医師が同じことをしないようにしたい」
オズマは署名を見つめた。
告白は過去を消さない。
それでも、沈黙を終わらせる最初の一歩にはなる。
「昨日の鐘、どうなったの?」
「危ない仕組みが見つかった。大人たちで止めるよ」
「お母さんも、その鐘を止めようとしたんだよね」
「そうだよ」
「じゃあ、今はお父さんの番だ」
その言葉に、オズマは背筋を伸ばした。
午後、ベルクが正式な証言をした。
施療院の評議員たちは騒然としたが、証言だけで現在の犯人は決まらない。
鐘の設置を命じた文書、石材の発注、結晶の運搬記録を照合することになった。
グラディス院長は厳しい顔で言った。
証言を終えたベルクは、王立施療院の門の前で立ち止まった。
ここで四十年働いてきたという。
「患者を救うことだけを考えていたつもりだった。だが研究で結果が出ると、患者の人生より数字を先に見ていた」
オズマは返事を探した。
「私も、救えた人数を数えたことがあります。忘れられた寂しさを紛らわせるために」
ベルクは苦笑した。
「お前も人間だな」
二人はしばらく門の前に立っていた。
やがてベルクは「今度、ミウに会わせてくれ」と言った。
「マリアに似ていると聞いた」
オズマはうなずいた。
「でも、あの子はあの子です」
ベルクは目を細めた。
「そうだな。まずは本人に挨拶しなければ」
ミウはベルクの名前を聞き、「お母さんのお友達?」と尋ねた。
「仕事仲間だった人だよ」とオズマは答えた。
「じゃあ、お母さんの話を聞きたい」
彼は約束した。
娘が母のことを知る道は、自分の記憶だけではない。
妻を知る人々が、まだこの町に生きている。
その日の出来事を帳面に残すとき、オズマは事実と推測を別の欄に書いた。
誰かの人生を左右する仕事で、確かめていないことを確かだと言ってはいけない。
ミウが隣で紙を折り、父の手元を覗いた。
「お父さん、今日も難しい顔だね」
オズマは筆を置き、娘と一緒に温かい茶を飲んだ。
調べることは大切だが、娘と過ごすこの時間も同じくらい大切だった。
サーラは閉店前に治療院を訪れ、明日の食事に使う野菜を置いていった。
「困ったら言いな。あんたは何でも一人で抱える」
オズマは礼を言い、受け取った野菜をミウと並べた。
助けられることに慣れていない自分を、少しずつ変えていきたかった。
「十年前の研究に私の署名があることは認める。しかし、再開を命じた覚えはない」
オズマは彼を見つめた。
嘘をついているのか、本当に知らないのか。
判断できなかった。
「なら、誰が命じたか一緒に調べてください」
グラディスは答えず、書類を閉じた。
夕刻、ベルクはオズマを呼び止めた。
「お前の治癒の代償について、話しておくことがある」
「結晶と関係が?」
「断言はできん。ただ、マリアはお前の力を『呪い』と呼ばなかった。『人を生かす力が、人とのつながりを代価にするのはなぜか』と考えていた」
ベルクは一枚の紙を渡した。
妻の研究メモだった。
『記憶を消す力と、記憶をつなぎ直す力は、同じものではない。
安易に代償を取り戻そうとしてはならない』。
オズマはその言葉を胸に刻んだ。
娘を忘れられたくない一心で、危険な研究に手を伸ばす未来が、ふと頭をよぎったからだ。
オルドは告白を聞き終えると、研究者の前に二枚の紙を置いた。
一枚には確認された実験条件、もう一枚には本人の推測だけを書く。
「過去の罪を認めることと、今の原因を証明することは別です」
男は長く黙った後、未記入だった実験日誌の保管先を口にした。
ベルクは告白の途中で、手を止めた。
「名前を書けば、あの助手の家族まで巻き込む」
オズマは記録用紙を二枚に分けた。
一枚は日時と検証可能な事実、もう一枚は保護が必要な人物の情報。
後者は封をして衛兵の責任者だけに渡す。
「秘密にするためではなく、調べる順番を守るためです」
ベルクは初めて、自分の言葉が誰かを傷つけずに役立つ道を見た。
ベルクは机の端に一枚の未送付の報告書を置いた。
「私は十年前、これを提出できなかった」
そこには研究中止を求める署名があり、マリアの名前もあった。
オズマは怒りで紙を握りつぶしかけた。
「今さら、なぜ」
ベルクは答えた。
「責められるのが怖かった。だが、また子供が傷つくほうがもっと怖い」
許すとは言えなかった。
オズマは紙を平らに戻し、証拠として受け取った。
真実を知ることと相手を許すことは、別々の時間を必要とする。
「私は、娘の記憶を守りたい」
「なら、娘の意思も守れ」
ベルクが差し出した書類には、署名の下に日付の訂正跡があった。
オズマはそこを指さした。
「これを誰が直した?」
ベルクは即答できなかった。
謝罪が本物でも、証言のすべてが正しいとは限らない。
オズマはその夜、ベルクの話を一字一句記録し、確認できた事実には印を付けた。
怒りに任せて証拠を壊すことだけは避けたかった。
ベルクは書類を差し出した手を引っ込めた。
「私の証言で誰かが処罰されるのか」
オズマは答えを急がなかった。
「証言は調べます。責任を決めるのは、そのあとです」
ベルクの肩が震えた。
「私は怖くて黙っていた」
オズマは机の上の白紙を彼の前へ置いた。
「なら、今夜は黙らずに書いてください。覚えていることだけを」
ベルクは静かに言った。
家に帰ると、ミウが温かいスープを用意していた。
二人で食卓を囲み、今日あったことを話す。
オズマは妻の研究をすべて娘に理解させようとはしなかった。
ただ、危ないものを止めるために大人たちが協力していると説明した。
ミウはうなずき、父の皿にパンを半分置いた。
「お父さん、今日もお疲れさま」
その何気ない言葉が、長い夜の疲れをほどいた。




