第十五話 鐘が鳴るたびに消える記憶
夜明けの鐘が遠くの塔から聞こえると、フェルは肩を震わせた。
「あの音まで怖くなりそうです」
オズマは首を振った。
「鐘そのものが悪いわけじゃない。人がどう使ったかが問題なんだ」
フェルは空を見上げた。
朝の光が石段を照らしている。
「いつか、この町の人が安心して鐘を聞けるといいですね」
「そのために調べているんだよ」
二人は記録をまとめ、次の見張りへ引き継いだ。
王立施療院の裏庭にある鐘楼は、長く使われていなかった。
ひび割れた階段を上ると、風に揺れる小さな鐘が見えた。
金属の表面には青い筋が走っている。
「北門の粉と同じ色です。でも、同じ物質かどうかは調べないと」
フェルが言った。
オズマは鐘に触れず、周囲を観察した。
鐘の下には新しい足跡があり、床板の隙間から粉がこぼれている。
「この鐘は最近鳴りましたか」
管理人は首をかしげた。
「毎晩、誰かが鳴らしているようです。私は命じられていませんが」
彼らは鐘楼の近くに暮らす人々から聞き取りをした。
記憶障害を訴えた家は、鐘の音がよく届く区域に集中していた。
しかし、鐘が聞こえた全員が病気になったわけではない。
「粉と音の両方が必要なのかもしれない」
フェルの仮説に、オズマはうなずいた。
「可能性はある。ただ、今は鐘を鳴らさないようにして、症状が増えるか観察しよう」
管理人は鐘を固定することに同意した。
施療院には正式な文書を出し、危険性の調査が終わるまで使用を控えるよう求めた。
その日の午後、北門の少年トビアスが治療院を訪れた。
母親と一緒だった。
二人はぎこちないながらも並んで歩いている。
「先生、僕、母さんの好きな歌を覚えたよ」
「新しく教わったのかい」
「うん。昔も歌ってたらしいけど、それは思い出せない」
母親は寂しそうに笑った。
「でも今朝、一緒に歌ってくれました」
オズマは二人を庭へ案内した。
ミウが水やりをしている。
トビアスは花壇の小さな看板を読み、ミウに尋ねた。
「『忘れな草』って、本当に忘れなくなる花?」
「ううん。でも、忘れたくないって思う花だよ」
ミウはそう答えた。
オズマはその言葉を聞き、少しだけ笑った。
夕方、施療院から使者が来た。
鐘楼の調査は許可されないという。
理由は『施設管理上の問題』。
オズマは文書を受け取り、受領の日付を記した。
「管理上の問題なら、なおさら危険を調べる必要があります」
使者は答えなかった。
夜、サーラの店で小さな集会が開かれた。
患者の家族たちが、いつ、どこで、誰を忘れたかを持ち寄る。
オズマは一人ずつ話を聞き、同じ情報を何度も尋ねないよう注意した。
「家族の顔を忘れた本人を責めないでください」
見張りの準備をするフェルは、厚い上着を二枚持ってきた。
「先生は夜に弱いと聞きました」
オズマは苦笑した。
「昔の私を覚えているのかい」「私は治療を受けていませんから」
当たり前の返答が嬉しかった。
誰かと同じ仕事をし、翌日もその相手に覚えていてもらえる。
彼にはそれが長く失われた贅沢だった。
彼は集まった人々に言った。
「病気は本人の意思ではありません。無理に思い出させようとすると、傷つけてしまうことがあります」
一人の老人が手を挙げた。
「でも、忘れられたほうはどうすればいい」
オズマは答えに迷った。
忘れられる苦しみを知っていても、万能な慰めは持っていない。
「つらいと言っていいんです。相手にぶつける前に、私たちに話してください。ここで聞きます」
会場は静かになった。
やがて老人は、妻に忘れられた日のことを語り始めた。
誰も遮らなかった。
鐘楼の近くで暮らす老夫婦は、夜になると窓を閉め切っていた。
妻はまだ記憶を失っていないが、夫が自分を忘れる夢を見るという。
オズマは二人の家を訪ね、鐘を止めるための手続きを説明した。
「いつまで待てばいいんです」と妻が尋ねる。
「分かりません。でも、今夜は私たちが見張ります」
夫は古い毛布を持ってきた。
「それなら、これを使ってください」
オズマは受け取り、鐘楼の階段に座った。
夜の寒さは厳しかった。
フェルが交代を申し出ると、彼は毛布を半分渡した。
「二人で使おう」
鐘が鳴らないまま夜が明けたとき、老夫婦は窓を開け、遠くから手を振った。
何も起きなかった一夜が、誰かにとって大きな救いになることをオズマは知った。
鐘楼の階段で夜明けを待つ間、オズマはミウが結んだ糸を見つめた。
ほどけそうな細い結び目だったが、袖に残っている。
彼はそれを指で押さえ、家の灯りを思い浮かべた。
誰かを救う仕事を続けるためにも、帰る場所を失ってはいけない。
その日の出来事を帳面に残すとき、オズマは事実と推測を別の欄に書いた。
誰かの人生を左右する仕事で、確かめていないことを確かだと言ってはいけない。
ミウが隣で紙を折り、父の手元を覗いた。
「お父さん、今日も難しい顔だね」
オズマは筆を置き、娘と一緒に温かい茶を飲んだ。
調べることは大切だが、娘と過ごすこの時間も同じくらい大切だった。
サーラは閉店前に治療院を訪れ、明日の食事に使う野菜を置いていった。
「困ったら言いな。あんたは何でも一人で抱える」
オズマは礼を言い、受け取った野菜をミウと並べた。
助けられることに慣れていない自分を、少しずつ変えていきたかった。
帰り道、ミウは父の手を握った。
「お父さん、みんなに『大丈夫』って言わなかったね」
「大丈夫じゃない人もいるからね」
「じゃあ、何て言えばいいの?」
「『ここにいるよ』で十分なこともある」
ミウは小さくうなずいた。
翌朝、鐘楼の管理人から緊急の伝言が届いた。
固定したはずの鐘が、真夜中に一度だけ鳴ったという。
その直後、近くの看護師が自分の師匠を忘れた。
誰かが鐘を鳴らしている。
鐘を止めた夕刻、鐘楼の前には花束を抱えた老人が立っていた。
「妻の命日は、この音で祈るんだ」
オズマは調査の理由を伝え、祈りの時間を奪ったことを詫びた。
老人はしばらく黙ったあと、花を一輪だけ手渡した。
「止めた理由が本当なら、誰かの妻を守れるんだろう」
オズマはその花を鐘楼の記録机に置いた。
安全のための決定にも、置き去りにされる気持ちがある。
鐘楼の管理人は、鐘を止めれば時刻が分からなくなると訴えた。
市場の開門も夜警の交代も、鐘を頼りにしている。
「代わりを用意しましょう」とフェルが言う。
オズマは町の時計職人を訪ね、鐘を鳴らさず旗で時刻を知らせる案を出した。
住民の暮らしを守ることも調査の一部だった。
管理人は不安そうに旗を掲げ、初めて鐘を鳴らさない正午を迎えた。
誰も記憶を失わなかった。
しかし、それだけでは鐘が原因だとは証明できない。
オズマは安堵と疑いの両方を記録した。
オズマは調査帳にそう記した。
証拠が揃うまで誰かを犯人とは呼ばない。
しかし、これ以上被害を増やさないため、鐘楼を見張る必要があった。
彼はフェルと交代の見張りを決め、ミウにはサーラの家で待つよう伝えた。
鐘を止めた日の夕方にも、別の地区で一件の忘却が報告された。
フェルは悔しそうに拳を握ったが、オズマは記録を丸で囲んだ。
「仮説が間違っていると分かった。これは前進だ」
鐘の音だけでは説明できない。
ならば鐘楼へ運ばれた資材、作業員の移動、風向きを改めて調べる必要がある。
鐘楼の管理人は、鐘を止める決定に怒った。
「この鐘は亡くなった人を送るためにも鳴るんだ」
オズマは頭を下げた。
「必要がなければ、すぐ戻します」
夕方、鐘が鳴らない広場で一人の老女が立ち尽くしていた。
夫の命日だった。
オズマは老女に事情を説明し、代わりに灯をともすのを手伝った。
調査の正しさは、傷ついた人の痛みを消してはくれない。
「今夜も帰ってくる?」
「必ず連絡する。遅くなるなら、サーラさんに知らせるよ」
ミウは少し考えて、父の袖に小さな糸を結んだ。
「これ、帰る道の目印」
オズマはその糸をほどかずに出かけた。
鐘楼の影は夕闇の中で長く伸び、まだ鳴っていない鐘が、不気味な沈黙を守っていた。




