第十三話 昨日までの夫を知らない妻
三日後、治療院に一組の夫婦が来た。
正確には、夫婦だったはずの二人だ。
妻のセシルは夫のルークを見るたび、見知らぬ男に近づかれたように肩をすくめた。
「この人が家にいるんです。鍵まで持っていて」
ルークは指輪を外し、机に置いた。
「結婚して十二年です。娘もいます」
「娘は覚えていますか」
「ええ。娘のことは。でも夫だけが……」
セシルは泣きそうな顔で言った。
オズマは椅子を二つ、少し離して置いた。
無理に向き合わせないためだった。
「セシルさん、ここへ来ることは自分で決めましたか」
「はい。娘に勧められました」
「今日は話を聞くだけです。思い出すよう強制しません」
彼女はようやく息を吐いた。
ルークは古い写真代わりの肖像画と、十二年間の家計帳を持ってきていた。
そこには二人の字で書かれた買い物の記録が残る。
「これが私の字なのは分かります。でも、隣の字が誰のものか分からない」
「信じられないのは当然です」
オズマは答えた。
「私だって、もし娘に知らない人だと言われたら、どうしたらいいか分からなくなるでしょう」
ルークが顔を上げた。
「先生にも娘さんが?」
「います。八歳です」
「だったら、分かりますよね。家に帰っても妻が私を怖がるんです」
その言葉に、オズマは軽々しく『分かる』とは言えなかった。
彼は患者に忘れられる。
しかし、毎晩帰る家で愛する人に怯えられる苦しみは、まだ経験していない。
「すべて同じには分かりません。でも、お二人が安全に暮らす方法は一緒に考えられます」
まず寝室を分け、セシルの同意なしに触れないこと。
娘を仲裁役にしすぎないこと。
昔の思い出を試験のように問い詰めないこと。
ルークは一つずつ書き留めた。
「私は夫であることを証明したかった。でも、彼女が怖がるなら……」
「証明と、信頼を得ることは別です」
オズマはそう言い、窓辺の花瓶を見た。
マリアが生きていたころ、二人で選んだものだった。
妻の字が刻まれている。
帰り際、セシルが尋ねた。
「先生。私はこの人をもう一度好きになれますか」
「約束はできません。ただ、昨日までのあなたが愛した人でも、今日のあなたには初対面です。今日の気持ちを大切にしていいんです」
ルークは俯いたままうなずいた。
その夜、オズマは娘と夕飯の皿を洗った。
ミウが言った。
「お父さん、今日の人、悲しそうだった」
「聞こえていたのかい」
数日後、ルークは一冊の新しい帳面を買った。
表紙には『今日のセシルへ』と書いた。
十二年の思い出を並べて取り戻させるためではない。
彼女が今、嫌いなもの、好きなもの、怖いことを聞き、書き留めるためだった。
「夫として当然知っていると思っていたことを、私は本当には聞いていなかったのかもしれません」
その言葉を聞いたオズマは、家でミウの好きな花を改めて尋ねた。
娘は少し考えて「昨日までは黄色。今日は白」と答えた。
人は変わる。
愛するとは、変わる相手を毎日知り直すことでもある。
「待合室で、女の人が『怖い』って言ってた」
「怖い気持ちを否定しないのも、助けることなんだ」
ミウは泡のついた手を止めた。
「お父さんも、私が怖がったら待ってくれる?」
「もちろん」
「じゃあ、忘れちゃっても、すぐ抱きしめないでね」
その言葉は鋭く胸に刺さった。
娘はもう、未来の自分を想像している。
「分かった。まず名前を言う。君が近づいていいと言うまで待つ」
セシルとルークの娘は十二歳で、両親の間に立つことに疲れ果てていた。
オズマが話を聞くと、少女は「お母さんにお父さんのことを教えるのは、私の仕事なの?」と尋ねた。
「違うよ。君は二人の娘でいていい。大人の問題は大人が引き受ける」
少女はその場で泣き出した。
母を助けたい。
父も悲しませたくない。
だが自分にも学校があり、友達と遊ぶ時間が必要だった。
オズマはサーラに頼み、週に一度、家族以外の大人が二人の相談を聞く時間を設けた。
ルークは娘に謝った。
「お前を通訳みたいに使っていたな」
セシルも娘の手を握った。
「あなたが疲れていることに気づかなかった」
少女は鼻をすすりながら笑った。
「じゃあ明日は、友達の家に行っていい?」
二人は声をそろえて「もちろん」と答えた。
夕食の席で、ミウは父に「私のこと、全部知ってる?」と尋ねた。
オズマは少し考え、「全部は知らないと思う」と答えた。
娘は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、明日も新しいこと教えてあげる」
親子でいることは、知り尽くすことではない。
知らないところを、怖がらずに聞けることなのだとオズマは思った。
その日の出来事を帳面に残すとき、オズマは事実と推測を別の欄に書いた。
誰かの人生を左右する仕事で、確かめていないことを確かだと言ってはいけない。
ミウが隣で紙を折り、父の手元を覗いた。
「お父さん、今日も難しい顔だね」
オズマは筆を置き、娘と一緒に温かい茶を飲んだ。
調べることは大切だが、娘と過ごすこの時間も同じくらい大切だった。
「約束」
二人は濡れた小指を絡めた。
翌日、セシルから小さな便りが届いた。
夫と同じ卓で茶を飲めたという。
思い出は戻らなかったが、ルークが茶に砂糖を入れないことを新しく覚えたらしい。
『十二年前の彼を思い出せなくても、今日の彼を知ることはできます』。
オズマはその文を声に出して読んだ。
午後、フェルが北門の調査記録を持ってきた。
青い粉の付着があった場所と、患者の移動経路を重ねた地図だ。
全員が工事区域にいたわけではない。
しかし、患者のうち五人は同じ運搬車の近くを通っていた。
「石材が町の中まで運ばれています」
「運搬先は?」
「王立施療院の裏庭です」
オズマは地図を机に広げた。
もし粉が原因なら、病は北門だけにとどまらない。
ルークとセシルが暮らす家も、その運搬路沿いにあった。
「急いで確認しよう。ただし、患者を責めるような調査にはしない」
フェルは発症者の住まいを地図に置いた。
「鐘が聞こえた人全員が発症したわけではありません」
オズマは青い粉が見つかった場所を重ねた。
二つの条件が重なる地区で報告が多い。
しかし症状のない住民もいた。
「鐘だけが原因でも、粉だけが原因でもないかもしれない」
二人は結論ではなく、翌日の採取地点を増やした。
妻は夫の好物を並べたが、夫は箸を取らなかった。
「知っているふりをするのが怖い」
妻は皿を一つ下げ、二人で初めて食べる料理を作ろうと誘った。
焦げた芋を前に二人は笑った。
オズマは帰り道、治療院の帳面に書いた。
『過去の再現を急がせないこと』。
失った記憶を証明する書類と、新しい信頼を育てる時間は、別のものだった。
夫婦が帰る直前、妻は夫の手を取ろうとして止めた。
「私があなたの妻だと言っても、怖いでしょうね」
夫は黙ってうなずいた。
妻は指輪を外して卓上に置いた。
「今日は結婚していた証拠じゃなくて、私の好きな花の話をします」
夫が初めて笑った。
「花なら聞けそうだ」
オズマは診療記録の「家族関係」の欄に、以前の事実と今日交わした約束を分けて記した。
過去を証明する書類と、これから築く信頼は同じものではない。
フェルはうなずいた。
人を忘れた者は加害者ではない。
忘れられた者もまた、被害者だった。
夕方、ミウが二枚目の札に新しい一文を書き足した。
妻は夫の好物を三つ並べた紙を持ってきたが、途中でしまい込んだ。
「当てさせてしまいそうだから」
オズマはうなずく。
夫は新しい記憶を作る権利を持っている。
夫婦は今日初めて飲んだ茶の味を一行だけ記録した。
過去の結婚を証明するためではない。
明日、もう一度二人で飲むためだった。
夫は机に置かれた二人の結婚証明書を見つめた。
「これを見れば、信じるべきなんでしょうね」
妻は首を横に振った。
「信じることを命令したくないの」
沈黙のあと、夫は窓を開けた。
「まず、あなたの好きな花を教えてください」
妻は涙を拭い、「白い小菊」と答えた。
それは夫が昔、求婚の日に贈った花だったが、彼女はそのことを言わなかった。
『お父さんがわからなくなったら、こわがってもいい』。
オズマは読み、娘を抱きしめたい気持ちをこらえた。
代わりに尋ねる。
「手をつないでもいいかい」
「いいよ」
小さな手が差し出された。
オズマは、その許しを一生忘れまいと思った。




