第十二話 記憶を奪う青い粉の正体
王立施療院の検査室には、夜明け前から灯りがともっていた。
フェルは青い粉を三つの皿に分け、井戸水、油、酢を一滴ずつ落とした。
「水には溶けません。油にも。酢に触れると、色が消えます」
オズマは皿に顔を近づけた。
「色が消えても、物質までなくなったとは限らない。症状との関係も、まだ証明されていない」
「はい。残ったものを調べます」
フェルはまだ若い。
だが、自分の仮説を急いで結論にしないところがオズマには好ましかった。
オルドが古い薬草図鑑を運んでくる。
「北方の鉱山で採れる『眠り石』に似ている。砕いた粉は青いが、普通は記憶には作用しない」
「普通は、ということは?」
「魔力を通した場合の記録がない」
三人は北門の工事現場へ向かった。
石畳の下には古い導水管があり、最近の補修で北方産の石材が使われていた。
工事監督は帳簿を見せた。
「材料は王立施療院の指定品です。代金も院の会計から出ています」
オズマはフェルを見た。
フェルは驚いていた。
「私は何も聞いていません。院長が直接発注したのかもしれません」
「まだ誰かを疑う段階ではないよ。まず材料の行方を確かめよう」
石材置き場には割れた箱があり、底に青い粉がたまっていた。
オズマは手袋をはめて少量を採り、封をする。
近くの作業員が、最近同僚の顔を思い出せなくなったと話した。
「昨日まで一緒に働いていたのに、知らない男に見えたんです」
「体調は?」
「少し頭が重いくらいで」
オズマは作業を中断し、粉の飛散を防ぐよう監督に求めた。
粉が原因と断定はできない。
それでも曝露を減らす措置には意味がある。
昼過ぎ、施療院の院長グラディスが現れた。
「誰の許可で現場を調べている」
「衛兵の依頼で、症状の共通点を確認しています」
「営業停止中の治癒師に権限はない」
「治療はしていません。調査結果は施療院にも提出します」
グラディスは封筒を一瞥した。
「余計な噂を広めるな。民が不安になる」
オズマは言い返したくなった。
しかし感情で争えば、患者が後回しになる。
「噂ではなく、確認できた事実だけを伝えます」
院長は返事をせず去った。
フェルの顔は青ざめていた。
「先生、私が院内で資料を探します」
「無理をしないで。記録を守ることが先だ」
粉を採った紙袋には、採取した時刻と場所、立ち会った人の名を三人で書いた。
フェルが「ここまで必要ですか」と尋ねると、オズマは「後から疑われても、患者のための調査が揺らがないように」と答えた。
十年前の研究は、記録の一部が失われたことで誰も正確な被害を数えられなくなっていた。
同じ過ちを繰り返したくなかった。
夕方、ミウが治療院の前で待っていた。
手には二枚の紙がある。
「学校で、忘れないための札を作ったの」
一枚には『わたしはミウ』、もう一枚には『オズマはわたしのお父さん』と書かれていた。
「先生が言ってた。紙は、魔法に忘れられないんでしょう?」
オズマは胸が詰まった。
「そうだよ。でも、紙をなくすこともある」
「じゃあ、二枚作ればいいよ。一枚はお父さん、一枚は私」
娘は何でもないことのように答えた。
オズマは二枚を丁寧に折り、片方を自分の胸ポケットにしまった。
検査室での作業は思った以上に地味だった。
フェルは水の入った瓶を六つ並べ、粉を混ぜたものと混ぜないものを区別できないよう、番号だけを書いた。
オルドが匂いを確かめ、オズマが沈殿の速さを記録する。
どの瓶もほとんど同じに見えた。
「何も分からないまま一日が終わりそうです」とフェルが漏らすと、オズマは首を振った。
「分からないことが分かった。これは成果だよ」
その言葉にフェルは少し笑った。
午後、工事監督から使われた石材の数が届いた。
二十箱のうち三箱だけが別の倉庫を経由していた。
帳簿の数字が一つ合わない。
「ここを調べましょう」
オズマは赤い線を引いた。
派手な治癒魔法で救えないものが、紙の上の一行から救えるかもしれない。
彼はそう思った。
帰宅したオズマは、今日の調査結果をミウにも分かる言葉で話した。
「まだ原因は決まっていない。でも、怪しい石があることは分かった」
ミウは真剣な顔で聞き、日記に青い丸を描いた。
「この丸、危ないかもしれないものの印」
オズマは微笑んだ。
娘の小さな記録も、いつか誰かを守る手掛かりになるかもしれない。
その日の出来事を帳面に残すとき、オズマは事実と推測を別の欄に書いた。
誰かの人生を左右する仕事で、確かめていないことを確かだと言ってはいけない。
ミウが隣で紙を折り、父の手元を覗いた。
「お父さん、今日も難しい顔だね」
オズマは筆を置き、娘と一緒に温かい茶を飲んだ。
調べることは大切だが、娘と過ごすこの時間も同じくらい大切だった。
サーラは閉店前に治療院を訪れ、明日の食事に使う野菜を置いていった。
「困ったら言いな。あんたは何でも一人で抱える」
オズマは礼を言い、受け取った野菜をミウと並べた。
助けられることに慣れていない自分を、少しずつ変えていきたかった。
夜、フェルから封書が届いた。
王立施療院の古い研究台帳に、青い粉に似た鉱石の記載があったという。
『記憶への作用を観察。
対象が特定人物を忘れる可能性。
実験中止』。
台帳の署名欄には、十年前の研究責任者の名があった。
グラディス。
オズマは何度も読み直した。
だが署名があるだけでは、今起きていることの証拠にはならない。
古い研究と現在の工事がどう結びつくのか、確かめる必要がある。
ミウは眠る前、胸ポケットの札を指さした。
帰り道、ミウは市場で小さな青い石を見つけた。
拾おうとする手をオズマが止めると、娘は驚いた。
「触らないほうがいいものもあるんだ。知らないものは、まず大人に教えて」
ミウはうなずき、石のあった場所を覚えた。
オズマは近くの店主に伝え、衛兵が調べるまで人が近づかないよう頼んだ。
「お父さん、それ、ちゃんと持ってる?」
「ああ」
「もし私が忘れても、読んで教えてね」
粉を扱った石工の一人が、採取袋を見て青ざめた。
「俺が撒いたことにされるのか」
オズマは検体の封を閉じたまま答えた。
「今分かっているのは、そこに粉があったことだけです」
石工の娘が父の袖をつかむ。
オズマは、疑いの目が一つの家族を壊す速さを知った。
検査結果が出るまで職人の名を伏せると決め、フェルにも同じことを求めた。
フェルが青い粉の入った瓶を差し出した。
「原因がこれなら、全員に解毒魔法をかければ」
オズマは瓶に蓋をした。
「仮説のまま治療するわけにはいかない。無関係な人の記憶まで奪うかもしれない」
二人は粉の採取場所を地図に記し、発症していない住民の移動経路も調べることにした。
危険な物質を見つけた喜びより、間違った結論を急がない責任のほうが重かった。
ミウが書いた『もし忘れたら、もう一度教えて』という札を見たとき、オズマは娘に説明できる調査だけを続けようと決めた。
「……そんな日が来ないようにするよ」
「来ちゃったら?」
粉の分析に立ち会った職人は、青い顔で「私が運んだ石です」と告げた。
オズマは責任を問い詰める前に、荷札と搬入日を確かめた。
職人は自分の帳簿を差し出す。
搬入の翌日から症状が増えていたが、同じ石を扱った全員が発症したわけではない。
恐怖が広がるほど、証拠と推測を分けて記す必要があった。
フェルは青い粉を載せた皿の横に、採取場所ごとの小瓶を並べた。
「色が同じでも、同じものとは限りません」
オズマはうなずき、粉を見つけた時刻と風向きを記録した。
見た目だけで犯人を決めれば、無関係な職人を傷つける。
だが調査を遅らせれば、今夜も誰かが家族を忘れる。
その二つの恐れを抱えたまま、彼らは次の検査を始めた。
オズマは娘の目を見た。
「そのときは、最初から自己紹介する」
ミウは安心したように笑った。
「じゃあ、私も何回でも聞く」
その約束を胸に、オズマは灯りを消した。
窓の向こうでは北門の工事が止まり、粉を覆う白い布が夜風に揺れていた。




