第十一話 北門から来た、母親を忘れた少年
北門の衛兵が治療院へ駆け込んだのは、朝食のパンがまだ温かいころだった。
「先生、子供が母親を知らないと言い張っているんです」
オズマは上着を取り、ミウに留守番を頼んだ。
営業停止の札はまだ扉にある。
衛兵はそれを見て唇を噛んだ。
「診療の許可は出せません。ただ、話を聞いていただくだけなら」
「十分です」
北門の詰所では、十歳ほどの少年が椅子の端に座っていた。
向かいにいる女性は、泣き腫らした目で彼を見ている。
「名前を教えてくれるかい」
「トビアス」
「こちらの人は?」
「知らない。ずっと僕を母さんだって言ってくる」
少年は怯えていた。
嘘をついている顔ではない。
女性が差し出した古い靴には、少年の名前が縫いつけてあった。
誕生日の絵も、背丈を記した柱の刻み目もある。
証拠を見せられても少年は首を振った。
「この絵を描いたことは覚えてる。でも、この人と一緒に描いたことは思い出せない」
オズマは心の中で線を引いた。
自分の治癒による忘却は、術者である自分に関する記憶だけだ。
これは違う。
母親という一人の人物に関する記憶が、周囲の出来事から切り抜かれている。
「最近、頭を打ったり、高い熱を出したりしたかい」
「ううん。でも昨日、北の井戸で水を飲んだ」
女性が顔を上げた。
「私も飲みました。何ともありません」
オズマは水だけで原因を決めつけなかった。
詰所の記録を借り、同じ訴えがないか確認する。
三日前には行商人が兄の顔を忘れ、昨日は老女が孫の名前を思い出せなくなっていた。
三人とも北門を通っていたが、共通する食事は見つからない。
「先生、治せますか」
母親が尋ねた。
「まだ原因が分かりません。むやみに魔法を使えば、私のことまで忘れさせます」
「私は、あの子に母親だと思い出してほしいだけなんです」
オズマは膝を折り、少年と目を合わせた。
「今すぐ信じなくていい。怖いなら距離を取ろう。ただ、この人は君を心配している。それは分かるね」
トビアスは少し考えてうなずいた。
「泣いてるから」
「そう。だから今日は、君が安心できる場所を一緒に探そう」
彼は母親に、思い出させようと無理に迫らないよう頼んだ。
記憶がなくても新しい関係は築ける。
自分が患者に何度もしてきたことだった。
午後、オルドとフェルが詰所に来た。
三人で少年の瞳孔、脈、手足の動き、言葉の理解を確かめる。
外傷や高熱の痕跡はない。
オルドは難しい顔で言った。
「これは記憶の病だとしても、私の知る病とは違う」
フェルは薄い青色の粉が少年の袖についているのに気づいた。
北門の石畳にも同じ粉が落ちていたという。
「工事の粉でしょうか」
「採取して調べよう。ただし、これが原因とはまだ言えない」
その日の夕方、オズマはトビアスの母親に一枚の紙を渡した。
『今日できたこと』と題した欄が七つある。
過去を問い詰める代わりに、毎日一つずつ新しい出来事を書くためのものだった。
「覚えていないことを責められると、あの子は自分の心まで疑うようになります。今日は一緒に食べたもの、明日は一緒に歩いた道。小さくても本人が選んだことを残してください」
母親は紙を抱きしめた。
「私、昔のあの子ばかり探していました」
オズマは静かに答えた。
「昔のトビアスも大切です。でも今、目の前にいる子も同じくらい大切です」
オズマは清潔な紙に粉を包んだ。
帰り際、トビアスが彼の袖を引いた。
「先生。僕、悪い子なのかな。母さんを忘れたから」
「悪い子じゃない。思い出せないことと、愛されていないことは違うよ」
「……僕も、あの人を好きになれる?」
「なれると思う。急がなくていい」
少年は女性を見た。
彼女は泣くのをやめ、少し離れた椅子に座って待っていた。
「明日、一緒に朝ご飯を食べてもいい?」
その問いに女性は声を詰まらせた。
「もちろん。何度でも」
北門の詰所には、もう一つ困った問題があった。
トビアスが母親の家へ帰るのを怖がっていたのだ。
知らない女性と一つ屋根の下で眠ることに、少年は納得できない。
衛兵は善意から「母親なんだから」と説得したが、少年はかえって椅子の下に隠れてしまった。
オズマは衛兵に少し席を外してもらい、トビアスへ尋ねた。
「今夜、どこなら安心して眠れそうだい」「ここ。兵隊さんがいるから」
オズマは母親を見た。
彼女は涙をこらえてうなずいた。
「じゃあ今夜は、詰所の隣の宿を借りましょう。私は隣の部屋にいます」
少年の肩から力が抜けた。
オズマは宿代の一部を預かり、サーラへ相談する手紙を書いた。
家族の絆を取り戻すために、まず安全な距離が必要なこともある。
翌朝、トビアスは宿の戸口から母親を呼んだ。
「パン、まだある?」
母親は笑いながら袋を掲げた。
その笑顔を見て、オズマは昨夜の決断が間違っていなかったと感じた。
オズマは記録の余白に、少年が自分から選んだことを三つ書いた。
母親の話を聞くこと、宿に泊まること、明日一緒に食事をすること。
忘れたことを数えるだけでは、その子が今できることを見落としてしまう。
彼は記録を閉じ、詰所の窓から親子を見送った。
母親は少年の一歩後ろを歩いていた。
追いつこうとせず、置いていかれない距離を守っていた。
オズマは窓の外を向いた。
記憶を取り戻せなくても、今日という日から始められるものがある。
治療院へ戻ると、ミウが紙の花を作っていた。
「お父さん、今日は誰を助けたの?」
「まだ誰も治していないよ。でも、親子が明日一緒に朝食を食べることになった」
「それ、いいことだね」
「ああ。とても」
詰所から帰る途中、オズマは北門の石段に腰を下ろした。
十年前、マリアとここを通ったことがある。
彼女は市場で買った赤い布を振り、「生まれてくる子の服にする」と笑った。
今でも布はミウの箱にある。
記憶は目に見えないが、人が暮らした痕跡は残る。
オズマは立ち上がり、家へ急いだ。
娘の夕飯の時間を逃すわけにはいかなかった。
夜、オズマは調査帳に三人の症状を並べた。
北門、親しい人物一人の記憶、青い粉。
共通点に丸をつけ、分からないことには疑問符を残す。
ミウが覗き込んだ。
「私のことも、誰かが忘れちゃうの?」
「今は分からない。だから調べるんだ」
北門の詰所に戻ると、少年は母の声を聞き分けられないまま、靴の泥を落としていた。
母親は「昔はこうだった」と言いかけて口を閉じる。
オズマは二人に、今夜だけの合図を提案した。
食卓に赤い布を敷いたら、互いに今日の出来事を一つ話す。
翌日、少年は布を自分で広げたという。
思い出せない昨日の代わりに、自分で選べる今日が一つ増えた。
衛兵が「少年を母親に引き渡した」と報告書に書こうとしたとき、オズマはその筆を止めた。
「引き渡しではありません。本人と母親が、明日の朝食を約束したんです」
小さな違いだと衛兵は言った。
オズマは首を振った。
「この子にとっては、誰と暮らすかを選べることが、今夜いちばん大切なんです」
衛兵は書き直した。
母親が隣室に泊まること、少年が同意したこと、明朝改めて相談すること。
記録の一行が変わるだけで、少年は物として扱われずに済む。
オズマは、自分が忘れられたときも誰かにこう書いてほしかったのだと気づいた。
「お父さんは、分からないってちゃんと言うね」
「分かったふりをして間違えると、誰かを傷つけるから」
翌朝、詰所の衛兵から短い報告が届いた。
トビアスは母親の顔を思い出していない。
それでも、パンを半分に割って彼女に渡したという。
オズマは「回復」と書きかけた筆を止め、「本人の選択による関係の再開」と書き直した。
病が治ったと偽る必要はない。
今日起きた小さな事実だけで、希望には十分な重さがあった。
詰所の出口でトビアスが振り返った。
「先生、あの人のことを思い出せなかったら、ずっと謝らなきゃいけない?」
オズマは首を振った。
「君が謝ることじゃない。君に起きたことを、一緒に調べる大人の仕事だ」
少年はようやく握り締めていた靴紐を放した。
母親はその手を取ろうとせず、隣に並んだ。
娘は赤い日記を取り出し、今日の出来事を書き始めた。
オズマも自分の帳面を開く。
二人が並んで文字を書く音だけが、小さな家に響いた。
翌朝、北門から短い知らせが届いた。
トビアスは母親と朝食を食べた。
昔のことは思い出せないが、パンの好みが同じだったと笑ったらしい。
オズマはその一行を何度も読んだ。
忘れられた過去を無理に取り戻すより、失われなかった今日を大切にする。
そう決めた矢先、報告書の末尾にもう一つの記載を見つけた。
『新たな患者、四名』。
事態は、静かに広がっていた。




