胡乱 - 3
本当に渋々といった態で寛生は帰って行った。とりあえず退いてくれたことに睦希はホッとする。二人は寝室のベッドに移動して、並んで座った。
「ごめんなさい。いつもはあんな失礼なことを言う人じゃないんです」
頭を下げて謝罪する睦希に、堤は静かに頷いた。
「君はまだ若いから、彼が心配するのも無理ないよ。でも、一緒に育った従兄って言った? 何か事情があって、どちらかが親元を離れたの?」
事件の生存者であるとはまだ話していない。過去が重いと捨てられたくないし、何よりも睦希自身が、それを話すことで事件を意識したくないのだ。
「俺には話せない隠し事なのか?」
言い淀む様子を見て、堤が問いを重ねる。睦希の心は揺れた。
「いえ、隠すつもりはないんです。でも話して思い出すのが怖いです」
強張った表情の睦希を眺め、堤は腕を取って自分の前に座らせ背後から抱く。両手がそれぞれ重ねられ、全身を守るような温かさと安堵感が睦希を包み込んだ。
「俺が一緒に居ると怖くないんだろ? さっき映画館で君はそう話してた。何があっても君のことは守るから、安心してほしい。それとも俺はまだ、君の全てを話すには値しない相手なのか?」
そんなことないと即座に否定した睦希は、呼吸を整えた後、静かに話し始める。他人に事件の話をするのは、これが初めてだ。いつもなら心の中に激しい恐怖が湧き起こるのに、今は堤の体温がそれを溶かしてくれている。
「私が小さかった頃に、一般家庭が襲われる連続殺人事件があったんです。堤さんもまだ小学生だったと思います。私の家もその事件に巻き込まれて、両親と姉が殺されて、私だけ隠れていたらしくて生き残りました。それで叔父さんが引き取ってくれて、寛ちゃんと一緒に育ったんです。彼がすごく心配性なのは、私が悪夢にうなされたり怖がっていたのをずっと見ていたので、必要以上に気に掛けてくれるんだと思います」
背後に座る堤の反応は睦希にはわからない。だが、両手に乗せられた彼の手が動き、繋ぐ形に組み替わる。事件のせいで捨てられるのではないかと不安に感じていた睦希は、その仕草で落ち着くことができた。
「その事件は覚えてる。確か犯人は死んだよな?」
「はい。最後の事件で自殺したって聞きました」
「そうか。よかった」
堤の声は落ち着いている。そして睦希の両手をやさしく握った。
「今も悪夢を見るの? 君は事件を目撃したのか?」
「悪夢はほんのたまにだけ。クローゼットに隠れていたらしくて何も見ていないし、それに事件の日から前の記憶がないんです。見る夢も暗闇の中でじっとしていて、遠くで怖い音がしているだけです」
伝えることで、睦希の中では悪夢が再現されてしまう。いつもならとても耐えられないのに、今は冷静に話すことができる。堤のおかげだと、睦希は後ろを振り返った。
「堤さん、まだ私と付き合ってくれますか? いつか迷惑を掛けてしまうかもしれません」
過去の事件ごと受け入れてくれと言うに等しいし、無理強いはできないと睦希もわかっている。だが、背後に座る堤はやわらかい表情だった。
「なぜその理由で、君と別れないといけないんだ? 君は大変な重荷を背負っているんだってわかったよ。でもだからこそ、俺がこれからも一緒に居るべきだろう?」
大人の包容力を感じて、固かった睦希の表情も緩む。堤は笑みを深めた。
「それに今迷惑なのは、君の過去じゃなくて、過保護な従兄の方だしね」
睦希を思ってか、冗談のように茶化す。睦希はそのやさしさに耐えられなくなり、涙が溢れる。泣き顔を隠そうと、また前を向いた。
「堤さんがもう要らないって言うまで、ずっとついて行きます」
寛生は酷い言葉で罵ったが、こんなにやさしい人にはきっともう出会えない。そして、いつも堤の声が睦希に安心を与えてくれるのだ。やっと過去を話せたこと、そして受け入れてもらえたことが、堪らなく嬉しかった。
「でもあの従兄が、お前をまるで自分の物だと言いたげな態度だったのは許せないな」
二人称がいきなり変わる。ついさっきまでの幸せな気持ちからの突然の変化で、睦希は心が追いつかない。
「え? 家族として心配しているだけだと思います」
「お前はそうでも、向こうはどうかな」
初めて見せる嫉妬だ。重ねて否定しようとした所で、堤の手が腕を掴んで引き、睦希をベッドに仰向けに転がす。上に乗り上げてきた堤の表情を見上げた睦希の視界には、先ほどまでのやさしさが消え去り、ホテルで暴力的に振る舞う時と同じ表情が見える。怖い時のスイッチが入ってしまったのかと、睦希の身体は強張った。
「私はもう堤さんの物です。心も身体も命も全部って言われた通りです」
「本心からそう思ってるのか? なら、俺から離れられないように先に進もう。俺の言いつけは全部守れるよな?」
何を求められるのかと、睦希の視線は不安げに揺れる。許しを乞う思いで見上げたが、堤の厳しい表情に変化はない。刺すような鋭い視線だった。
「絶対に声を出さないで、じっとしてるんだ。いいな?」
その命令が聞こえた瞬間、雷に打たれたような強い衝撃が睦希の身体を駆け抜けた。堤は今、何と言ったのか。心の奥底に幾重にも硬く固めた地面がヒビ割れ、そこから今まで感じたことがないほどの激しい不安が噴き出してくる。正体のわからない恐怖に心臓を鷲掴みされた感覚に襲われ、睦希は青ざめて唇を震わせる。いつもは堤の声が不安を取り除いてくれていた。それなのに今は逆だ。何が起きているのかわからず動揺していると、堤は睦希の頭をシーツに押さえつけ、頬に向かって平手を振り下ろした。
「――――ッ!」
いきなりの強い衝撃の中、それでも睦希は命令を守ろうと歯を食いしばる。堤は睦希を試すような監視の視線で、平手打ちを繰り返した。
「何も考えずに、俺の言うことだけを聞くんだ。そうすればお前は生き残れる。そうだっただろ? 睦希、思い出せ」
暗い影を帯びた声が聞こえ、両の乳房が強い力で鷲掴みにされる。痛みで零れそうになった悲鳴を必死に飲み込みながらも、睦希の不安は激しさを増すばかりだ。ここでもし声を出したら、どうなってしまうのか。恐ろしい漆黒の闇がすぐ背後に迫っていると実感する。堤を怖いと恐れ、そして同時に、この恐怖から救ってくれる唯一の人もまた堤なのだと、心の奥底から忠告が聞こえる。睦希は両腕を伸ばして堤に縋りついた。




