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鵺の呼ぶ声  作者: 松岡織


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搏影 - 3


 ドアが開いた音で、窓の外を眺めていた睦希は振り返る。体型と身体の動きのクセを隠すためのオーバーサイズのコートを着て、フードを黒いキャップの上から重ねて被ったマスク姿の不審な男が入って来ても、それが猛だと判っている睦希は、微笑んで歩み寄った。

「おかえりなさい。順調でしたか?」

「あぁ。あの便利屋、運転が上手かった」

 肩に掛けた荷物をカーペット敷きの床に置き、猛はコートとマスクを外す。『便利屋』という単語を聞いて、睦希は笑みを深めた。

 警察の捜査網を使って居場所を追うであろう寛生から、一体どうやって隠れるのかと、最初に話を聞いた時に睦希は不可能だと感じた。だが、猛が雇った便利屋という仕事の人たちが、他人の目に触れる役目を代行してくれたのだ。防犯カメラのない裏路地で荷台が覆われている軽トラに乗り込み、ホテルの地下駐車場に乗りつけた。チェックインも代行してもらい、睦希は荷台の中で大型のスーツケースの中に隠れ、地下から直接部屋までエレベーターで運んでもらう。まるでスパイ映画にでも出演しているようだった。

「便利屋さんは共犯で捕まらないんですか?」

「事情聴取はされるだろうな。DVが酷い親から助け出す駆け落ちと聞いていたって、突っぱねてもらうしかない。お前が自分から行動してたから、誘拐や拉致ではなかったって証言するんじゃないか?」

 冗談でも話すように笑い、猛は最後にキャップを取ってベッドの上に投げる。そして睦希の前に立って、両手を伸ばして手を握る。睦希も猛を見上げ、その手を握り返した。

「準備、全部終わったんですね?」

「終わった。最後に何か食べたいものはあるか? 宅配で頼もうか?」

「いえ、大丈夫。じゃあ私も準備しますね」

 睦希はもう一度、猛の手を強く握ってから離れる。洗面所まで進み、持参したメイク道具を鏡の前に広げる。その背後に立った猛は、鏡の中に映る睦希に話し掛けた。

「見ててもいいか?」

「えー、だめです。部屋で待っててください」

「生きて動いているお前のイメージを、しっかり目に焼き付けておきたいんだけどな」

 鏡に映る猛に視線を向けて、睦希は首を横に振る。

「メイク中は変顔になるので、そんなの記憶してほしくないです。見てたらやりませんよ?」

 いつになく強気な返事を聞いて、猛は笑って洗面所から出て行く。安心してメイクに取り掛かった睦希は、十分ほどで動かしていた手を止める。最後に鏡に映る顔を確認し、そして深く息を吸い込み、全身の力を抜くため一気に吐き出す。迷いはないかと鏡の中の自分に問い掛け、変わらぬ決心を確認する時間だ。それが終わると部屋へと戻り、猛が座るベッドに並んで腰を下ろした。

「私の準備も終わりました。猛さん……いつでも大丈夫ですよ」

 睦希は迷いのない目で猛を真っ直ぐに見つめる。むしろ視線が揺れたのは、猛の方だった。

 無言のまま長い()が空き、ようやく動き始めた猛は、二人の間にペットボトルの水を置く。

「睡眠導入剤だ。怖い思いをしないように、眠っている間に全てを終わらせる。飲んでくれ」

 指先で摘まれた錠剤が差し出されると、睦希は両手で皿を作って受け取る。それを口に含んで水で飲み込む様子を、猛はじっと見つめている。睦希が蓋を締めたペットボトルをベッドに戻すと、二人はどちらからともなく、互いの身体を抱く。睦希は今終えたばかりのメイクが崩れないよう、猛の肩に顎を乗せ両手を背中に回した。

「怖くないのか?」

 改めて問う声が聞こえると、睦希の唇には静かな笑みが浮かぶ。

「怖くないですよ。心も身体も命も、全部猛さんに預けましたから」

 全てを委ねる決意を受け入れて、猛は睦希を強く抱き締め直す。そして小さく笑った。

「ゴリラは旅行って話を信じたかな。それとも今頃、必死に探してるのかな」

 猛の笑みに同調した睦希も、吐息だけの笑い声を漏らす。

「ちゃんと謝ってくださいね」

「謝っても許さないだろ。今度こそぶっ殺されるんじゃないか?」

 その口調はどこか楽しげだったが、先程から、背中に回した手のひらを通して、猛の身体が震えているのを睦希は感じ取っている。だがそれを指摘するつもりなどなく、素知らぬ振りで会話を続けた。

「武史さんは? 止められなく行かれそうですか?」

「外が見えない部屋に押し込めたから大丈夫だと思う。お前が力をくれたおかげで、今は俺の方が強いから。自力では出られないはずだ」

「じゃあ、誰にも邪魔されずに終わらせられますね」

 睦希が結論のように発した言葉を聞いて、猛は唇を噛み締める。身体の震えは止めようとしても止まってはくれず、落ち着こうと何度も深い息を吐く。状態を察した睦希が両腕を動かして猛を包み込むように抱き直し、背中をやわらかく撫でた。

「大丈夫。猛さんなら、絶対にやり遂げられます。全部終わらせて、自由になってください」

 暗示を掛けるような声で睦希は語り掛ける。二人は互いの心音に耳を傾け、命あるものだけが持つことを許されている温かさを、肌を通して感じている。十五分が経過する頃から睦希の手は不規則に動きを止めることが増え、二十分を過ぎた時にはその力を失う。呼吸が変わったと悟った猛は、睦希をベッドに横たえる。いつの間にか身体の震えは止まっていたが、まだ指先は彼女の体温を求めていた。


 着衣を全て脱がせ、抱き上げて浴室に運ぶ。そして空の浴槽の中にそっと寝かせた。続いて必要な道具を一つひとつ運んで浴室の床に並べている間、猛の顔からはもう表情が消えている。全ての準備を終えると、防護服を思わせる全身を覆うビニールのスーツを取り出して、自ら纏う。最後にスライダーを使って薄暗くなるまで浴室の照明を落とした。

 瞼を閉じて心の中に存在する空間へと潜っていく。健常者には存在しないらしいその空間で、自分たち四人は命を共有しているのだ。一番深い闇の底まで降りて頑丈な扉に手を掛けると、突然頭の中に武史の声が響いた。

『猛! そこで何をしてるんだ!』

 さすがにこの扉に触れると気配が伝わってしまうらしい。猛の手は反射的にその動きを止めた。

「大丈夫だ。俺なら、やり遂げられる」

 睦希の言葉を借りて、(おのれ)を奮い立たせる。そして扉を睨みつけ、勢いをつけて大きく開いた。

「おいっ、起きろっ! お前がモタモタしてるから、俺が代わりに、あの時逃したガキを手に入れてきてやった! さぁ、最後の儀式を始めるぞっ!」

 犯行時の父親を真似た異様にハイテンションな猛の怒鳴り声を聞いて、部屋の奥で(うずくま)っていた人影が揺れる。『猛っ、今すぐ扉を閉めろ!』と叫ぶ武史の切羽詰まった声と、少年の怯えた泣き声が空間に響く。だが猛は二人には耳を貸さず、外に出ようと動き始めた人影だけに、意識を集中させた。


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