搏影 - 1
その日寛生が帰宅すると、まだ部屋が真っ暗だった。通常なら堤が帰っている時間だと思いながら灯りを点けると、ダイニングテーブルの上に今朝はなかったメモが置かれている。睦希の筆跡で、猛と二人で旅行に行ってくると記されてあった。
「はぁっ?」
寛生は素で驚いてしまい、思わず声が出る。そんな素振りは全くなかったし、旅行なら何故黙って出掛けたのか。反対されると思ったのだろうか。確かに反対したかもしれないが、だからと言って、この仕打ちはあんまりではないか。
冷蔵庫から缶ビールを出し、がらんとしたキッチンで独り飲み始める。念のため、武史の勤務先にも電話を入れたが、繁忙期以外は十七時に閉まる事務所は誰も出ない。そちらの確認は明日に回すことにして、スマホから睦希にメッセージを送った。
『メモを見た。今どこに居るのか、至急連絡をくれ』
怒りが滲む文面だが、睦希もそれは覚悟の上だろう。そのまま送信して、また缶ビールに手を伸ばす。これも猛が力を得るための行動の一部なのだろうか。そして旅費はどうしたのか。まさかまた、軍資金を使って遊んでいるのだろうか。寛生は返事を期待してスマホを上向きに置いたが、日付が変わっても何の通知も届かなかった。
翌朝、寛生は目を覚ました瞬間にスマホを確認したが、やはり睦希からの返信はない。百歩譲って、反対されるであろう旅行に黙って出掛けたことは許そうと思う。だが、その後も連絡すら寄越さないとは、一体どういうことなのか。そんな娘に育てた覚えはないと、父親の立場に立った怒りを覚える。堤に関わることなので、石川に現状を伝えるメールを入れた後、寛生は登庁する前に武史が勤める会計事務所に向かった。
身元保証人になった時に挨拶を終えている所長が、応接室に案内してくれる。寛生はすぐに用件を切り出した。
「仰るように昨日から休みに入ってますよ。どうかしたんですか?」
メンタルにトラブルを抱える患者の支援をしている所長は心配そうな表情を見せたが、寛生にとって心配なのは堤ではなく睦希だ。
「居場所を把握したいんです。どこに旅行に行くとか、話していませんでしたか?」
「え、旅行? いや、私には短期で入院すると言ってましたよ。状態が悪くなっているのかと心配してたんですが」
困惑した所長の表情を見た時、寛生は何か言いようの無い不安を感じる。
「いや、俺は聞いてないですが。あの、それを伝えて来たのは、どの人格だったかわかりませんか?」
支援者である所長は、堤の病状は理解している。今、睦希を連れて行動しているのは、おそらく猛だろう。あれだけ武史に悟られないよう気を使っていたことを思えば、休みの申請をしたのも猛ではないか。所長は記憶を辿る時間を取った後に、首を横に振った。
「以前外で偶然会って立ち話をしたことがあって、翌日その話をしたら、武史くんはそれは自分ではないと言って笑っていたこともありました。同じ身体でただでさえ判別が難しいのに、演技までされると、もうわかりませんよ」
所長の言うことは尤もだし、寛生も区別がついているとは言い難い。だが、これが猛主導だと仮定した場合、単なる旅行ではないと疑いが増している。猛は睦希を巻き込んで、一体何をするつもりなのか。礼を伝えて事務所を出ると、寛生の足はマンションへとUターンした。
玄関のドアを閉めると真っ直ぐ睦希の部屋へと向かう。普段は入らないようにしている部屋は、睦希の性格を映す鏡のように、キレイに整頓されている。確信に近い予感を抱いている寛生は、遠慮なく机の引き出しを開く。中に収まっている物を一つずつ確認していると、奥の方に隠すように仕舞われているスマホを発見し衝撃を受ける。画面を連打しても何も表示されない状態を見るに、電源が切られている。これでは、一晩経っても返事が来ないのも当然だ。睦希のスマホを机の上に置いた寛生は、次に猛の部屋に飛び込む。ここでも武史が使っているスマホが、同じように電源を切られて隠してあるのが見つかった。
令状を取ればキャリアからGPSの位置情報を取れることを知っているのだろう。猛が別のスマホを持っているかどうか、確認してなかったのが悔やまれる。そして、これは猛単独の行動なのか、それとも武史も協力しているのか。もしくは武史少年が背後に居るのか。寛生の脳内では、今の慌てた心情さながらに、様々なことが同時多発的に浮かび上がる。動揺した頭で考えても、頭脳派の堤の人格たちに太刀打ちできないだろう。寛生はキッチンに戻って、冷静に考えようとダイニングテーブルの上にノートを広げた。
まず、これは単なる旅行ではなく失踪だと、それを大前提に据える。そして次に行き先を考えた。堤に縁がある場所と言えば桐生しか思い浮かばない。遠藤に電話を掛け、戻っていないか尋ねる。遠藤の答はノーだった。堤寄りの遠藤なので、匿っている可能性も頭を過ったが、あの不器用で実直な男が上手い演技をするとは思えず、その口ぶりから真実なのだろうと判断する。
睦希を連れて行く場所として次に思い浮かんだのが、叔父一家が被害に遭った睦希の生家。だがここは、既に売却されて一度更地になったので、当時の家はもう残っていないため候補から落とす。行き先から考えても、漠然としていてすぐに行き詰まる。寛生は頭を掻きむしりながら、別のルートがないかと考え始めた。
今行動している堤は、武史なのか猛なのかに立ち戻る。特別捜査本部を翻弄した武史なら、寛生の追尾を許さないことなどお手の物なのだろうが、今何か事を起こす動機も目的も見当たらない。『使徒の役目は終わった』『もう人を殺す方法なんて考えない』と言い、山本と大崎の存在を知りながらも放置していたことを思えば、今、何かするだろうか。成長した武史は、他人ではなく自分を消すことで、残された問題を解決しようとしていたではないか。
武史の可能性を否定した寛生の頭に、猛の目標である『ケリ』が浮かぶ。『ケリ』とは何を指しているのか、今こそ知りたい。警察の捜査は終わっても、猛は残された問題にケリを着けることを止めないだろう。この失踪は、やはり猛がやっているミッションに違いないと改めて思う。
寛生はノートに『ケリ』と書いて丸で囲む。それを見つめながら、未だ収束できていない問題点に意識を向ける。当然、サードの存在が最初に思い浮かんだ。
一度立ち上がり、換気扇の下で煙草に火を着ける。深く煙を吸い込んで吐き出しながらも、心は煙草には在らず、ずっと考え続けている。睦希を殺す言いつけを果たすために存在し続けているサード。武史はどうしても消せないと言って、最終手段の自殺を試みた。それほどまでに強い信念を持った人格なのに、猛は何か解決方法を見つけたのだろうか。
視界に映る煙草の先端で灰が長くなっている。無意識な習慣行動で灰皿へと落としたが、その間も寛生の意識はずっと猛を追っている。解離性同一性障害の人格たちにはそれぞれ存在理由があるという説明を思い出す。逆を言えば、存在理由が無くなれば消えるのだろうか。ふと浮かんだ発想に寛生は自分で驚いてしまい、身震いをした。
「いや、待てって。それは睦希を儀式に掛けるってことだろ。それはないだろ。だって、猛は……睦希が必要だし、好き……なんだろ?」
思わず心の声が外に漏れる。だが頭は高速で回転していた。猛は本当に睦希が好きなのだろうか。力が強くなるために睦希の愛情が必要だと話していたが、それだけなのか。
寛生の胸中には激しい不安が津波にように押し寄せている。猛は睦希を贄として差し出すことで、サードを消そうとしているのではないか ―― そう考えた時に、パズルがピタッと嵌った感覚が寛生を襲う。煙草を消す手がブルブルと震えた。
途中で何度も、武史と猛のどちらが信用に足るのか迷っていたはずが、いつの間にか、睦希を好きな猛は安全だと信じてしまっていたし、情に厚い性格だと好感すら持ち始めていた。思い返せば、猛は『兄貴を信用するな』と武史への不信感を植え付ける発言を繰り返し、寛生と武史を分断していたようにも思える。堤兄弟に関わった人々が揃って彼らに好意的になっていくのを見ていたのに、なぜ同じ失敗をしてしまったのか。
「くっそっ!」
自らの浅慮に悪態をつき、寛生は広げたノートを鞄に押し込んで、急いで部屋を出る。タクシーを拾い、行き先を『桜田門』と告げた。




