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鵺の呼ぶ声  作者: 松岡織


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顕露 - 5


 寛生が診察室に戻ると、コーヒーの香りが漂っていた。石川と吉行はカップを手に渋い表情を浮かべている。

「今日はやっちゃったわ。猛はまだ怒ってた?」

「あの様子なら、おそらく大丈夫だと思います」

 空席にもカップが置かれているので、寛生はそこに腰を下ろす。疲れた脳にコーヒーの香りと苦味が沁みる。だがここでまったりしていても仕方がない。使徒と呼ばれた若い男の介入があったとハッキリしたのだから、すぐにでも捜査を始めたい。寛生は鞄の中からノートを取り出して、テーブルの上に広げた。

「石川部長、当時も指示役の存在を疑って、狩谷の周辺に居た人間を捜査しましたよね? 調書を読んでも疑わしい該当者は見当たらなかったと記載がありましたけど、その状況を詳しく教えてもらえませんか?」

 寛生が尋ねると、石川は持っていたコーヒーカップを置いて話し始める。トンネル工事の同僚の捜査で一番の障壁となったのは、狩谷たち少年院退院者の雇用元が、俗に言う日雇い労働者の派遣会社で、犯人が狩谷だとわかった時には既に倒産していたことだった。誰が狩谷と一緒に働いた経験があるのか、いつからいつまでどこに居たのかなど、捜査に必要な情報が圧倒的に足りない。当時の特別捜査本部もかなりの人数を投入して調べたが、同僚の中には、また犯罪に手を染めて一般社会から落ちてしまった者もいて、網羅できていなかった。

「判っている範囲で、事件当時四十二歳の狩谷より若かった同僚は二人居た。だが、一人はスジモンになって事件前に収監されていた。もう一人は境界知能……軽度の知的障害を持っていたから、あんな計画は立てられない」

 少年院に送られる五人に一人はこの境界知能対象者だ。どこかで聞いた知識を思い出した寛生は、石川の説明に納得する。

「あとは少年院で出会った仲間の中に居るかどうかですね。でもそっちは少年人格が会った使徒とは年齢が合わない」

 当時と同様に、狩谷周辺の捜査はすぐに行き詰まる。石川は渋い表情を浮かべた。

「吉行先生。あの子ども人格の証言には、どの程度の信憑性があるんですか? 顔が思い出せないのに若い男だと断言したと思ったら、発作を起こしたり。健常者の証言と同レベルと捉えても問題ないんでしょうか」

 問われた吉行は視線を天井に向けて考える。時間を空けてやっと石川に視線を戻した。

「正直言うと、私にもわからない。あの子が主人格で、彼を守るために武史も猛も存在しているという構造は、あの病気の症例にキレイに当て嵌まってる。つまり守られなくては存在が難しい程、今も病状が深刻なんでしょうね。でも……指示役が居たと、初めて事件関係者から聞くことはできた。今日の一番の収穫はそれね」

 小さな一歩に過ぎない成果だが、石川と寛生は深く頷いて同意する。大きな成果にするには、その指示役の特定が必要だ。寛生はどこかにヒントが埋まっていないか考える。

「神様とか使徒とか、狩谷の妄想は宗教色がやけに強いと思うんですが、キリスト教? の信者だったんですか? 調書に記載はなかったですよね」

 両親が薬物中毒で、本人も発達障害だった狩谷と宗教は距離が遠い。だが、石川からすぐに返答があった。

「狩谷が入っていた少年院は、クリスマス会に牧師を呼んで聖書の話をする習慣があったし、メンタルケアを目的に牧師が定期的に訪問もしていた。その度に狩谷は希望を出して、懺悔をしていたと記録にある。キリスト教の教えを理解していたかどうかは怪しいが、いくつかの単語を使ったとしてもおかしくはない」

 先ほどの『神童』と同じ流れだと寛生は納得する。記憶に残ったキーワードが、発病時に自己解釈で歪められてしまったのだろう。

 そこで三人の間には手詰まり感が漂う。明日からもう一度、手掛かりを探して調書を見直すと寛生が伝えると、石川は頷く。

「調書とは別に、何も掴めなかったものも含めた全捜査記録が保管してある。当時はそこからは何も発見されなかったが、お前の視点でもう一度精査してくれ」

 今できることはそれしかない。寛生が承諾の返事をしてこの場は解散となった。


 翌日から捜査資料を隅々まで洗い直す。石川は捜査員のメモに至るまで全て、膨大な量の段ボールを保管していた。それら全てに目を通すにはかなりの時間が必要で、寛生は毎晩終電近くまで警視庁に留まっている。

 猛の行動確認は調査会社が全て補い、報告によると一度も外出していない。睦希と二人きりだが、少年のカウンセリングを通して、猛は信頼に値すると寛生は判断していた。

 数日掛けて資料を全て読み終える。それでもやはり、寛生の目には何も引っ掛からない。堤たちの存在が判明して当時と今では情報量も違うし、新しい視点で読み直せば何か糸口が見つかるのではと期待したが、それは全て徒労に終わってしまった。最後の段ボールを閉じた寛生は、資料の中に突破口はないと判断し、倉庫から出て駅に向かう。夕方の通勤ラッシュが始まる前の時間。今なら山本の仕事が終わる前に、勤め先のマンションに辿り着けるだろう。彼が何かのヒントを持っていることを祈るしかなかった。

 コーヒーと煙草を手土産に管理人室を訪ねると、山本は嬉しそうに出迎える。前回同様パーテーションの奥に並んで、煙草に火を着けた。

「山本さん。この間はトボけて申し訳なかったんですが、俺はまだ狩谷事件について調べてるんです」

 単刀直入に寛生が切り出すと、リラックスしていた山本の表情が一気に緊張を帯びた。

「えっ、あ……そうなんですか? でも、一体何を? あの事件は、狩谷が死んで終わったんじゃないんですか?」

 戸惑った様子で、山本は頻繁に煙草の灰を落とし始める。この男は追い詰めると精神のバランスを崩しやすい。初回の取調べ時に痛感した寛生は、安心させようと笑い掛けた。

「正式には終わってるんですけど、狩谷が自害してしまったので、判明していないことも残されてるんです。そこをまだしつこく解明しています。これ、窓際の仕事なんですけどね。俺、前の職場でちょっとポカやっちゃって、お仕置き中なんですよ。よく映画やドラマで、閑職に飛ばされてるデカが居ますよね? アレです」

 寛生がついた嘘のおかげで、山本の口元には安心した笑みが浮かんだ。

「あんな昔の事件を調べるなんて大変ですね。今更もう、新しいことなんて出てこないでしょ?」

 山本の返しに、寛生は笑って見せる。ちょうど煙草が短くなった二人は順に灰皿で消し、寛生はコーヒーを置いたテーブルに誘う。紙のカップを手に向かい合って座った。

「どうやら狩谷に指示を出していた男が居たらしいんですよ。交流範囲から考えて、トンネル工事のどこかの現場で一緒だった可能性が高いと考えています」

 自分にも関係がある話だと悟った山本の表情がまた強張る。寛生の話の真偽を探るように(いぶか)しげな視線を向けて、黙って聞いている。

「工事チームは現場ごとにメンバーが替わっていたそうですが、山本さんと狩谷は一緒に居ることが多かったですよね。当時の証言では、五箇所の現場で同じチームだったとお話しされてましたね」

「それは……あいつの教育係だったから、最初の頃はずっと同じチームに居ましたけど。でも独り立ちしてからは、分かれることも多かったんで……」

 口調から歯切れの良さが消え、ごにょごにょと誤魔化す語尾が増えてくる。警察の追及から逃げたくなっているのだと感じた寛生は、作戦を変えた。

「もう山本さんしか頼れる人が居なくて。狩谷と関わりが深かった同僚に心当たりはありませんか? おそらく狩谷より若い男だと思うんですが」

 自分が疑われているわけではないと理解した山本は、ホッとした表情に戻る。『狩谷より若い男』と呟きながら、眉間に皺を寄せてコーヒーに口をつける。寛生は急かさずに記憶が蘇るのを待った。

 山本は二人の男の名前を挙げたが、共に石川が捜査線上から消した男たちだ。年齢制限を外して再び問い(ただ)しても、計画を練るに相応(ふさわ)しい人物の影が見当たらない。ここもまた行き止まりなのだろうかと感じた寛生だが、ここで諦めたら八方塞がりだと粘り続ける。

「ところで、何か宗教を信じていた人って居ましたか? 例えばキリスト教とか」

「宗教? いや、そんな難しい話は俺たちには縁がないですよ。年少で坊主や牧師の話を聞いたことはありましたけど、俺なんかは何を言ってるのかもサッパリで」

 自嘲の笑みを浮かべて、山本は否定の意味で手を横に振っている。現場で儀式が行われたことを警察は一切外に出さなかったので、報道以上の情報を持たない山本が、事件の宗教色の強さを知らないのは当然か。寛生は困ったフリをして息を吐いた。

「そうですか。あの、山本さん。じゃあ『使徒』って名前を聞いたことはありませんか?」

 これが最後の切り札だ。何も反応がないなら、これ以上掘っても無駄だろう。寛生は何ひとつ見逃すまいと、山本の反応を凝視している。彼の腕がピクッと揺れ、目線が落ち着きなく左右に揺れた。


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