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鵺の呼ぶ声  作者: 松岡織


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顕露 - 4


「神様の使徒という人が、お父さんの所に来るようになりました。あの……さっきあなたは、病気の妄想だって言ったけど、それなら、使徒が来たのは変じゃないですか? 他にも信じている人が居たんだから、妄想じゃなくて、やっぱり宗教だったんじゃないですか?」

 頭の回転が速い少年が矛盾点を突く。指摘された吉行は真剣な表情を浮かべて、頷く同調の演技をした。

「本当ね。私が間違っていたわ。私たちが知らないだけで、危険な宗教があるのかも。ちゃんと警察に調べてもらうべきだわ。その使徒って、どんな人だった?」

 吉行がついに指示役の特定に続く話題に踏み込んでいく。寛生と石川に緊張が走る中、少年は言葉を探す表情を浮かべた。

「名前は知りません。お父さんも名前は呼びませんでした」

「分かる範囲で大丈夫よ。男の人なのよね? 年はいくつくらいだった?」

「うん。男の人。年はわからないけど……おじさんじゃなくてお兄さん」

 この証言を聞いて、寛生は心の底から安堵した。これでもう、堤が指示役だったのではないかと疑わずに済む。肩の荷が降りた気分だった。

「若い男の人ね。あなたは会ったことがあるの? 顔や身体に、何か特徴はなかったかしら。誰かに似てるとか」

 詳細を尋ねられると、少年は下を向いて考え始める。右手が額に伸びて記憶を辿っているが、先ほどまでとは様子が異なり、苦悩の表情が浮かんでいる。

「会ったことはあります。使徒は俺がやるから、お前はもういいって言われたんです。あれ、でも……どうしてだろう。そこだけ暗くなってて……見たことある筈なのに、顔がはっきりと思い出せない。あの、この話、やめてもいいですか? なんだかすごく怖くて、思い出したらいけないんだと思う」

 少年の声は苦しげな呻き声に変化している。明らかに異変が起きていた。

「一度深呼吸しましょうか。落ち着いたら、使徒の顔を思い出せるかもしれないわ」

 吉行が促したが、少年は両手で頭を抱え、傍から見てもわかるほど、身体を震わせている。過呼吸の苦しげな呼吸音が聞こえ、発作を起こしていた。

「使徒が来てくれた時、ぼく、良かったって思った。これでもう、生贄を捧げる方法を考えろって言われない。殴られないし、戦いに行かなくていい。ぼくも殺されないって、本当に嬉しかった……なのに、どうしてか、口の中に何だかわからない生のお肉が入ってて、血の味がする。なんでっ! ぼくも心臓を食べたの?」

 譫言(うわごと)のような呟きが事件の生々しさを伝え、少年は自分の口の中に指を入れて、ありもしない肉を取り出そうとしている。寛生が絶句して凝視していると、突然糸が切れた人形のように、少年はテーブルの上に倒れ込む。三人は揃って腰を上げたが、失神したと思われた少年の腕がスッと上がって、駆け寄ろうとする動きを止めた。

「来るな。そして黙ってろ」

 聞こえてきた声は猛のものだ。両腕を胸の前で回し、自分自身を抱きしめる形を取る。そして身体を揺らし始めた。

「落ち着け。悪い夢を見ただけで、食べてないから安心しろ。ずっと俺が守ってやってただろ? お前は誰の心臓も食べてないし、血も飲んでない。俺を信じろ」

 腕の中の赤ん坊をあやすように、猛は静かに語り掛けている。それは異様な光景で、三人は言葉を失って、ただ見守っている。やがて落ち着いたのか、猛の両腕が身体から離れる。そして疲れた様子で背もたれに上体を預け、身体の奥底から深い息を吐き出した。

「……パニックを起こしたから引っ込めた。今日は危険かもしれないと思って、監視してて正解だった。おい、病気の子どもを追い詰めるなんて、あんた最低だな。手前に危険な兆候があっただろ? 推理ごっこがそんなに楽しいんなら、医者なんか辞めろ」

 吉行を睨みつけ猛が責め立てる。三人は揃って、浮かせていた腰をイスに戻した。

「ごめんなさい、判断が遅れました。人格が乖離する原因の、一番強いトラウマに踏み込んでいたのに、私の配慮が足りなかったわ」

 素直に批判を受け入れて吉行は謝罪する。猛はそれ以上追い討ちを掛けることなく、少年に出されていた紅茶のカップに手を伸ばす。すっかり冷めているだろうそれを、一気に飲み干した。

「武史少年は、人格が分かれているとは理解していないのね?」

 いつもよりやわらかい声で吉行が問い掛ける。会話を拒絶するかと思われた猛だが、睨みつけながらも、それでも頷く。会話の細い糸が通じているのを見て、石川が席を立ち、猛と同じテーブルに着いた。

「被害者の心臓を食べていたのは、狩谷だけじゃなかったのか」

 石川はいつもの厳しい口調ではなく、静かで重い声だ。猛は一瞥した後にまた視線を外した。

「そのために同行させられてたんだ。食べずに許されるはずがないだろう?」

 深い闇の底から響く声が答える。寛生は今日聞いた話に、心を抉られる思いだ。妄想に取り憑かれた父親に連れ去られ、連続殺人に加担するか死ぬかの選択を迫られる。捜査員でさえトラウマを負った、あの陰惨な現場で起きたこと全てを目撃し、人肉を食べることまで強要される。どう考えても、小学生だった堤の心が耐えられるキャパを超えている。寛生は今初めて、堤は完全に被害者なのだと心の底から納得している。心が割れてしまったのも、当然の結果だろう。

 そして割れた心から生み出された人格たちを思うと、そこにもやり切れなさを覚える。猛も武史も、この不安定な少年を守るためだけに存在し、それぞれの役割を背負っていると言うのか。

 寛生の感傷など知らない石川は話を続けている。

「残念ながら、使徒と呼ばれた若い男について深く聞くことができなかった。お前が知ってることを、どんな些細なことでも良いから、話してくれ」

「だからわからないってこの間言っただろ。俺はそういう担当じゃなかったんだよ。ガキの代わりに殴られて、ヤツの心が壊れそうになる度に、さっきみたいにお守りをするのが俺の役割だ。難しい話には呼ばれないんだよ」

 自嘲を浮かべて猛が肩を竦めると、吉行がその話題に口を挟んだ。

「虐待を受けた子どもが、暴力を受ける人格を切り離すことは、解離性同一性障害の典型的な事例だわ。一番損な役割をあなたが担当したのね」

 吉行の声には同情が滲むが、猛は彼女との会話を拒絶してしまったのか、何の反応も返さない。代わりに石川が会話を引き継いだ。

「お前の兄なら、使徒を知っているのか?」

「さぁね。直接聞いてくれ。でも兄貴はもうカウンセリングには出ないし、話をする気もなさそうだけど。俺も、今日みたいな危ないことが起こるなら、もうガキは出せないな」

 武史少年とのアクセスを切られてしまうことは、警察サイドとしては絶対に避けたい。吉行は神妙な面持ちで頭を下げた。

「本当に反省しているわ。次にまたやらせてもらえるなら、その時はこちらからの質問はしないで、武史くんが自発的に話せる範囲で終わらせるって約束します」

 謝罪の言葉を最後まで聞いて、猛はやっとそれを受け入れた様子で頷いた。

「帰らせてもらう」

 話は終わりだと、猛が腰を上げる。外に向かって歩き出すのを見て寛生も出ようとしたが、石川がそれを止める。

「お前は残れ」

「は……い。じゃあタクシーに乗せて来ます」

 今の猛を一人で帰したくない。寛生は彼の背中を追って外に出る。猛は寛生の存在など無視して歩き出していた。

「おい、車で帰れよ。金は出すから。終電が近いし、きっと混んでるぞ」

 車の誘惑は大きかったらしく、猛は足を止めて振り返る。

「流しのタクシーを拾うなら、駅よりこっちの方が良い」

 駅に向かう大通りの方向を指差して歩き出すと、方向転換してついてくる。人通りが少なくなった夜中の住宅街を、二人は並んで歩いた。

「今日は大失態もあったけどさ、でも俺は、指示役が大人の男だってわかって、本当に安心したよ」

 会話が可能な関係に戻ることを期待して、寛生は話し掛ける。猛が視線を向けたのが、街灯の灯りで照らし出される。反応があることが嬉しかった。

「なんであんたが安心するのか、意味がわからないな」

「そうか? 子どもだったお前たちが父親に脅されて計画を立てるなんて、そんなことはいくらなんでも残酷過ぎる。そこだけでも逃げられて、本当に良かったよ」

 理由を伝えても猛は無言だ。視線を前に戻し、歩調を合わせて黙って歩いている。やっと回復した会話を、寛生はまだ切りたくなかった。

「俺は心のどこかで、お前たちの誰かが指示役なんじゃないかって疑いが、ずっと晴れなかったんだ。そのせいで、あんな暴言を吐いてしまった。でも今日の話を聞いて、少年法とか関係なく、お前たちは本当に被害者なんだって、やっとわかったよ。この間は申し訳なかった」

 改めて詫びる気持ちを伝えても、猛はスルーだ。やがて大通りまで辿り着くと、サッサと車道に近づいて手を挙げている。寛生が財布から出した万札を差し出すと、猛は寛生の顔を見ながら受け取る。何も言葉はなかったが、その表情は、今夜ここに来る時にはまだ残っていた怒りの色が、消えているように見えた。


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