顕露 - 1
猛はふらっと出掛けるようになった。夜の八時を過ぎた頃、ラフな服装に着替えて一人で家を出る。初日は突然のことで、寛生は慌てて着替えて追い掛けたが、見失ってしまった。
捜査員失格だと猛省し、翌日から外に出られる服装を家でも保つ。また日によっては、マンションの外に張り込んで猛が出てくるのを待つ行動にシフトする。おかげで次の外出日には、無事に背後を取ることができた。
新宿まで電車に乗り、猛は歌舞伎町へと向かう。こんな所に一体何の用があるのかと不審に思いながらついて行くと、大型の雑居ビルの前で足を止める。そして色とりどりのネオンに彩られた入口へと入って行った。
キャバクラや風俗店の可能性もあるが、入らないわけにはいかない。入口で入場料を払い、成人済みの身分証明書として運転免許証を提示すると、店内に進むことができた。
暗い店内を高速で駆け回るスポットライト、大音量の音楽とDJに合わせて踊る人々。クラブだったのかと納得しながら、寛生は店内を観察する。平日なのに店は混んでいた。灯りが乏しいこの環境で、猛を見つけられるのか。楽しむフリをして店内を歩き回ると、ダンスフロアから離れたラウンジバーに、見慣れた背中を発見した。
一人ではない。隣に座る若い男と話をしている。一度背後を横切ってみたが、音楽に邪魔されて二人の会話は聞き取れない。相手の男の外見は普通の二十代、しかも少々野暮ったい。知り合いなのだろうか。武史には仕事で繋がりのある知人は居るだろうが、猛の交友関係を寛生は把握していない。
十五分ほどの会話を終えて、猛は一人立ち上がってそのまま店から出て行ってしまう。話していた男の素性も洗いたいが、猛をフリーにするわけにもいかず、諦めるしかない。身体が二つ欲しかった。
結局その後、猛はどこにも寄り道することなく帰宅した。ならば、あっちの男を追えば良かったと悔しい思いをした寛生だが、後の祭りだ。翌日石川に相談すると、尾行の補助に調査会社をつけると言い出した。
「なぜ民間を入れるんですか?」
そんなことは異例だ。疑問を感じた寛生が問い詰めると、石川はいつもの片口端だけを上げる笑みを浮かべた。
「身内を入れるなら、捜査内容を共有する必要がある。対象は誰で、何を調べているのか。容疑は何なのか。狩谷事件の共犯を捜査していることは、警視総監直下のマル秘ミッションだ。お前以外の捜査員は付けられない。民間と言っても、警察OBがやってる会社に頼むから、口は固いし、何も詮索しないでやってくれる」
その言い方から、公安では依頼実績があるのだろう。この一連の捜査は、警察官の職務規定に反する違法捜査だらけだ。身内の寛生が捜査していること、監視のために被疑者と同居していること、どちらも通常捜査なら大問題になるだろう。その上、堤は少年法に守られていて、刑法では裁けない。今後成果に結びつける可能性は、指示役を見つけ、そして有罪の証拠を固めて裁判に勝てた時だけだ。富樫警視総監、石川、そして吉行の、三人の執念が真相を求めているだけの継続捜査に過ぎない。だが、寛生としても今更職務規定に準じようとは思っていない。石川の提案を受け入れた。
尾行が二人体制になったおかげで、かなり楽になる。初日に身元を掴めなかった若い男と猛は、数日後にまた会同する。今度はクラブではなく、新宿駅で待ち合わせた後カラオケボックスに入る。探偵事務所のメンバーと一緒に後を追い、警察手帳を出して隣の部屋を取ることに成功した。
「コンクリートマイクを持ってますよ。使いましょう」
ありがたいことに、探偵のマストアイテムの一つである盗聴道具を持参してくれたようだ。こういうところは彼らの強みだ。すぐに準備を終えて、大型の聴診器に似た道具を壁に当てる。録音とは別に、リアルタイムで聴くためのイヤフォンは寛生に手渡された。
研修を受けたことがあるので、寛生も使い方は理解している。少しずつ聴診器の位置を変え、イコライザで雑音を消す調整をしながらベストポジションを探る。コンクリートマイクは振動から壁の向こうの音を聞き取る構造で、騒がしい環境下でも問題なく機能してくれるのだ。
『オーダーのイメージは把握できたんで、大丈夫です』
突然イヤフォンに男の声が飛び込んでくる。初めて聞く声なので、連れの男だろう。寛生は聞こえたと、探偵の男にジェスチャーを送った。
『完成までどのくらい掛かる?』
今度は聞き慣れた猛の声だ。
『そうだなぁ……造りが細かいから……ひと月と想定しておいてください。途中で進行の連絡を入れますよ』
『了解。じゃあ約束通り、今ここで半額払う』
オーダーメイドで何かを依頼しているやり取りに聞こえる。一体何をと寛生は眉間に皺を寄せる。金を数えているのか二人は無言になったが、しばらくして男が『確かに受け取りました』と伝える声が聞こえた。
『まずサイズを測らせてもらいたいんですよね。これってあなた用? だったら今測るけど』
『いや、俺じゃなくて女用なんだ』
『そうなんだ。あ、もしかしてカノジョ?』
睦希に何かを贈るつもりかと、寛生の眉がピクッと動く。
『あぁ、まぁ、そんなとこ』
猛が歯切れ悪く答えている。もしかして照れた様子でも浮かべているのだろうか。全く想像できなくて、寛生はこのやり取りに呆れてしまった。
二人はこの後すぐ退室して店の前で別れたので、猛の尾行は探偵に頼み、寛生は男の後を追う。先日と同じ歌舞伎町のクラブに行って、一時間ほど踊ったり飲んだり、一人で来ている若い女に話し掛けたりしている。結果ナンパには成功しなかったようで、おとなしく駅に戻って電車に乗った。
新宿から六駅ほど離れた駅で下車し、コンビニを経由して、住宅街の一角にあるアパートに辿り着く。灯りがつくのを待って部屋を特定すると、郵便受けで名前を把握した。
その足ですぐ警視庁に戻りデータベースで確認すると、男は二十歳で、犯歴も交通違反もなく、どうやら一般市民のようだ。何かを作ってもらうことを依頼しただけの関係に思える。何だったのだろうと寛生は首を傾げた。睦希にプレゼントでも贈るつもりなのか。そしてその金はどこから出したのか。猛はケリをつけるつもりなどなくて、軍資金は遊ぶ金欲しさの出まかせだった可能性だってある。寛生は腕を組んで、仏頂面でパソコンの画面を睨みつけた。
寛生が男を尾行している間、猛は今夜も寄り道することなく帰宅する。ダイニングテーブルで大学の課題をやっていた睦希は、すぐに立ち上がった。
「お帰りなさい。何か食べるか飲むかしますか?」
「いや。大丈夫だよ」
猛は答えながら、睦希の正面のイスに腰を下ろす。睦希はこういう時、武史と猛の区別がつかないと感じてしまう。夜に出かけたことや服装から考えて、おそらく猛だと思ってはいるが、自分の立場で見分けられないことがイヤで、名を呼ぶことはしないでいる。
「独りだったんですか? 寛ちゃんも居ないので、また一緒なのかと思ってました」
沈黙を避けようと問い掛けると、猛の双眸がゆっくりと見開く。睦希は空気が変わるのを感じた。
「……おかしいな。俺が出る時にゴリラは居たぞ」
「あれっ、そうだったんですか。昔から、帰った後にもよく呼び戻されていたので、今日もそうだったのかも」
寛生を『ゴリラ』と呼んだので、睦希は彼を猛だと理解する。言ってはいけないことを話してしまったのだろうかと、誤魔化す言い訳をしてしまった。猛は無言で立ち上がり、廊下を進んで寛生が寝室に使っている部屋のドアを勢いよく開いた。
「猛さん?」
慌てて追い掛けた睦希が、その背中にためらいがちに声を掛ける。猛はしばらく黙ったまま無人の暗い部屋を睨んでいたが、やがてゆっくりと振り返った。
「なんでもない」
「え? ……はい」
言葉でそうは言っても、明らかに様子がおかしい。睦希が心配そうに見上げると、猛も睦希を見ている。そして右手が伸びて、睦希の首に触れる。親指を喉の中央に起き、他の四本の指が首の後ろに回る、片手で首を締めるような形だ。
「睦希。今もまだ、お前の命は俺のものか?」
静かで暗い声が尋ねる。突然の問い掛けに、睦希の視線は揺れる。視界に映る猛の瞳は闇に包まれているように感じられ、吸い込まれてしまいそうだ。その影を見つめていると、なぜかスッと心が落ち着いた。
「前に約束した通り、心も身体も命も、全部堤さんのものですよ」
「堤さん、じゃなくて。俺ひとりだけのものか?」
問いが重ねられ、ここで睦希は躊躇する。猛は今、武史ではなく自分を選べと迫っているのだ。睦希の中で二人の間に優劣はなく、今までどちらか一人を選ぶ選択など考えたこともなかった。即答できない睦希を、暗い瞳は黙って見つめている。
「私をクローゼットに隠して助けてくれたのは、誰なんですか?」
迷いを委ねる先を探して問い掛ける。猛は僅かに微笑んだが、それは楽しそうな様子とは程遠く、むしろ悲しげだと睦希は感じた。
「……俺」
「どうして、私だけ助けてくれたんですか?」
初めて理由を尋ねても、猛は黙っている。教えてもらえないのだろうかと諦めかけた頃、やっと猛の唇が動いた。
「あの時俺は、窓から外の様子を見てたんだ。お前は昼寝から起きたタイミングで、子ども用の小さな布団の上に座ってた。突然怪しい人間が入ってきたのに、人懐こい笑顔を浮かべて、抱っこを求めるように、俺に両手を伸ばしてきた。……覚えてないよな」
まだ四歳だった上に記憶を閉じてしまった睦希は、猛の言葉通り何も覚えていない。その通りだと、首を振った。
「俺は生まれて初めて、他人に笑い掛けてもらったんだ。それまでに見たことがあったのは、怒りで歪んだ顔や、恐怖が張り付いた顔、痛みに踠き苦しむ顔……あとは、死体。俺が居る場所は救いのない地獄だって、いつも思ってた。でも、何もわかっていないお前だけが笑ってて……伸ばされた手に応えたくなって、力を振り絞って外に飛び出した。お前の光を絶対に消したくなかったし、お前と一緒に居れば、俺も地獄から抜け出せるような気がしたんだ。……気がしただけで、お前と俺は、今も違う世界に居るけどな。でも、ガキだった俺は、あの時そう信じたんだよ。お前のために助けたんじゃない。俺が救われたかっただけだ」
事件の記憶を刺激する話が聞こえ、睦希は恐怖を感じて小刻みに震え始める。今目の前にいる人は、自分の家族が、そしてあれだけ多くの人が殺された場所に居て、その一部始終を見ていたのだと、初めて実感している。
「……震えてる。俺が怖いよな?」
首に触れる猛の手にも振動が伝わっている。その声は静かで、そしてやわらかい。睦希は、やはりこの声が導く方向について行こう、それが生き残った自分の選ぶべき道だと感じていた。
「猛さんが違う世界に居ると感じているのなら、私がそっちに行きます。猛さんが助けた命だから、好きに使っていいんですよ。今度こそ、あなたが救われる番です」
身体の震えが声にも伝わる。怖いと感じる思いが消えたわけではないが、それでも睦希に迷いはない。猛の瞳からゆっくりと影が消え、力が戻って来たと確信した時、嬉しいとすら感じていた。
「ありがとう、睦希。お前の命を使わせてもらう」
首から手を離し、猛は睦希を胸に引き寄せる。強く抱き締められながら、睦希は自分の人生がもうすぐ終わるのだろうと予想している。独り生き残った時から、ずっと心の中にあった死というものは、むしろ慣れ親しんだ存在だ。それがやっと追いついてきてくれたと安堵にも似た感情が生まれ、喜んで迎え入れようと思っていた。




