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鵺の呼ぶ声  作者: 松岡織


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叛離 - 4


 一般診療が終わった後の夜十時に、寛生と猛は連れ立って吉行のクリニックを訪れる。石川も同席するらしく、先に到着して受付前のソファに座っていた。猛は石川を一瞥して無言だ。石川の方も猛を見上げるが、同じく声は掛けない。ピンと張り詰めた緊張感が漂う中、診察室から出てきた吉行が、いつものおばさん演技で男二人が反目している空気などすぐに吹き飛ばした。

「あのさぁ」

 診察室に入ると中を見渡し、猛は吉行に話し掛ける。

「パーテーションか何か、ないか? ガキを外に出すなら、ゴリラと、この人相の悪いおっさんが睨んでると怖がるだろうから、こいつらを隠してくれ」

 男二人が黙っている中、吉行が声を上げて笑い出す。今の話から察するに、どうやら猛は少年人格とは良好な関係なのだろう。人格間でも、性格や考え方の相違で仲の良い悪いがあると、寛生は本で読んだ知識を思い出していた。

 寛生が運んだパーテーションで診察室が二分される。石川と寛生は並んで座り、今日もICレコーダーの録音ボタンを押す。声しか情報が取れないことは残念だが仕方がない。

 パーテーションの向こうでは、吉行と猛がテーブルを挟んで向かい合って座る。猛は会話は不要とばかりにすぐにテーブルにうつ伏せになり、その背中を眺める吉行は鼻歌を口ずさみ始めた。

「……この声、この前話した人?」

 うつ伏せになったままの猛の身体から、また少年と(おぼ)しき声が発せられる。パーテーションを隔てて、寛生と石川は目配せを送り合った。

「あらっ、また会えたわね。こんばんは」

 明るい吉行の声に続き、少年もためらいがちに挨拶だけを返した。

「今日も出口がわからない部屋に居るのかしら。あのね、私の方からはあなたの姿が見えるのよ。手を伸ばせば触れそう……ねぇ、出口に案内するから、触ってもいい?」

「えっ、ここから出られるの?」

 少年は驚いた声を上げて、うつ伏せの姿勢のまま両腕を伸ばす。吉行はその手をしっかりと握った。

「こっちよ。歩いて来て」

「う……ん」

 少しずつ上半身が起きていく様子を、吉行は笑みを絶やさず見守っている。やがて少年の身体が起きると、瞼がゆっくりと開いた。

「あっ、眩しい!」

 少年は手を離して両手で顔を覆う。吉行はチョコレートが入ったいつもの籠をテーブルの中央に置いた。

「ずっと真っ暗な所に居たから眩しいのね。ゆっくり目を慣らして。その間に私はお茶を煎れるわ。あと、チョコレートは好きかしら。たくさんあるから好きなだけ食べてね」

 ついさっきまで猛が目を開けていたのに、人格が変わると身体反応まで変わるものなのかと寛生は驚いている。吉行は今日も紅茶を用意し、堤少年の前に置いた。

「ここはどこですか? あなたは誰なの? どうしてぼくのことが見えたんですか?」

 まだ両目を手で覆ったまま、少年は尋ねる。

「ここは病院で、私は吉行という医者です。あなたは保護されたので、もう何も心配ないわ。お茶とチョコで、まずは一息ついてね」

「病院……」

 目が慣れてきたのか、少年は両手を顔から離し、正面に座る吉行と室内の様子を眺める時間を取る。それが落ち着いてから、やっとカップに手を伸ばした。

「落ち着いたら、あなたの名前と年を教えてくれる?」

 吉行がやさしい声で問い掛けると、少年は口からカップを離して頷いた。

「堤武史です。年は十二歳。でも……長い時間が経った気がするので、もう十三歳になってるかも……よくわからないです」

「そうね、ずっと真っ暗な部屋に居たんですものね」

 吉行は慌てずに一歩ずつ確認を進めていく。二人の会話を聞きながら、寛生は眉間に皺を寄せる。本で得た知識しかないが、同じ名前の人格が複数存在するものなのだろうか。寛生が読んだ本では、全員が違う名前や背景を持った他人で、時間軸が異なる同一人物は出てこなかった。

 その間にもパーテーションで隔たれた空間では、武史と名乗った少年が、お茶のカップをテーブルに置いた。

「あの、この前も聞いたけど、ぼくのお父さんのことを知りませんか?」

 どう答えるのだろうと、寛生と石川は耳を(そばだ)てる。吉行はここで少し時間を取った。

「……知ってるわ。残念だけど、あなたのお父さんは亡くなりました。自殺よ」

 武史少年の双眸(そうぼう)はゆっくりと見開かれ、そして視線がテーブルに落ちる。自らの身体を抱くように交差させた両腕が僅かに震え始めた。

「そうですか……それって、ぼくのせいです。ぼくが警察に電話したから、お父さんは追い詰められて自殺したんですよね」

「それは違うわ。あなたがやったことは正しかったのよ。あなたが電話を掛けたおかげで、事件はやっと止まったの。もしあのまま放っておいたら、お父さんはもっと多くの罪を重ねてしまったわ。あなたが止めてあげたのよ」

 やさしく慰める吉行の声が続いても、武史少年はずっと下を向いたままだ。唇を噛み、両の瞼からは涙が溢れた。

「……ぼく、電話したらどうなるか、もっと考えないと、いけなかっ、た。お父…さん、ごめん、なさい」

 先ほどの吉行の慰めは、少年の心には届かなかったようだ。嗚咽で声が途切れがちになり、両手が腕から離れて顔を覆う。診察室の中は、武史少年が啜り泣く声しか聞こえなくなった。

 その様子を慈愛の表情で眺めていた吉行が、また静かに口を開く。

「そんな結果になるなんて、誰にもわからなかったわ」

「ううん。もっとよく考えれば、きっとわかった。教えや儀式を外に出すことは許されてないから、もし捕まりそうになったら、自分で命を断って神様の世界に移動しろって、あの男に、言われてたから」

 指示役を匂わせる話が初めて飛び出す。寛生が勢いよく石川に向かって振り向くと、彼も寛生に鋭い視線を向けている。第三者の介入があったとする証言こそ、警察がずっと探していたものだ。『あの男』が実在するのなら、計画を立てた人物イコール堤少年説が消えてくれる。小学生が計画したとはどうしても信じられない寛生は、自分が安堵していることに気づく。今にも飛び出してもっと詳細な話を聞き出したい。()れた気持ちをグッと(こら)えていると、同じ心情であろう吉行の声が聞こえた。

「お父さんに命令していた人が居たのね? でもそれなら、やっぱり悪いのはあなたではなくてその人よ。悪い人を自由にしておくのは危険だから、捕まえてもらいましょう。どんな人なの? 教えてくれる?」

 心配する演技で説得を試みても、武史少年は口を(つぐ)んで、両手で涙を拭っているだけだ。吉行は追い立てることはせずに、ティッシュのボックスを彼の前に差し出した。

「ありがとうございます」

 やっと声を発した武史少年はティッシュで涙を拭い、そして鼻を噛んだ。

「ごめんなさい、ぼく、もう帰ります。今は何も考えられなくて、誰とも話したくないです。その話は、次に会った時でいいですか?」

 少年の口調は、小学生にしては随分と大人びたものの言い方だ。少しでも早く情報が欲しい三人だったが、吉行はその提案を受け入れた。

「お父さんが亡くなったって知ったばかりだものね。また話を聞かせてもらえるのを待っているわ。話せるようになったら、猛くんに伝えてくれる? 仲良しなのよね?」

「猛くんを知ってるんですか?」

「ええ、知ってるわ。私も仲良くしてもらっているの。ちょっと乱暴で最初は怖かったけど、カッコいいわよね」

 得意のおばさん雑談で吉行が笑い掛けると、武史少年からも僅かながら笑い声が漏れる。それを認めた吉行がすぐに続けた。

「次に会える時に、警察の人を呼んでも大丈夫かしら。皆あなたのことをとても心配しているし、悪い人を捕まえるためには、警察の人にも聞いてもらった方がいいと思うの」

 いつもながら吉行の誘導はありがたい。寛生の視界の端では、石川が拳を握っている。だが、武史少年はすぐには受け入れなかった。

「それも考えてみます。返事は猛くんに伝えますね。あの……お父さんのことを教えてくれて、ありがとうございました」

 母親の躾が良かったのか、武史少年は丁寧な挨拶と共に頭を下げる。そして、まるで電池が切れたように、そのままテーブルに突っ伏した。


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