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鵺の呼ぶ声  作者: 松岡織


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策戦 - 2


 カウンセリングは翌週からすぐ始まった。武史の持ち時間に合わせて、日曜の午前中にクリニックを訪れる。日曜は休診日だったが、吉行はこのために病院を開けた。

「初めまして。これからあなたと二人三脚で進んでいく吉行です。よろしくね」

 微笑みながら握手を求めて手を差し出す姿は、温和でやさしそうな普通のおばさんだ。医者とは思えない問題発言をした姿など(おくび)にも出さない。武史は一瞬意外そうな表情を浮かべた後に、和かに微笑んで『堤です。よろしくお願いします』と握手を受け入れた。

 性格に問題がありそうな吉行だとしても、女性医師が選ばれたのは悪くなかったと、二人のやりとりを眺める寛生は考えを改める。これがもし男だったら、武史はもっと警戒心を(いだ)いたのではないだろうか。武史も猛も、基本的に男を敵と認定するが、力で御し易い女性に対しては防御を緩める傾向にあるように見える。表情が動いていることからも、今の警戒レベルはあまり高くなさそうだ。

 まずカルテの作成に必要な情報を書類に記入する。武史が書いているのを隣で眺めながら、吉行はその間も会話を続けていた。

「主治医の先生のところでは、定期的に樹を描いたりしてるの?」

「バウムテスト、でしたっけ。やったことはありますよ。他にもロールシャッハやMMPIも。改めてやっていただいてもいいですが、俺はもう、何をどう描いたり答えると、どんな診断結果が出てくるのかを勉強してしまいました。だから今はもうその辺りのテストはやっていませんね」

 何の話をしているのか最初はわからなかった寛生だが、ロールシャッハテストは聞いたことがあったので、患者の心理状態を見る手法のことだと理解する。

「そう……。じゃあ意味ないかな。困ったことに、勉強熱心なのね」

「えぇ。人に知られたくない秘密が多いので」

 ここでも武史は相変わらずだが、吉行は呆れることなく、むしろ面白そうに微笑む。

 続いて案内されたカウンセリングルームでは、患者はリクライニングシートに座るらしい。部屋の照明は抑えめの暖色。シートには温熱設備がついていて暖かく、その上吉行は、ふわふわした手触りの毛布を掛けた。

「診察というより、リラクゼーション施設にでも来たような雰囲気ですね」

 武史の声は笑っている。彼の視界から外れた寛生は、スーツのポケットに忍ばせてきたICレコーダーのスイッチを入れた。

「メンタルにトラブルを抱える患者さんは、いつもひとりぼっちで寒くて暗い世界に居る気持ちになっているでしょう? だから少しでもリラックスできるようにしているの。途中で眠ってしまう人もいるので、あなたも寝ていいのよ」

「いえ。それは大丈夫です」

 武史が人前で眠らないよう細心の注意を払っていることは、この場に居る全員の共通認識だ。断る声もはっきりとして、意思が込められている。吉行は『そう』と受け流して、リクライニングシートの横にあるイスに腰を下ろした。

「小野寺さんが知っている情報は事前に聞かせてもらいました。でもいくつかわからないことがあったのね。今日は初診なので、ヒアリングをさせてもらいたいと思っています。答えたくないと感じたら、無理しないでね」

 吉行の声は、耳を通って心地よく胸に届く。先日の打ち合わせ時はかなりの早口だったが、今日はゆったりと、落ち着いた呼吸のようなリズムだ。寛生はその豹変ぶりに感心しながら、離れた壁際でイスに座って耳を傾けている。

「この病気の一般的なケースでは、最初は他の人格が居るとは気づかなくて、『記憶がない時間がある』から始まって、徐々に自分以外の人と身体を共有していることに気がついて、やがて話ができるようになる場合もある。あなたたちもその流れだった?」

「俺たちは、それとは違いますね」

「そうなの? じゃあ最初から、弟さんや三人目があなたのすぐ隣に居るって気付いていた?」

 吉行の声はどこまでもやさしいが、少しずつ重要な質問に入っているようだ。ここまで流れに乗って話していた武史が、初めて()を空ける。

「……おそらく、俺には人格が分かれた時の記憶がありますね」

 迷いを残す声だ。武史がこんな話し方をするのは珍しい。本音なのか、それとも何か目的がある演技なのか。寛生はじっと二人のやり取りを見守っている。吉行が何も言わないのは先を待っているのだろうか。先ほどより長い沈黙の後、武史の声が続いた。

「猛の存在を意識したのは、父に肋骨を折られて、痛くて床に転がっていた時です。このままでは殺されると思ってました。その時突然、『喧嘩が強くて六年生にも勝った双子の弟が居るじゃないか』と、忘れていた猛の存在を思い出して……今から思えば、あの時、猛は生まれて来たんだと思います。それからは殴られそうになると猛に対応してもらったんですが、六年生には勝てても、大人には勝てませんでしたね」

 武史の声には笑いが含まれている。同調するように、吉行が笑い声の相槌を打った。

「だから猛くんは、強くなろうと格闘技を習い始めたのね。三人目は? ねぇ、三人目に名前はないのかしら。呼びづらいわね」

 今日の吉行はやたらと女性らしさを強調した口調を多用している。医者と言うよりも、まるでお喋りなおばちゃんがそこに居るようだ。

「父を信奉しているので、狩谷武史と名乗っています。紛らわしいので、カウンセリングではサードとでも呼んでください」

 吉行が同意したのを見て、武史は先を続ける。

「サードの存在を自覚した時のことは、鮮明に覚えています。父がいよいよ神の儀式を執り行うと言い出した時、息子のお前も儀式に参加するんだと強要されました。でも俺も猛も、そんなことできないって拒否したんです。そして『俺たちには父親は居ないじゃないか。この男とは親子じゃない。だから行かなくてもいいはずだ』と考えていました。でも強制的に連れて行かれてしまったので、『本当の息子が別に居るはずだ。そいつに行かせればいい』って思いついたんです。その瞬間、意識が途切れました。きっとあの時に、また人格が分かれたんでしょうね」

 辛い過去を話しているだろう武史の口調は、抑揚がなく淡々としている。寛生は離れた位置から観察を続けたが、武史は真実を話しているようにも見えるし、逆に全てが芝居のようにも疑える。

「サードは儀式で何をさせられたの?」

 捜査として重要な、堤の関与を吉行が鋭く問い掛ける。武史はここで、彼の癖である小さな笑みを浮かべた。

「警察もそれが知りたいんでしょうが、俺と猛は儀式から逃げたので、外の情報は全て遮断して、奥の方に隠れていました。現場での記憶がほどんど無いのはそのせいです」

 武史がこの表情を浮かべている時は本音を話していないと読んでいる寛生は、やはり彼には記憶があるのではないかと疑いを抱く。おそらく吉行も同様だろうと思ったが、彼女は辛い話に同情している表情を崩さない。

「そうよね。向き合えなかったから、交代人格を生み出したんだものね。あなたたち兄弟の代わりに儀式に参加したサードのこと、あなたはどう思っているの?」

 吉行は質問を止めない。寄り添う様子はフリだけなのかと呆れながらも、寛生は吉行の強い意志を感じ取る。武史も吉行も、お互いの出方を探っているようだ。

「そうですね……可哀想なことをしてしまったとは思っています。俺と猛が逃げたから、サードに全てを押し付けてしまった。その上今もまだ、あの地獄が続いていると信じている。だからずっと奥に閉じ込めています。このまま静かに消滅させて、楽にしてやりたいんです。先生、特定の人格だけを消す方法はないんですか?」

「うーん、サードが統合されないのは、存在する理由があるからなのよ。だからずっと閉じ込めていたら、彼は、今も儀式は続いている、恐怖の対象のお父さんも生きていて、言いつけを守らなくてはいけないと思い込んだまま、統合してくれないと思うわ。統合したいのなら、彼にカウンセリングを受けさせることも考えてみて」

「……それは、難しいかな」

 武史の笑みが深まる。言葉遣いはやわらかいが、決して承諾しないであろう強い意志を滲ませる。吉行も武史に(なら)って微笑みを浮かべた。

「私に会わせる必要はないのよ。あなたと猛くんの三人で話し合うだけでもいいの。今はもう危険は去って怖いお父さんは居なくなった、ここは安全な場所で、もう自由になれた。言いつけも守らなくてもいいって教えてあげたら、納得してくれるかもしれないわよ」

 ポジティブな言葉で吉行が穏やかに語り掛ける。リクライニングシートの武史はここで寛生に顔を向け、そしてすぐに吉行に視線を戻した。

「この前小野寺さんに指摘されたんですが、俺は全てを見ていたサードと記憶を共有するのが、怖いんでしょうね。せっかく全部押し付けて逃げたのに、記憶が逆流して来るかもしれない。だから、彼と統合したいとは思えません。記憶を共有する事なく、サードだけを消し去りたいんです。それが無理なら、全員まとめて消してもらうのが、やっぱり最適解じゃないのかな」

 カウンセリングルームに武史の小さな声が流れている。寛生はこの話を聞いて、どう判断すべきか迷ってしまう。堤を被害者と見るなら、自死を望むほど深い傷を今も抱える彼に憐れみを感じる。だが、加害者として見れば、サードだけを消すことによって、事件の真相も堤の関与も、全てを闇に葬る作戦とも取れる。どちらなのだと武史の表情を探っても、寛生にはわからない。武史はまた、吉行に笑みを向けた。

「猛とも相談してみます」

「そうね。危機管理隊長は猛くんのようだから、彼の意見も聞いてみて」

 二人はこの話題をここで終わらせる。吉行はその後もいくつか他の質問を重ね、区切りが付くと腕時計に視線を向けた。

「長くなってきたので、これを最後のヒアリングにするけど、あなたのお母さんについて聞かせてくれる? どんな方だったの?」

「母は……」

 武史は一度開き掛けた唇を止めて、考える時間を取っている。再び口を開いた時にはとても明るい口調だった。

「パワフルで楽観的な人でしたね。桐生の生まれではなくて、男の夜逃げに東京から一緒に付いて来て、小さなスナックで働き始めたらしいんです。結局その男はまたどこかに行ってしまったけど、東京に身寄りもなかったので、そのまま桐生に残って店を継いだと聞きました。口癖は『大丈夫、なんとかなる』で、父の所から逃げ帰った後も、大丈夫だからねと繰り返し言ってくれました。でもその頃の俺は、大丈夫とは程遠い状態で、ひどいことも言ってしまいましたね。生きていたら謝りたいです」

 初めて聞く母親の話。寛生が意外に思うほど、武史はこの話題には饒舌だ。本当なのか作り話なのかはわからないが、とても自然に聞こえた。

「夜のお仕事なら、一緒にいる時間はあまりなかったのかしら。夕飯はどうしてたの? 独り?」

「いえ。学校帰りに、母の店に寄って食べさせてもらってました。開店前の時間が、俺たち親子が平日に唯一顔を合わせて話ができる団欒の時間でしたね」

「あらっ、それは良かったわね。お母さんにはどんな手料理を食べさせてもらったの? 得意料理は?」

 完全に雑談モードになっているように見える吉行だが、やけに突っ込んで詳細を聞くのには、何か意図があるのか。石川が言った巧妙な手法とは何なのか。寛生はずっと意識を集中させて観察している。武史はここでは間髪入れずに即答した。

「得意料理と言えるかどうか。一番食べさせてもらったのは温かいうどんでした。〆の人気メニューで、桐生は暑いのに、真夏でも週に三日は出てきましたよ」

「あはは、だけど酒呑みとしてはわかるわ。そこは冷やしうどんじゃなくて温かいのが欲しくなるのよ」

 二人の間で話は弾んでいる。吉行はそこで、ふっと笑みを収めて声を落とした。

「……いいお母さんだったのね」

「そう、ですね。男を見る目が致命的だった所以外は」

 いつもの冗談か本気かわからない笑顔で、武史は頷いた。


 二時間のカウンセリングを終えて、寛生と武史は帰路につく。武史の機嫌は悪く無さそうだった。

「お喋りな先生だったなぁ。通えそうか?」

 吉行の印象含め感想が聞きたいと寛生が問い掛けると、隣を歩く武史は頷いた。

「藤岡先生とはまた違ったアプローチをするドクターですね。結構楽しかったですよ」

「そうか。ならいいんだが。俺はお前がどれだけ本当のことを話してるのかわからなくて、考え過ぎて頭が痛いや。お前のことだから、どうせほとんどウソなんだろうけど」

「酷いなぁ。90%は本当のことを話しましたよ」

「やっぱり10%はウソなのかよ」

 武史は笑い声を上げたが、寛生から見れば、90%の真実だって本当かどうかは疑わしい。どうせ簡単には誘導には乗って来ないのだろう。

「吉行先生は、警察と関係のあるドクターなんですか?」

 その証拠に、すぐに吉行の裏を探ろうとしている。特別捜査本部に居たことは隠そうと合意がなされていたので、寛生は首を横に振った。

「いや。あの人は、警察が精神鑑定を頼んでる病院の出身で、そこから解離性同一性障害の患者を診たことがあるドクターを探してもらったんだ。レアな病気だから探すのが大変だったらしい。女医さんに頼むのって、俺はどうなのかなって思ったけどさ」

 嘘つきだと罵った直後に、寛生も作り話をしている。『そうですか』と一度は相槌を打った後、武史はすぐに寛生へと顔を向けた。

「どうなのかな、とは?」

「いやぁ、だってさ。この間、事件の顛末やお前についての説明をしたんだが、一般人に話すにはかなり厳しい事件だっただろ? 顔色ひとつ変えずに聞いてくれてはいたが、内心はどうだったのかと思うじゃないか。あと、そもそもお前の存在が、あんな近い距離に居て安全なのか疑わしいし。よく映画で、精神科医が診ていた患者に殺されてるじゃないか」

「嘘つきの後は殺人鬼扱いですか。例え俺が殺意を持ったとしても、カウンセリングルームには鋭利なものを置かないのが鉄則だから、一撃で攻撃するのは難しいと思いますよ。どうせその間にあなたが突進して来るんでしょう?」

 武史は冗談のように笑っているが、寛生は呆れ顔だ。だが、本来なら第三者が入ることがない診察に立ち会っている理由としては申し分ない。『その通りだ』と即答した。


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