策戦 - 1
石川に連れられて、寛生は都内の心療内科のクリニックを訪れる。季節は春が近づいていた。休診の札が下げられていたが、石川がインターフォンを押すとすぐに足音が聞こえ、扉が開かれる。
「いらっしゃい。お久しぶり」
小柄でグレイヘアの六十歳前後と思われる女性が出迎えて、笑顔を向ける。
「どうも。ご無沙汰しております」
石川も普段見せることがない穏やかな表情で、しかも敬語で返事をしている。人選された精神科医が女性であったことは、寛生としてはかなり意外だった。勝手な先入観で、こんな血生臭い事件を担当するのは男だろうと思い込んでいた。
人が居ない院内へと案内され、名刺交換を終える。彼女の名は吉行幸子。専門は統合失調症だが、プロファイリングも国内導入初期から参加して、FBIでの研修経験もある。狩谷事件に深く関与してきた精神科医だった。
テーブルを挟んで座ると、その吉行自らが紅茶を淹れる。石川と吉行の間では、旧知の仲だとわかる会話がなされていた。紅茶の用意を終えた吉行は、様々な種類の小さなチョコレートが山と積まれた籠をテーブルの中央に置く。
「好きに摘んでね」
「相変わらずのチョコの量ですね。よく太りませんね」
「カカオポリフェノールを摂取すると、脳血流量が上昇するからね。脳のカンフル剤としてとても有効。私はこれじゃないと深い思考の疲れは取れないのよ」
医者っぽい返事をして、早速チョコに手を伸ばして口に放り込んでいる。そして老眼鏡であろう眼鏡を掛け、ノートを広げ、最後にICレコーダーのスイッチを入れた。
「電話で簡単には聞いたけど、もう一度詳しく話してくれる?」
優雅にスタートした打ち合わせだが、始まってみれば話の流れが速い。石川が先に、狩谷と行動を共にしていた息子が見つかった概要を伝え、詳しくは小野寺からと渡す。寛生はそれを受けて、堤に会ってから今までの間にわかったことの説明を始める。藤岡医師から聞いた話は、特に丁寧な再現を試みた。睦希との関係や、今は同居していることも全て包み隠さず正直に話す間、吉行は殆どメモを取ることなく、時々チョコを口に運びながら、耳を傾けていた。
「……なるほど。あの時事件の裏側では、そんなことが起きていたのか」
全ての説明を終える頃には小一時間が経過している。吉行は独り言のように呟いて、テーブルに肘をつき両の指先を額に当てて、今の話を心の中で咀嚼しているようだ。それが終わると、パッと顔を上げた。
「今のドクターは良い人みたいだけど、良い医者かどうかは怪しいね。十七年費やしても統合できないなんて。特に武史と猛は、それぞれの人生がもう別々に成り立ってしまっているから、今から統合に持っていくのは相当難しそう」
難しいと言いながらも、吉行の表情はどこか好戦的だ。そして寛生に顔を向けた。
「小野寺さんが診察に立ち会うのなら、解離性同一性障害について軽く説明するね。あの病気の患者は、交代人格ごとに記憶や体験、感情、それに意思も違っている別の人間なので、意見や行動がまとまらなくて混乱している状態です。例えばさっき聞いた睦希さんを例に出すと、武史人格は安全のために彼女と離れようとしていた。でも猛人格は近づきたい、狩谷人格は殺したいと、三人三様に意見が違って混乱してるよね」
睦希に例えてもらうと理解しやすい。寛生は頷いて先を待った。
「でも交代人格というものは、例えネガティブなことを考えている人格であっても、彼自身を守る意図に沿って行動しているものなの。猛人格が格闘技を習って暴力的なのは、外敵から自分を守るため。第三の人格が睦希さんを殺そうとするのは、狩谷の言いつけを守らなければ自分が殺されるから。だから、交代人格それぞれの意見を丁寧に聞き取って、行動の目的や感情を理解した上で、一人ひとりと相談しながら最善の方向を見つけて、交代人格間の諍いを減らしていく必要があります」
付け焼き刃ながら、何冊か本を読んだ寛生は頷く。その本にもネガティブな意思を持つ人格を蔑ろにしてはいけないと書いてあった。黙って聞いていた石川がそこで口を挟む。
「統合しないと証言させられないわけではないですよね?」
「全員が違うことを言った場合、誰の証言を真実とするの? 彼らは一人ひとり、異なる立場や時間で事件を見ていたわけで、同じ証言はしないと思う。事件現場で何が行われていたのか、一番詳細に知っているのは第三の人格だろうけど、彼は父親を守ろうとする筈。証言の信憑性は低いんじゃないかな。それに狩谷と同じ妄想の世界に居るとなると、会話が成立しない可能性もあるよね」
「確かにそうですね」
堤から証言を取るのは容易なことではないと悟った石川は、渋い表情で納得する。寛生としても、何を聞いても武史が『記憶がない』と逃げてしまう現状を打破するためには、全員の記憶を一つにまとめる必要性を強く感じている。異論はなかった。
「それで、私たちのゴールはどこ?」
両手で老眼鏡を外した吉行が、石川へと顔を向ける。問われた石川は笑みを浮かべた。
「堤が忘れてる、もしくは忘れたふりをしていることを聞き出して、狩谷事件の全貌を明らかにすること。そして、先生が当時指摘した、指示役の正体を突き止めたい」
指示役がいると言い出したのが吉行だったとは。なぜ彼女に捜査を依頼したのか、寛生にもその理由がよくわかった。
「了解。これでようやく真相がわかるといいよね。あと、もし堤に何らかの関与が認められた場合、共犯として逮捕することは考えてる?」
「残念ながら逮捕は無理ですね。事件当時の堤の年齢は、十一歳から十二歳に掛けて。法に守られてますから」
「そうか、触法少年だった。まぁ、小野寺さんの話を聞く限り、武史人格は、そう簡単にボロは出さないだろうしね。あともう一つ確認なんだけど、今回は患者の治療は優先しなくていいんだよね?」
とんでもないことを言い出したと、寛生の眉間に深い皺が寄る。
「つまり、真実を聞き出すためなら、心の中を掻き回して自殺願望が強くなってもやむなしと、警察は判断していると捉えていいのかな? 一般診療なら時間を掛けて患者が話すまで待つのが基本だけど、捜査ならぐいぐい踏み込むことになると思うけど」
医師としての倫理に欠けた発言を聞き、寛生は堪らず割って入った。
「ちょっと待ってください。堤だって、法的には狩谷事件の被害者ですよ。それはさすがに行き過ぎじゃないですか?」
非難の声を掛けて順に二人に顔を向ける。だが石川も吉行も、黙って寛生を見つめていた。
「あのな、小野寺」
先に声を発したのは石川だ。寛生は深い息を吐きながら『はい』と応える。
「捜査員と同じ立場から、堤を追い詰めてくれる医師が必要だと訴えたのは誰なんだ? お前、それがどういう意味か判ってなかったのか?」
寛生には返す言葉がない。指摘通り、専門家に捜査されることで生じる堤への負担を、軽く見ていたのは確かだ。事件の真相を、そして堤がどこまで危険人物なのか、事件への関与はどうだったのか、寛生だってもちろん知りたい。知りたいが、病状を不安定にしていいとまでは思っていない。どう説得すればいいのかと唇を噛むと、石川の声は続く。
「お前はどっちの味方なんだ。一緒に住んで情でも湧いたのか? あいつは当時十二歳だったから無罪なだけで、十四歳以上なら立派な共犯だぞ。法律で裁けないだけで、無実じゃないんだ」
「それは……わかっています。が、誘拐されて事件に巻き込まれた被害者でもあります。その点には配慮が必要ではないでしょうか。それに、捜査員側に立ってほしいとお願いはしましたが、被疑者の安全を脅かすほどの度を越した取調べは禁止されているはずです」
堤は加害者なのか被害者なのか、それはずっと寛生の心に付き纏っていることだ。森は法律上の被害者だというスタンスを崩さなかったが、石川は真逆で、100%加害者だと捉えている。
「まぁまぁ二人共。カッカしないでチョコでも食べなよ。栄養を運んであげると、脳も落ち着いて物事を考えられるようになるよ?」
この言い争いの種を投げ込んだ張本人の吉行が、仲裁をしながら籠からチョコを取って、二人の手元までテーブルの上を滑らせる。そして自分もまたひとつ、口に運んだ。
「さっきのは極端な話なので、壊すことを目的として追い込んだり、自殺願望を悪化させてやろうとか悪いことを考えているわけではないので落ち着いて。私も一応はちゃんと医者なので、そこは心配しないでほしいな」
吉行がにこっと微笑み掛けて、重ねて二人にチョコを勧める。石川が諦めたように手を伸ばして包装を開き、寛生にも食えと命令が飛ぶ。菓子など食べる気分ではなかったが、仕方なく石川に倣って手元に来たチョコを口に放り込むと、慣れない甘さと苦味が口内に広がる。吉行の言う脳への効果はわからないが、言い争いをした二人が並んで菓子を食べることで、場の雰囲気が和んだことは確かだ。
「でね、話を戻すけど。ご心配とご意見はしっかりお伺いしました。でもやり方は私に一任してください」
吉行が結論として宣言する。全く折れることを知らなそうな性格で、寛生はさすが石川が人選した医師だと思ってしまった。
クリニックを出た寛生と石川は並んで歩き出したが、意見が食い違った直後の空気は重い。縦社会の警察で上司、しかも役員クラスに意見したわけだが、その点は全く後悔していない。寛生はそれよりも、自分の考えの浅さを悔やんでいた。
「吉行先生は、お前から見てどう感じた?」
石川が問い掛けてくる。甘えた考えの部下への不満は消えていないようで、まだ口調には不機嫌さを残している。
「俺がお願いした以上に、捜査員な方でした」
寛生の言い回しにも皮肉が入る。しっかり通じたのか、石川は鼻に掛かった冷笑を吐き出した。
「大学病院に捜査協力を依頼したら、医局で一番獰猛なやつを派遣するって言われて、強面な男が来るのかと思ったら、チビなおばちゃんだったんで驚いたよ。でも、プロファイリングの辻褄が合わない、共犯者が居るんじゃないかと早々に言い出して、すぐに中心メンバーに入り込んだんだ。生け捕りにできずに捜査が終了になったので、突入した警察は何をやってるんだって、相当怒ってたな」
懐かしそうな口調で聞かされる武勇伝だが、頼もしいと感じるよりも、寛生は武史を案じてしまう。真実を追求するあまり、彼が当時子どもで、今もまだ後遺症を抱える被害者であることに目を瞑ってはいけないのではないか。
「圧迫尋問だと感じたら、俺は止めます」
重ねて上司に反旗を翻す。立ち位置がふらついている部下に呆れたのか、石川は無言になったが、歩みが進んだ後に再び口を開く。
「別件でも捜査協力を依頼したことがある。そこでの経験上、吉行さんはもっと巧妙なテクニックを使うから、お前が圧迫尋問だと感じるようなヘマはしないさ。で。ひとつ言っておくが、お前こそ一度自分を客観視してみろ。藤岡同様に堤寄りになっているんじゃないのか? 確かに事件当時は子どもだったが、とっくに成人してるんだぞ。あいつのふざけた態度は、俺から見れば真っ黒だ。情に流されていると、掌で踊らされるぞ。取り返しがつかなくなった時に後悔しても遅いからな」
「……はい」
この指摘は尤もなので、素直に忠告を受け入れる。だが石川としては、その反応ではまだ心許なかったようだ。
「俺は忠告したからな」
もう一言ダメ押しを被せ、駅が近づくとここで別れるとタクシー乗り場へと歩いて行く。寛生は足を止め、その背中を見送った。
今の忠告と似たセリフを、どこかで聞いた気がする。いつ、どこでだったろうと寛生が記憶を遡ると、すぐ答に辿り着いた。
『きっと後悔するぞ』
嘱託殺人を止めた時に武史が放った言葉だ。寛生の心の中では、小波が静かに揺れていた。




