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鵺の呼ぶ声  作者: 松岡織


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哨戒 - 5


 寛生が埼玉から帰宅すると、堤がキッチンで湯を沸かしながらコーヒー豆を挽いていた。

「おかえりなさい。小野寺さんも飲みますか?」

 夜は猛の持ち時間なのに、この口調や行動から今夜はまだ武史のようだ。物のないこの台所に唯一道具があったように、コーヒーだけは好みがあるらしく、いつも自分で淹れている。寛生が飲ませてもらうのもこれが初めてではなかった。

「あぁ、貰いたい。良いタイミングで帰ってきたな」

 それならばとダイニングに腰掛けて完成を待つ。この頃には珍しく遅い時間に帰宅したせいか、観察するような視線が向けられる。この同居は、お互いが相手の行動を監視しているようなものだった。

「今日はどこかに寄り道でもしてたんですか?」

「あー、いや。今日は応援に駆り出されてた。でも約束通り、睦希のバイトが終わる前には帰って来ただろ?」

 こんな日常会話も探り合いだ。会話は一往復で途切れ、香りの良いコーヒーがカップを満たして武史も対面に腰を下ろす。寛生は精神科医の話をするチャンスだと感じた。

「今、精神科医を手配してるんだ。人選が終わったら受診してくれ。診察は俺も立ち会うから」

「……どういうことですか? セカンドオピニオンですか?」

「いや。それとは違うな。藤岡さんはお前が狩谷の息子であることも、事件当時一緒にいたことも知らない。その上すっかり懐柔されて、言わばお前の味方だ。だからこちら側のドクターにも診察させてもらう」

 警察は本気で真実を追求するつもりだと強い口調で伝える間、武史は無言で見つめ返している。寛生は畳み掛けた。

「捜査に協力する約束だよな? 力づくででも受診してもらうからな? お前にとっても、記憶がない時に何が起きていたのか明確にするのは、決して悪いことじゃないだろう? どうしていつまでも、わからないまま放置してるんだ。お前らしくもない。真実を知るのが怖いのか?」

 記憶がないのは嘘で、武史は事件の全貌を知っているのではないかと寛生は疑っている。だが、信じたフリをして、意図的に挑発する。表情を全く動かさずに黙って聞いていた武史は、やっといつもの薄い笑みを浮かべた。

「俺らしくない、か。俺を理解しているような言い方をするんですね。父と一緒に居た頃のことは思い出したくもないんですよ」

 ほぼ同じ高さの視線が、今までより鋭さを増す。寛生も退かずに睨み返した。

「それはもちろんわかってる。人格が分裂するほどショックな出来事だったんだよな。だが向き合わない限り、お前らは統合されないし、お前が死んで消そうとしてる危険な三人目もそのままだ。俺は睦希を守りたいし、事件の真相が知りたい。そしてお前は、死のうとするのは止めて治療しよう」

 寛生が重ねて強く勧めると、武史は呆れたような苦笑を浮かべた。

「統合した結果、俺が残る前提なんですか?」

「お前が主人格なんだろう? 生まれ持った名前を使っているし、誘拐される前の性格とも一致する。猛や三人目は、お前から分かれたんじゃないのか?」

 幼少期の武史少年の特徴は、猛や三人目とは類似点が少ない。専門医がどう判断するかわからないが、寛生には目の前の男が武史少年の成長後だとしか思えない。だが当の本人は、呆れた表情のままだ。

「つくづくあなたは楽観的ですね。そんなに単純じゃないんですよ。統合した結果誰になるのか、それは今の三人の中の一人なのか。それとも全くの別人か。そして、その人格が睦希を殺さないとは限りませんし、俺は消えるかもしれない。統合しろと言うのは、死ねと言っていることと同じだとわかってますか?」

 考えてもみなかった方向からの指摘が入り、寛生は絶句する。解離性同一性障害への理解がまだまだ浅いことを痛感させられる。と同時に、新たな疑問が心の中に浮かび上がった。

「やるべきことがある人格は統合できないんだったよな? だから三人目を消せない。じゃあ猛は? あいつは何のために、別人格のまま存在し続けてるんだ。お前と猛はなぜ統合されなかった?」

 武史はコーヒーに口をつける()をとってから、寛生に視線を向けた。

「猛とは元々の存在理由が違うし、考え方も違う。それに猛は俺を毛嫌いしているので、溶け合うのは難しいですね。まぁ、詳しくは本人に聞いてください。俺が全てを猛に話さないのと同じで、向こうもそうでしょう。俺たちは別の人間なんですよ」

「猛は俺との会話を拒否してるんだ。じゃあ一つだけ教えてくれ。猛が睦希に執着する理由は? 単に恋愛相手として好きなだけじゃないんだろ? 何が目的で、あいつは睦希をどうするつもりなんだ」

 寛生がずっと気になっている疑惑が再び頭を(もた)げる。もし武史が知っているのなら、それだけでも把握したい。だが、武史は首を横に振った。

「藤岡先生から聞いているかもしれませんが、猛はずっと睦希を手元に置きたがってますよ。危険だから他の女性では駄目なのかと説得してみたけど、そういうことではないようですね。これも本人に聞いてください。だけど、猛からは好意しか感じないので、大丈夫だと俺は信じています」

「本当か? 睦希に暴力を振るっていたのは猛だろ?」

「猛は初めて知ったコミュニケーションが父の暴力でしたからね。でも、睦希に対するあれは、暴力とは違うんです。睦希に思い出してもらうために、恐怖を呼び起こしていたんだと思いますよ。猛は本当に大丈夫です」

 武史は信じているようだが、猛の目的がわからない寛生は仏頂面を浮かべる。武史はその表情が可笑しかったのか、笑みを浮かべた。

「さっきの話ですが、別のドクターの診察を受けてもいいですよ。俺にとっても現状八方塞がりだし、三人目を消す方法が自殺以外にもあるのなら知りたいですね。ただし、事件の記憶とどこまで向き合うかは約束できません。俺の心が揺らぐようなら、危険なので()めさせてもらいます。この条件でどうですか?」

 事件を掘り下げないための予防線なのか、武史に有利な条件が提示される。だが、警察側の医師の前に引っ張り出すことが最優先な寛生は、この条件を受け入れた。


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