哨戒 - 1
辞令上は異動した寛生だが、公機捜の業務を担当しないので目黒の本部に席はなく、代わりに警視庁の公安部に通うことになった。警察署とは随分と勝手が違い、一体何をしているのかわからない部員が何人も居る。一匹狼で隠密行動をしている部員だけを集めたデスクの島があり、そこの一つが充てがわれた。最初の一週間が過ぎても他の部員の姿を一度も見ない状況から察するに、潜入捜査が多いのだろうか。寛生は毎日そのデスクに登庁し、まずは狩谷事件の資料を読み漁る。今までは情報開示のゾーニングで閲覧できなかった書類も、石川の許可で全て見られるようになった。
「現場検証の資料は、飯の後には見ない方がいいぞ」
石川は忠告したが、実際、事件現場の写真は凄惨を極め、二度ほどトイレに駆け込んで嘔吐した。殺人の担当経験もあると言うのに、やはりこの事件の異常性は別格だ。また、回を重ねるごとに心臓を取り出す手順が上達していくのが写真から伝わり、それがやけにリアリティを感じさせる。
無傷で済んだ睦希の着衣が血まみれだった理由も、調査書類を読み進める内に判明する。リビングに並べられ解体された家族の遺体の前で、転んだ痕跡が残っていた。その後、玄関まで四つん這いで進んだのか、小さな子どもの手と膝の跡が廊下へと続く。
寛生は唇を噛み締める。そんな酷な体験を全て忘れてくれたのは、本当に不幸中の幸いだ。できればもう二度と、思い出すことなく過ごしてほしい。代わりに脳裏に焼き付けておこうと、寛生は叔父一家の変わり果てた姿を、長いこと見つめた。
保管されている特別捜査本部の資料の他に、石川が個人で作っていたノートのコピーも渡される。どちらの資料でも、妄想型の精神疾患を発病していたであろう狩谷に、証拠を残さない犯行手順を指示したのは誰か。それがやはり最大の未解決事案だ。
資料が語る狩谷の人物像は、そもそも知的作業に向いていない。小中学校の成績は、体育と技術以外は全て最低ランクの1。成績が悪くても入学可能な工業高校に進んだが、一年と保たずに自主退学している。事件当時既に他界していた両親は覚醒剤の常用者で、ネグレクトされて育った。薬物の乱用は狩谷が生まれる前からで、胎児の時に受けた薬の影響もあったのだろうが、担任教諭の話によると、知的レベルに障害があったわけではない。ただ、明らかに発達障害の症状はあり、読む・書く・計算するなど、勉強に必要な行動が困難な学習障害と、授業の間じっと座っていることができない注意欠陥多動症障害が見られたと報告されている。
当時の週刊誌報道で既知な情報もあったが、改めて狩谷の人生をまとめて読み返した寛生は考えさせられる。裁判を傍聴する度に思うことだが、100%悪という人間は滅多に存在しないのだ。凶悪事件を起こした犯人でも、多くの場合はそこに至った理由があり、過去から続く道を辿って最後に事件を起こしてしまう。たらればを言っても仕方ないが、狩谷がちゃんとした親の元に生まれ、発達障害と付き合う訓練がなされ、治療が必要な妄想に気づいてくれる誰かが近くに居れば、何もかもが違っていたことだろう。
寛生は一度胸の奥深くから息を吐いて、先を読み進めるためにコピー用紙を捲る。高校を辞めた狩谷は、ヤクの売人、暴行、窃盗、レイプと次々に事件を起こして少年院に送られる。その時に撮られた写真を見ると、まだあどけなさが残る少年だ。
少年院を退所した後は、犯罪歴のある少年の社会復帰を支援するNPOの手を借りて、土木工事の仕事に就く。勉強は苦手だった狩谷も身体を使った仕事は合っていたらしく、そこでの評判は良い。時々キレて小さな暴行事件は起こしても、職場では人間関係を構築することにも成功し、同僚たちは口を揃えて『いいヤツだった。まさか、あんな事件を起こすなんて』と驚きを隠せなかったようだ。
狩谷は呑むとよく、息子が居ると嬉しそうに話していた。結婚も認知もせずに逃げたと遠藤から聞いていたので、息子に愛情は持っていないと決めつけていたが、そんなことはなかったようだ。いつか息子と一緒に暮らすのが夢だと言っていたとの供述もある。そこには手書きで『公的記録ナシ。母親と息子の所在地・氏名・年齢は不明』と記入されている。狩谷と堤の親子関係を、石川が一度も疑わなかったのは、当時から息子の存在を知っていたのだと寛生は理解した。
誘拐された時は既に妄想を語っていたと堤が話したことから、一緒に暮らす夢を叶えたのは皮肉にも発病後だ。狩谷が息子を大切に思い、共に暮らしたいと願わなければ、堤が巻き込まれることもなかったと思うと、悲劇としか言いようがない。
寛生は一度顔を上げて、ここまでの情報を整理する。石川が語ったプロファイリングの秩序型、無秩序型の違いもそうだが、それ以前に、学習障害があった狩谷は、本を通して知識を得るのが不可能だ。襲撃しやすい家の選び方、防犯カメラの避け方、証拠の隠し方などを一体どこで学んだのか。堤は神の啓示に従っていたと言ったが、狩谷自身の妄想から湧き出たとは考え難い。石川が指示役の存在を疑うのも納得だ。
だが結局、特別捜査本部は指示役を見つけられなかった。携帯電話の通話履歴にあるのは、狩谷が仕事を辞めた後も一人だけ親交を続けていた元同僚だけ。当然捜査対象になったが、その男も狩谷と同様に、指示役ができる知的レベルではなかった。
数日掛けて資料を全て読み終えても、やはり当時解けなかった謎は、今もそのまま残されている。唯一当時と今で違うのは、狩谷と行動を共にしていた堤の存在だけだ。ここから先を紐解いていくには、堤の記憶が鍵となる。寛生は面会に行くために立ち上がった。
面会等のルールは、措置入院でも一般入院患者と同等だ。ましてや送致が見送られた今となっては、堤は被疑者ですらなくただの一般人。寛生はすんなり病室に辿り着いた。
ドアも開かれていたので、廊下の壁をノックして中を覗くと、堤はベッドの上に胡座をかいて、読んでいた本から顔を上げる。訪問を認めただろうに無言。武史と猛、どちらの人格なのか、寛生にはわからなかった。
「よぅ、落ち着いたか?」
歩み寄って話し掛けても、眉間に皺を寄せて視線は再び本へと戻ってしまう。何を読んでいるのかと覗き込むと、会計処理の新制度の解説本だ。ずっと姿を見せなかった武史が起きてくれたと、寛生は心の中で喜んだ。
「頭が痛くなりそうな本を読んでるなぁ。それって、仕事の勉強か? そう言えば、働いてる事務所に入院の連絡ってできたのか?」
無視されても構わず話し掛ける寛生にうんざりしたのか、両手で本をパタンと閉じて枕の上にぞんざいに投げる。武史にしては行動が雑だ。そして溜息をついた。
「これ以上あなたと話しても、時間の無駄なので帰ってくれませんか。檻の中に入れておけと伝えたのに、気がついたらここに居ました。不起訴になったそうですね。自傷他害の恐れが無くなったら、退院して自由の身だと聞いて、心底落胆しました。しかもここは警備が緩くて、せめて厳重に管理された病院に入れることはできなかったんですか?」
表情には侮蔑が浮かび、言葉選びも辛辣だ。それでも武史にまた会えたことは、寛生にとって間違いなく希望だ。
「俺が自由に決めていいなら、無期懲役にしたかった。だけど、日本はそういう国じゃないんだよ。それに一方的に期待されて、求めた結果が出なかったら、これまた勝手に落胆されても、俺としては『知るか』としか言えないって。そもそも俺は撃たないって、お前ならわかってたんだろ?」
意図して砕けた口調で答えたが、武史の仏頂面は崩れない。取調べ室で頭脳戦の攻防を楽しんでいた姿とは全く違い、今こそ素の武史に食い込むチャンスなのではないかと、刑事の勘が働いた。
「どう見ても女の影があるが、睦希も来てるのか?」
窓際の花瓶やテーブルに置かれたクッキーの缶を順に指さす。諦めたのか、武史は二度目の溜息をついた。
「それすら把握してないとは。あなたは本当に睦希を守る気があるんですか? 毎日大学とバイトの間に来てますよ。弟が俺を押し退けて出るので大丈夫だとは思いますが、この病室で二人きり。安全とは言えないですね」
「睦希はお前らと付き合い出してから、俺に秘密を持つようになったからな」
過去の資料に没頭している間にそうなっていたのかと、寛生の胸中には焦りが浮かぶ。だが顔には出さずに誤魔化すと、武史は苦笑を浮かべた。
「真っ当に成長してるじゃないですか。今までが異常だったんですよ」
皮肉たっぷりにからかわれたが、先程までの拒絶が薄れ、会話が成立し始めている。寛生は武史が食い付きそうな話題を更に投げた。
「なぁ、あの嘱託殺人は、もとより駄目元の計画だったんだろう? 俺から見れば、やっぱりお前は普通の人間とは感覚がズレていると思ったよ」
興味を惹かれたようで、堤の視線が上がる。寛生は返事を待たずに続けた。
「条件を整えて追い込めば、撃つ可能性があると仮定したんだろうが、銃社会の国ならともかく、日本人の多くはためらうよ。理性的なお前ですら、子どもの頃に殺害現場を多く見せられたせいで、その辺の感覚が麻痺してるんじゃないのか?」
「……そうかもしれないですね」
ポソッと武史が呟く。そして僅かに口角を上げた。
「俺は自殺のトライアンドエラーをずっと繰り返してるんですよ。今回は、あなたが俺の正体に辿り着いたら、考える時間を与えずに睦希の命と天秤に掛ける。直情型のあなたなら発砲する可能性もあると考えたトライだったんです。で、小野寺さん。今のあなたは十分に考えたと思います。この手はいつか睦希を殺すつもりですよ。改めて破壊してくれとお願いしたら、今度は受けてくれますか?」
「まだそんなこと言ってんのかよ。一旦、殺人や自殺から離れろって」
諦めてなかったのかと呆れながら、馴れ馴れしい口調で嘯き、寛生は断りもなくベッドの足元に腰を下ろす。武史は咎める視線を向けたが、拒絶はしなかった。
「睦希はさ、今度は自分がお前らを助けたいって言ってる。さすがにこれは放っておけない。なぁ、手を組まないか? 睦希を守るために協力しよう」
「どうやって? あなたは二十四時間、睦希や俺に張り付いていられないでしょう?」
武史の反応は薄い。寛生はここ数日考えていた提案を始めた。
「三人で同居しよう。お前らと睦希の距離は近くなるが、俺の目の届かない所で会われるよりかは遥かにマシだ。だから、あの後すぐに警察を辞めるって言ったんだ」
「えっ、辞めたんですか?」
武史は素で驚いた様子だ。今までずっと掌で転がされた寛生としては、やっと一矢報いた気分だ。
「いや、辞め損なった。結局警察に残って、お前をシメてた石川さんの下で、狩谷事件をコツコツ地道に調べ直すことになった。他の業務もあるから、全ての時間を割けるわけじゃないが、時間の融通は前より利く。睦希がバイトから帰宅するより前に必ず帰る」
他の業務など存在しないが、そこは嘘をつく。きっと堤兄弟から隠れて行動したい時もあるだろうと、今後を考えての嘘だ。悪くない提案の筈だと寛生は期待したが、まず最初に武史の顔に浮かんだのは、不愉快そうな表情だった。だがその拒絶の色は徐々に消え、最後に息を吐いて肩の力を抜いた。
「先に整理させてください。まず、警察は父の事件を再捜査するんですか?」
武史は一番にそこを確認する。寛生は隠すつもりはなかった。
「表立って再捜査をするわけじゃないが、石川さんと俺で、まだ残っている疑問の解明は続ける。取調べ室でお前も聞かれただろ? 解っていないことが残ってるんだよ。協力してくれ」
「尋問ではなく、協力を要請するとは。あなたも聞きましたよね? 俺は記憶を持ってない。警察が知りたいことを明らかにするには、妄想にシンクロしている人格を起こす必要がある。危険だし、あなたの目を盗んで睦希を襲うかもしれない。その時、俺や猛が制御できるかわかりませんよ」
強い視線で懸念を伝える武史だが、これもどこまでが本当なのかわかったもんじゃないと寛生は感じている。だが、手を組める唯一の存在が武史だ。なんとか説得したかった。
「確かに危険もあるが、メリットもある。お前が表に出ていない時間は、俺が睦希のボディガードをする。その代わり、お前には狩谷事件の埋まっていないピースを探す協力をしてもらう。記憶がないなら、妄想人格を起こさずに掘り起こす方法を探す。これでどうだ?」
説得の言葉を聞き終えた武史は、大きく息を吸い込む。そして、それを全て吐き終えるまで、考える時間を取った。
「煙草くさくて声も図体も動きもうるさいあなたと同居するなんて。想像しただけで気が滅入ります。でも、あなたが自分から提案してくれたことは評価しますよ。一旦持ち帰って検討したいので、明日一日ください。俺も良く考えたいし、相談も必要です」
「誰と?」
猛とだろうと思いながらも、他にも隠された人格が居る可能性を探ろうと、寛生は間髪入れずに問い掛ける。武史は質問の意図を察した様子で、苦笑を浮かべた。
「猛とですよ。同居となると抵抗するでしょうね。猛は俺と同じ家に住むだけでも嫌がっているのに、ましてや睦希と親しい他の男と同居なんて。承諾するとは思えません」
テリトリー内に他の雄が侵入してくるのを嫌うのは、男の本能だ。猛の反発は寛生にも予想できた。それでも言下に断らないということは、可能性があるのではないか。
「わかった、明後日また来る。良い返事を期待してる。なんとか猛を説得してくれ」
寛生はベッドから腰を上げ、武史に向かって頭を下げた。




