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鵺の呼ぶ声  作者: 松岡織


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競謀 - 3


 夜間受付に到着した時には、既に夜の十一時を回っていた。主治医の名前を告げると精神科に電話連絡がなされ、五階まで上がるよう案内される。連絡を受けた精神科の看護師が受付カウンターで待っていたので、改めて警察手帳を提示した。

藤岡(ふじおか)は今夜ちょうど当直で、院内に居るので連絡してみます。そちらのソファでお待ちください」

「そうですか!」

 四十八時間しか身柄拘束ができない中、この巡り合わせは幸運だ。寛生は思わず声が弾んでしまった。勧められたソファには座らず、受付前で森と並んで待っていると、すぐに白衣の男性がやって来る。頑固そうな面構えで、頭髪も顎髭も白髪が半分くらいを占めている。警戒していることがその表情から見て取れた。診察室に通され、藤岡医師と二人は向かい合う。

「夜分に申し訳ありません。先生が診ている堤武史という患者について、お伺いしたいことがあります」

 堤の名前を聞いた瞬間、藤岡医師の視線が揺れる。そして先を探る表情で足を組む。寛生が簡潔に今日発生した事件の顛末だけを伝える間、藤岡は組んだ足の靴先を時々上下に揺らしながら、無言で耳を傾けている。

「堤は解離性同一性障害だと聞いていますが、間違いないですか?」

 最後に寛生が問い掛けると、藤岡は思案するように顎髭を撫でた後に、二人に厳しい視線を向けた。

「守秘義務があるし、医師は証言拒否権が保証されているんじゃないか?」

「その通りですが、事件の要となる大事な部分なんです」

 門前払いな雰囲気に、寛生は前のめりに食いつく。横から森が肩を掴んで寛生の上体を後ろに引き戻し、会話を引き取った。

「先生。精神疾患がないとなると、堤は脅迫罪または強要罪に問われる可能性があります。が、精神疾患が原因で起きたとなると、自傷他害の恐れがあるケースとして、保健所からの入院命令で終わりになるかもしれません。患者が不利益を被る情報提供にはあたらないと思いますが」

 法律に詳しい森が、それに則った説明を行う。病気の有無が大きく結果を分けると理解した藤岡は、ここでまた長考の時間を取った。

「……なるほど。それなら必要最低限だけ伝えよう。堤くんは確かに解離性同一性障害で、十二歳からずっと私が診ている。また、この病気の患者は自殺を試みることが珍しくない。事実、堤くんの中のある人格は、過去に何度か自殺未遂を起こしている。だがそれを止めたい人格もいるので未遂で済んでいた。今の話を聞いた時に、自力では成功しないので、他人に殺させようとしたのだろうと想像した。これは担当医としての所見だが、彼は自傷はするが、他人に危害を加える可能性はゼロに近い。起訴しないでうちに入院させてくれないか?」

「そうですか。ありがとうございます。今この場では回答できませんが、検討材料とさせていただきます」

 必要な情報としてはこれで十分だ。礼と共に森は腰を上げようとしたが、寛生はまだ退けなかった。堤の中にいる、狩谷に従って睦希を殺そうとしている人格 ―― 寛生にとっては最大の敵であり、静かな堤に自殺という最終手段を決意させた危険な人格だ。この主治医は把握しているのだろうか。

「他人に危害を加える可能性がないと言うのは本当ですか? 堤が人質に取った恋人は私の従妹なんですが、堤の話を聞いていると、従妹に対して殺人の欲求を抱いている人格も居るんじゃないですか?」

「おい、小野寺っ」

 捜査の範囲を越えた個人的な質問を森が(とが)める。だが、藤岡医師は驚いた表情を浮かべ、組んでいた足を解いて寛生を真っ直ぐに見た。

「あんた、小野寺か。その、堤くんの恋人の名前を聞いてもいいか?」

「え? はい。従妹は小野寺睦希ですが、それが何か?」

 名を伝えると、藤岡は納得したように数回頷く。先ほどまでは拒絶一色だった藤岡の表情に変化が起こった。

「患者本人が承諾している場合に限り、守秘義務は免除されるんだが、堤くんは、君と、あと小野寺睦希さんに対してのみ、二人揃っていれば病状を詳しく話してもいいと許可している。連れて来るなら話をしよう。ただし個人的に話すだけで、証言ではない」

 予想外な提案をどう判断すべきか。寛生の心はすぐには決まらない。敵を知るために話は聞きたい。だが、そもそも堤は何のために情報を開示するのか。

「睦希にはこれ以上、堤の情報を与えたくありません。俺だけでは駄目ですか?」

「なら話せない。それが承諾の条件だ」

 睦希を同席させるとなると寛生の警戒心はどうしても上がる。それに堤の正体を知っても離れようとしない睦希が聞いても、大丈夫な内容なのだろうか。

「本人の意向を確認してお返事します。話を聞かせてもらうとなったら、なるべく早いタイミングがありがたいのですが、先生のご都合はいつがよろしいですか?」

「一番早くて、明日の朝。外来が始まる前の朝七時頃に来てくれるか? 断るなら電話をくれ。今夜は当直だから何時でもいい」

 早い展開は警察としてはありがたい。藤岡は診察デスクの引き出しを開け、携帯番号が記載された名刺を差し出した。


 病院から署に戻る。午前零時を回っていても、会議室のメンバーは全員残って二人の帰りを待っていた。精神疾患が主治医により証言されたと伝えると、皆が渋い表情だ。やはり、解離性同一性障害には懐疑的なのだろう。過去の自殺未遂の情報も共有すると、署長は両手を腰に当てて肩を竦めた。

「森、明日の朝九時に検察庁(サッチョウ)のアポを取った。原田と一緒に行って相談して来い。あと、小野寺は睦希さんを説得して、詳しい病状を聞いて来てくれ」

「……いや、署長。俺はこれ以上睦希を巻き込みたくないです。睦希は一般人です。それに藤岡医師には供述ではないと釘を刺されています」

 いくら上司の命令が絶対な警察だろうと、こればかりは二つ返事で従えない。寛生の返事を聞いた署長は思案する表情を浮かべた。

「わかった、もっともな意見だ。睦希さんが自分の意志で行きたいと言った場合だけでいい。その上で事件に関係ありそうな内容だけを共有してくれ。供述としては使わない。これでどうだ?」

「ご配慮ありがとうございます。これから家に戻って話してみます」

 署長が譲歩したのでそうは答えたが、寛生はまだ、これ以上深入りさせるのはどうなのかと迷っている。一連のやり取りを聞いていた石川が、そこで口を挟んだ。

「行きたくないと言った場合、若い女性警察官を代役に立てないのか?」

 一体何を言い出したのか。驚いた寛生が視線を向ける。他の署員も全員が同じ反応だ。署長が苦笑を浮かべた。

「勘弁してください。違法捜査だし、確実にバレますよ」

「ははっ、だろうな」

 冗談だと言いたげに石川は笑い飛ばしたが、本気だったのではないか。潜入捜査も行う公安ならやりかねないと、寛生の不信感がより一層深まる。だが同時に、石川は狩谷事件の真相究明に意欲的にも見える。気に入らないお偉いさんではあるが、優先順位は堤の関与の有無を知ることだ。上等だと割り切ることにした。


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